鈴木君はキャバ嬢のバイトをしている
【内容紹介】同級生で親友の鈴木は週2回ほどスカートで大学に登校する。といっても女装ではなくスコットランド兵の制服のようなスカートでありカッコいいと思っていた。しかし、ひょんなことから主人公は鈴木の秘密を知り愕然となる。鈴木はキャバ嬢のバイトをしていたのだった！
第一章 憎めない友達
僕の友達の鈴木一哉は相当な変人だ。小学校五年で同じクラスになり、中学に入ってから親友になった。同じ高校に進学し、二人ともサッカー部に入って毎日一緒に汗を流した。高三の夏の大会の二回戦で敗れてから勉強に励んだが志望の大学には届かず、気が付いたら二人ともＮ大学の同じ学科に進学していた。
鈴木は同級生に対して「茜沢は小学校以来の親友だ」と公言しているが、僕は人前では鈴木と特別な関係にあると思われないように注意している。鈴木の変人の度合いがちょっとやそっとではないので、同類の人間だと思われたくないからだ。
もし大学で変人コンテストがあったら、鈴木は毎回上位に入賞するはずだ。まず、度肝を抜かれるのは服装だ。鈴木はファッションセンスの良さに自信を持っており、革ジャン黒ずくめで登校することもあれば、その翌日にはスカートをはいてくることもある。僕は鈴木のことを熟知しているので驚かないが、知らない人は唖然とする。ところが、不思議なことに鈴木のスカート姿は全くグロテスクではなく、シュールな美しさを感じさせる。
だから鈴木を軽蔑や侮辱する人はいない。枠にとらわれずに自己表現できる鈴木はすごいと称賛する人も多い。性別という枠を超える領域の自由度に挑戦するには勇気が必要であり、それに成功しているように見える鈴木は尊敬に値すると僕も思っている。
しかし、僕は鈴木の真似をするつもりはない。鈴木は単に枠を超えた自己表現以上のことをしているからだ。
鈴木がキャバクラで割のいいバイトを始めたことは本人から聞いていた。キャバクラでウェイターとして仕事をすればキャバ嬢と仲良くなる機会もあるだろうが、僕はうらやましいとは思わなかった。僕はキャバ嬢よりは学内の女子や合コンで知り合う女子大生の方に興味がある。
異変を感じたのは六月の初めの金曜日、大学の帰りに鈴木のアパートに立ち寄ったときだった。トイレにかかっていたタオルに妙な色の汚れがついており、部屋にかすかな香水の匂いがしたので、前夜にバイト先のキャバ嬢を連れこんだのだろうと推測した。きっと鈴木はわざと女性が部屋に来た痕跡を僕に気づかせてからおもむろに自慢話をするつもりなのだろうと思った。
「さすが鈴木君！ タオルに化粧品がついているとはすごい！ 僕にはとても真似できないことだ」
僕は脱帽した表情で鈴木を持ち上げた。
すると、鈴木の顔が見る見るうちに蒼白になった。ドヤ顔を期待していた僕は、鈴木に何が起きたのか心配になった。
「茜沢、このことは誰にも言わないでくれ。頼む、秘密を守ると誓ってくれ」
女の子を自分のアパートに連れ込んだことを知られてマズいのは親ぐらいなのに、どうして鈴木が狼狽えるのか理解できなかった。
「そんなことを僕がわざわざ言いふらすわけがないよ。もし知られてもどうってことないんじゃない？ みんなは鈴木君をすごいやつだと思っているし、特にスカート・ファッションは度肝を抜くほどかっこいいと心の中で拍手している人が多いはずだ」
「それとこれとは別問題だ。大学にはいていくスカートは男でもここまではＯＫというぎりぎりのところを狙っている。いや、わざと境界線を少しだけ乗り越えて、挑戦的な効果を狙ったファッションが成功していると自負している。でも、そのオレがキャバ嬢のバイトをしていることがばれたら、何もかもぶち壊しだ！」
「キャ、キャ、キャ、キャバ嬢？！ 鈴木君がキャバ嬢をしてるの？」
「え……。バレたんじゃなかったの？」
「いや、部屋に香水の匂いがしたしタオルに化粧品がついていたから、バイト先のキャバ嬢をお持ち帰りしたのかと思ったんだけど」
「しまった！ オレとしたことが……」
「ショックだ！ 鈴木君がオカマだったとは！」
「オカマ！？ 茜沢はその程度の理解しかできないのか？ オレの方がショックだ」
鈴木が居直ったのには驚いた。
「はぁ？ 男がスカートをはいてお化粧をしてキャバ嬢になったら、オカマ以外の何なんだ？」
「オレはノンバイナリーだ。男とか女とか、自分を枠にはめることを拒否している」
「さっき自分でキャバ嬢のバイトをしてると言ったよね。『嬢』は女の子じゃないの？」
「言葉尻を捕らえるなよ！」
「バイトがある日はスカート姿で大学に来て、帰りにキャバクラで働いているわけ？」
「大学にはいていくスカートはノンバイナリーの自己表現のファッションだ。あんなスカートで店に出たら客が寄り付かない。バイト用の衣装は当然フェミニンでセクシーなドレスだけど、店から貸してもらっている」
「ヒラヒラでスケスケのドレスを着てお化粧までして客の相手をするのが、オカマじゃなくて何なの？ ははぁー、わかった。鈴木君は女になりたかったんだ」
「いや、オレは断じてトランスジェンダーではない。男と女と両方の世界を体験して、男と女の両方の感性を持っている人間になりたいんだ」
「鈴木君は高二の時には三井沙也加さんが好きだったよね？ いつから男が好きになったの？」
「言っただろう！ オレは男と女の両方の感性を持った人間になるつもりなんだって」
「どうでもいいけど、僕が知りたいのは鈴木君がいつから男も好きになったのかということだ。去年の秋ごろから僕に対してよそよそしくするようになったのは、僕を好きになったから？」
「アハハハ。バーカ、茜沢は親友として好きだけど男性として好きになることはあり得ない。そもそも茜沢の方がオレよりもずっと神経が細やかで気配りもできるからキャバ嬢に向いた性格なんじゃない？ だから今日も気づかれてしまった。オレがキャバクラでウェイターのバイトを始めたのは一年近く前だけど、初めてドレスを着させられてキャバ嬢になったのが去年の秋だ。それからは茜沢に気づかれないように注意していたから、よそよそしくなったと感じたんだろうな」
「キャバクラの仕事って、男と話をするだけ？ それとも……」
「知らないようだから教えてやろう。キャバクラはキャバ嬢とトークをする場所であって基本的におさわりは禁止だ。個々の店のルールによるけど、手を出したら即出入り禁止になるところもあるから、茜沢も気をつけろよ」
「僕はキャバクラなんかにいくつもりはないよ。でも、本当に鈴木君はお客さんから触られたりキスされたりしないの？」
「お店の中ではね。同伴やアフターの場合は軽いボディータッチぐらいなら許すこともある」
「同伴？ アフター？」
「同伴というのは女の子と外で落ち合って食事や買い物をしてから一緒に入店することで、アフターは女の子の仕事が終わるときに一緒に店を出て食事やカラオケに行くことだよ」
「ほら、自分のことを『女の子』と言ったじゃないか」
「また言葉尻を捕らえる……」
「『アフター』で夜遅く客と二人で店を出たら、男と女がすることって限られるよね」
「テレビに出てくる『縁交』とか『売り』を想像しているみたいだけどそれは個人が勝手にやることであって、店とは無関係な行為だ。プロのキャバ嬢は指名を重ねてくれた客とは親しくなるけど、女の子の意志を尊重しない客と同伴やアフターに行ったりはしない」
「鈴木君が娼婦になったわけじゃなさそうだからほっとした」
「茜沢はオクテだから実情を理解できたかどうか不安が残るな。オレがバイトしている店のキャバ嬢は八割が女子で二割がトランスだ。客は八割が男性で一割が女性、残りの一割がゲイバーのホステスという感じで、性別の枠にとらわれない社交場なんだよ」
「鈴木君はヒラヒラのドレスでバイトをしてるってことは、男性客を専門にしてるの？」
「オレのお客さんは男女半々だよ。うちの店に来る女性客はドレスを着て化粧をした『男の娘』とトークを楽しみたいから来るのさ。『男の娘』の方が女子のキャバ嬢より話が面白いからね。それに『男の娘』を上から目線で弄 るのを楽しむ女性もいる」
「鈴木君も女性から上から目線で弄られたり、スカートの中に手を入れられたりするのに快感を感じるのか？」
「プロのキャバ嬢は好き嫌いを度外視してでも指名してくれる常連客を獲得するために頑張ってる。いずれにしても、おさわりは原則禁止だと言っただろう」
「うーん、商売のためにいろいろ我慢するんだろうけど……。で、鈴木君はアフターに行ったことはあるの？」
「もちろんさ。指名してくれる客を確保するために最も有効な手段だから」
「もしかして、アフターでキスをしたことは？」
「その質問に答えるつもりはないよ。その相手が男だったか女だったかについてもね」
「あるのか！」
鈴木がシマッタという顔をしたので、客とキスをしたことがあるのだなと思った。そこまで行ったらフーゾクの一歩手前だ。普通なら男がキャバ嬢として働き始めるだけでも境界線を越えてゲイかニューハーフの世界の人間になることを意味するのに、キスまでしたとは……。
「親友として忠告する。パパ活はやめておけ。僕は鈴木君が風俗嬢に身を落とすのを見たくないんだ！」
「アハハハ。ご忠告ありがとう。茜沢は本当にいいやつだな。茜沢が考えているようなことは全くしていないから心配するな」
「しかし……」
「オレはノーマルなノンバイナリーだ。キャバ嬢のバイトをしているだけであって、ゲイでもニューハーフでもないし、風俗にも興味はない」
鈴木が主張するノーマルなノンバイナリーの定義がよくわからないが、たしかに僕の目の前にいる鈴木は昔からずっと変わらない鈴木のように見えた。
その日は、秘密を厳守することを再度約束させられて、すっきりしない気持ちのまま鈴木と別れた。
第二章 代役
六月の中旬の水曜日に学食でカツカレーを食べているときに、突然鈴木が真剣な表情になって僕に言った。
「オレ達、親友だよな」
「そうだけど、今更どうかしたの？」
「この週末は空いてる？」
「特に予定は入っていないけど、何？」
「折り入って頼みがあるんだ。事情を知っているのは茜沢だけだから他の人には頼めない」
「僕だけが知っているって……」
――キャバ嬢のバイトのことを言っているのか！
「イヤだ。とんでもない。絶対に引き受けないぞ。鈴木君は枠に縛られないとか言い訳できるかもしれないけど、もし僕がスカートをはいたら人生が終わってしまう」
「アハハハ、誤解してるみたいだな。オレの代わりにキャバ嬢のバイトをやってくれとは言ってない」
「ちがうの？！」
「実はオレ、憧れの女性から旅行に誘われて、金曜日の夜から二泊三日で彼女の別荘に行くことになった。いつもオレを指名してくれる大事なお客さんなんだけど、ウェイターとして働いていた時からオレに目をかけてくれていて、オレも単なるお客さんとしてではなく一人の女性として尊敬している人なんだ」
「別荘を持っているとはすごいな。どこにあるの？」
「強羅にある温泉付きの別荘だそうだ」
「強羅というと箱根だな。別荘を持っていると聞いて尊敬が恋心に変化したの？ キャバ嬢としての『アフター』だったはずが、個人としての自由恋愛に発展したというわけか」
「言い方がしつこいな。ウェイターをしていた時から尊敬していたのであって、別荘とは関係ないよ。間が悪いことに、土曜日の夕方には大切な食事会の先約があって、ダブルブッキングになってしまった。だから、茜沢に代理で行って欲しいんだ」
「わかった。僕が鈴木君の憧れの女性と一緒に箱根に行けばいいんだね」
「バカヤロウ！ 土曜日の夕方の食事会の方だ」
「ちょっと冗談を言ってみただけだよ。いいよ、ただで食事できるなら」
「ありがとう。持つべきものは親友だ。茜沢なら引き受けてくれると信じていた」
「でも、その食事会って、本人が行かなくても大丈夫なの？」
「食事の相手はオレの親父の会社の客先のオーナー社長だ。三十三歳だけど結構美人で、大金持ちだそうだ」
「えーっ、食事会って一対一なの？ それではまるでデートじゃないか」
「単なるデートじゃなくて、見合いだよ。十四歳も歳が離れているから、お互いにまず成立しないと了解したうえでの見合いだ。だから茜沢は単なる食事会として気軽に行くだけでいい。その夜にでもオレから親父に断ってくれと連絡をすれば後腐れは残らない」
「見合いなら本人が行かなきゃダメだろう！ そもそも、鈴木君の写真をお父さんから受け取っていたら一発でバレるよ」
「いや、オレだってその女性の写真を見ていないし、親父はオレの写真は持っていないから相手も写真は見ていないはずだ。茜沢とオレは身長がほぼ同じで体型も似ているから大丈夫さ」
「僕は自分が鈴木君と似ていると思ったことはないんだけど……。万一バレたら大変だから、憧れの女性か女社長のどちらかに、予定を変えてくれるよう頼んでみろよ」
「実は今朝親父に見合いの日程を来週に変更してほしいと電話したら、会社をつぶす気かと怒鳴られた。その女社長は約束を守ることに関して非常に厳しい人だそうだ。憧れの人に見合いのことは口が裂けても言えない。もし断ったらキャバ嬢と指名客の関係のままになって、オレは一生後悔することになる」
「事情は分かったけど、僕には荷が重すぎるよ。もし見合いの途中で代役だとバレても責任はとれないぞ」
「万一の場合の責任はオレがとる。茜沢はベストを尽くしてくれればいい。ただし、見合いの席で次回のデートの約束は絶対にしないようにな」
「あたりまえだろう。相手の女性に失礼のないように、しかも好かれないように食事をすればいいんだな。それにしても荷が重いな……」
「この恩は一生忘れない。ありがとう、茜沢」
結局、鈴木に押し切られてしまって、大役を引き受ける羽目になった。
＊＊＊
金曜日の夜、鈴木からＬＩＮＥが入った。既に憧れの女性の別荘に到着しており、彼女が風呂に入っている間に一言お礼を言いたかったとのことだった。自分がこの世に生を受けたのは今夜のためだったと大げさなことを書いてあったが、僕は鈴木の無理を聞いて大役を引き受けた甲斐があったと思った。
箱根の別荘には彼女が運転する高級車で行ったのだろうか？ 鈴木が憧れの女性と別荘に入る姿を思い浮かべようとして思考が止まった。キャバ嬢と常連客の関係ということは、ヒラヒラのドレスを着て彼女について行ったのだろうか？ いや、そんな恰好でアパートから出て行くのはまずいから、大学に着て来るのと同じスカートで行った可能性が高い。いずれにしても、温泉付きの別荘に誘われたのだから、何をするのかは見当がつく。
しかし、彼女が何歳で、どんな仕事をしている人なのか、大柄なのか小柄なのかも鈴木から聞いていなかったので、二人の箱根行きについてはそれ以上のイメージが浮かばなかった。
＊＊＊
土曜日の夕方、僕は鈴木から言われていた通り、六本木のグランドハイアットホテルのロビーで雨宮ルリカという女性と落ち合った。ビジネススーツを着たキャリアウーマンを頭に描いていたが、僕の期待は完全に外れた。長身の美しい女性で、ハイヒールのせいで僕より少し背が高く見えた。ライトグリーンの六分袖のゆったりとしたロングのワンピースを着た彼女は、優雅でいてさりげない感じがした。話題も幅広くて堅苦しさは全く感じさせなかった。十四歳も年上だが、お姉さんというよりは、とても魅力的な異性だった。
雨宮は二階のフレンチ・レストランに僕を連れて行った。高級な店に何気ない感じで足を踏み入れると、案内されたテーブルで景色の良い方の席に僕を座らせ、ワインリストを手に取って南アフリカ産のシラーズを注文した。
「あのう、僕はまだ十九歳なので……」
と言いかけたのを、唇の前に人差し指を立てて、
「シーッ！」
と制止した。
その時のいたずらっぽい目の輝きを見て、僕は彼女が好きになった。
料理のメニューを見ながら、
「鈴木君は肉と魚とどちらが好き？」
と聞かれたので、
「どちらも好きです。本格的なフレンチレストランに来たのは初めてですので、全ておまかせします」
と答えた。
信じられないほどおいしい料理を食べながら気の張らない会話をした。雨宮と結婚すれば、一生お金の心配をせずに毎日おいしいものが食べられる。こんな魅力的な女性との見合いの機会を逃した鈴木は本当にアンラッキーだ。確かに、スペックが高すぎる女社長と結婚したら、それなりの苦労はあるだろうが、就活やサラリーマンの悲哀とは無縁な人生を送ることができる。
キャバクラのひいき客が、雨宮と比較対象になるだけのレベルの女性である確率は高くないはずだ。仮にそうだとしても、キャバ嬢とひいき客として始まった関係は後々尾を引くのではないだろうか。雨宮となら歳は違っても対等な男と女として一生を送れるのに、キャバ客の方に走ってしまった鈴木は気の毒としか言いようがない。
しかし、僕は雨宮の魅力に浸っているわけにはいかなかった。今夜か明日には鈴木がお父さんに断りの電話を入れることになる。雨宮から嫌われるように振る舞うのが僕の役目だ。しかし、好きな人に嫌がられるような言動をするのは思っていたほど簡単ではなかった。酔いを味方に、わざとトンチンカンな返事をしたり、音を立ててスープを吸ったりしたが、そのたびに心が痛んだ。
約二時間の食事が終わり、半ばほっとして、同時に名残惜しい気持ちでレストランを出た。
「今日は楽しい時間を過ごさせていただいてありがとうございました」
と僕はお辞儀をしながらお礼を言った。
「本当にそう思っているの？」
と、雨宮が意地悪な視線で僕の目の奥を覗き込んだ。
「も、もちろんです」
「目を見ればわかるのよ。見合いの約束だけは果たしたという解放感がありありとしている。家に帰ったらお父さんに断りの電話を入れて、それでお終わらせるつもりね」
「違います。決してそんなつもりは……」
「じゃあ、次のデートの約束をしておこうよ。来週の土曜日はどう？」
「そ、それは……」
「ほら、やっぱり断るつもりなんじゃない。初めからそのつもりで来たんだ」
「すみません……」
僕が素直に詫びると、雨宮はおかしそうに笑った。
「正直なところに好感が持てる。いいわよ。帰ったら、お父さんに断りの電話を入れなさい。その代わり、もう少しだけ付き合って。鈴木君とお酒が飲みたいから」
「それで許していただけるんですね。助かった！」
「助かったと言われると悲しいんだけど」
エレベーターに乗ると彼女は十二階のボタンを押した。十二階にバーがあるのだろうか？
エレベーターを降りて右の方に歩いて行った。廊下の突き当りまで来たとき、彼女が目の前のドアを開けた。
「部屋で飲む方がゆっくりできるから」
既にこのホテルにチェックインしていたのだとわかった。女性の部屋に足を踏み入れることには抵抗を感じたが、今更バーで飲みたいと言い出せる雰囲気ではなかった。彼女は僕をソファーに座らせ、電話でシャンパンのルームサービスを注文した。
「普段は大学の講義が終わったら友達と飲みに行ったりするの？」
「たまにファミレスに食事に行ってドリンクバーで長時間おしゃべりすることはありますけど、未成年ですからお酒は飲みません」
「まじめなのね」
「最近は年齢を証明できるＩＤを求める店が多いんです」
「バイトはしてるの？」
「ええ、少し」
「どんなバイト？」
何と答えるべきか迷ったが、鈴木がキャバクラ以外のバイトをしたことがあるとは聞いたことがなかったので、お父さん経由で話が食い違わないようにしなければと思った。
「えーと……飲食業です」
「お酒も出る店なのね。未成年でもお酒を提供する側に回るのはいいんだ」
「ええ、自分が飲まなければ大丈夫です」
雨宮はフーンと言ってほほ笑んだが、それ以上の質問をしそうな気配がなかったので安堵した。
ちょうどその時、ボーイがシャンパンのボトルとグラスを持ってきた。
僕はボーイに姿を見られてはいけないような気がして、浴室のドアの陰に隠れた。
ボーイが立ち去ると、
「やっと二人になれたわね」
と雨宮が言って、僕を自分の前に立たせた。
「えーと……」
僕はどう反応すべきなのかアイデアが浮かばなかった。
「私のことを、鈴木君を指名した客だと思って、いつものようにサービスをしてみて」
雨宮の言葉の意味がつかめなかった。
「僕を指名したお客さん……ホストクラブごっこみたいな？ 面白い発想だと思いますけど、どんなサービスをすればいいのでしょう？」
「いつもキャバクラでお客さんにしているのと同じようにサービスしてくれればいいのよ」
「キャ・バ・ク・ラ……」
不意を突かれてあたふたした。
「隠しても無駄よ。鈴木君の普段の行動については調べがついてる。見合いする相手について予め探偵を使って調べるのは当然でしょう。それにしてもキャバクラでアルバイトをしていると知って驚いたわ。しかもキャバ嬢として」
「お願いです。キャバ嬢のバイトのことは父に言わないでください」
「いいわよ。心を込めてサービスをしてくれたら秘密にしてあげる。ドレスを持ってきたからいつもの茉莉花になりなさい」
「茉莉花？」
その名前は初耳だった。
「キャバクラでの源氏名が茉莉花だということも分かっているのよ。さあ、茉莉花、服を脱いで、このドレスに着替えて」
彼女はスーツケースから青いワンピースと下着を出してベッドの上に置いた。
全く想定外の状況になって途方に暮れた。
「どうしてもこんな服を着なきゃダメですか？」
雨宮はその質問には答えずに僕のズボンのベルトに手をかけて、ベルトを引き抜いた。この場を逃れるのは不可能だと覚悟した。
僕は雨宮に背を向けて服と下着を脱ぎ、白いレースのショーツとブラジャーを身に着けた。彼女が冷たい手でブラジャーのホックをとめてから僕を自分の方に向かせて、ティッシュペーパーほどの重さしかなさそうなワンピースを僕の頭から被せた。そして彼女は僕の正面から腕を回し、ドレスの背中のジッパーを上げてホックを留めた。
彼女は僕のウェストに手を回してソファーへと誘い、並んで腰を掛けた。
「さっきまでの鈴木君と今の茉莉花のどちらが本当のキミなの？」
僕が何も答えられずにいる間、雨宮は僕の太ももに手を置いてドレスの裾を指で弄った。
「私にはわかってる。今が本当の茉莉花よね？」
本当の自分が女性だと答えるわけにはいかない――鈴木のためにも、僕のためにも。鈴木の言葉を思い出して反論をした。
「僕はノンバイナリーですから、バイトをしているとき以外は普通の男性です」
自分でも意味のないことを言っている気がした。
「ノンバイナリー――いい言葉だわ。そんな茉莉花が好き。私と会うとき以外は普通の男性のふりをして生活をしてもいいわよ。私の前では本当の自分をさらけ出して私だけの茉莉花になってほしい。私が会社で仕事を終えて帰宅すると、茉莉花が待っていて疲れた私を癒してくれる。そんな生活がしたい」
「お酒を少しだけ付き合えば、父に断りの電話をしていいとおっしゃいましたよね？」
雨宮は僕の質問には答えなかった。
「私が『普通の夫』に我慢できると思う？ 絶対に無理だということは若い時からわかっていた。私は男から見下されたり、保護されたり、攻撃されるのが大嫌いなのよ。数年前に、ずっと年下の男なら一緒に暮らせるかもしれないと思いついて、何人かと付き合ったけどしっくりこなかった。私はきれいな子じゃないとダメなんだけど、顔かたちのいい男子は心のどこかに思い上がりがあって鼻につくのよね。一人だけ傲慢さを感じない男子が居たんだけど、卑屈さが気になって、すぐにいやになった。
最近、鈴木さんに大学生の息子さんがいると知って、鈴木さんに似ていたらそこそこきれいな子だろうと思って見合いを申し込んだ。探偵社に調査を依頼したらキャバ嬢のバイトをしているとわかって、どんな子なのだろうと楽しみにしていたの。実際に現れたのがドストライクの男の子だったからドキドキしたわ。傲慢さや卑屈さがなくて、素直な子だったからうれしかった。最初から断るつもりで義理で見合いに来たのが見え見えだった。わざと嫌われようと慣れない仕草をするのに苦労している様子がいじらしかったから、私は茉莉花と結婚することに決めたのよ」
「でも、僕はまだ十九歳で、どんな道に進むかも決めていないし、結婚なんてずっと先の話だと思っているので……」
「若い時は誰でもそうよ。自分にはあらゆる可能性があると思っている。でも、実際はそうはいかない。就活で苦労をして入社すると現実世界の厳しさを思い知らされる。私は今の無垢な茉莉花を手に入れて、私の手で茉莉花が幸せな人生を歩めるように導きたいの。何も心配せずに私に任せてついてくればいいのよ」
「気に入っていただいたのはありがたいんですけど、僕は将来国際的な仕事をするのが夢ですから、商社とか、世界的なメーカーとかに就職したいと思います。社会人になってから改めて見合いをさせていただくというのはいかがでしょうか？」
「私の会社は世界各国と取引があるし、アメリカと中国に関連会社もあるから国際的な仕事に携わることができる。入社初年度から海外出張をさせてあげるし、順当に行けば取締役にもなれる」
取締役という言葉は僕にとって殺し文句だった。
「でも、雨宮さんに対しては茉莉花として接しなきゃならないということは、スカートで出社しろということじゃないんですか？ ……」
「アハハハ、そんなことを心配していたのか！ 普通の男子社員として入社して背広にネクタイで働いていいのよ」
「家に帰ったら女性の服に着替えるということですか……」
「そうとは限らない。今夜は茉莉花にキャバ嬢のドレスを着させたかったけど、結婚してからどんな服を着るかは、その時に茉莉花の希望を聞いてから私が決める」
「家でも男物の服を着たいと希望すれば、女装しなくていいんですね？」
「そんなことは些細な問題だわ。要するに何もかも私にまかせて言われた通りにしてほしい。茉莉花にはいつも幸せでいてほしいから、茉莉花の気持ちは大事にしてあげる」
「他人まかせの人生でいいんでしょうか……」
「他人まかせじゃなくて、この私にすべてを委ねるのよ。ひょっとしたら茉莉花は受身が悪いことだと思っているんじゃない？ それは違う。受身を許される人間は一握りしかいない。茉莉花はそんな一握りの選ばれた人間だから自信をもって」
「僕に受身の人生を送れと……」
「その通りよ。この場で今すぐ返事しろとは言わない。茉莉花にとってたった一度の人生なんだから、私が自分の人生を託すに値する人間かどうか判断するための時間をあげる。二週間後の土曜日の夜、このホテルで食事をして、この部屋でお酒を飲みながら最終的な返事を直接聞かせてほしい。お父さん経由で電話で断るのはＮＧよ。もしそんなことをしたら、キャバ嬢のバイトのことをお父さんにバラすから」
「もし二週間後にこの部屋でＮＯの返事をした場合でも、僕がキャバ嬢のバイトをしていることは内緒にしていただけるんですね？」
「その通りよ。但し、断ることを前提で付き合うんじゃなくて、二週間は真摯に私と向き合うと約束してくれるなら」
「わかりました。お約束します」
「じゃあ始めましょう」
「えっ、何を？」
「目を閉じて、体の力を抜きなさい。受身の味を教えてあげる」
「でも、僕……」
「茉莉花はキャバクラでは自分のことを『僕』と言っているの？」
僕は雨宮の質問には答えずに目を閉じた。こんな服を着て自分のことをアタシなどと言ったら、自分がダメになる気がした。
雨宮の右手がスカートの中に入ってきて太ももの内側を這った。僕は両膝を合わせてそれ以上の侵入を阻止した。暖かい息が近づき、彼女のしっとりとした唇が僕の唇にかすかに触れた。思わず唇が震えた。怖くはなかったが、自分がどれほど無力なのかを思い知った。
雨宮は全能のパトロンであり、僕はあられもない薄いドレスに身を包んだキャバ嬢としてキスを受け入れている。きっと鈴木も憧れの彼女の前では今の僕のような立場に置かれているのだろうと思った。
彼女は会話と同じようにゆったりと気取らずに僕の体をまさぐった。焦っても無駄だと分かっていた。僕は時折小さな高い声を出しながら、自分の体が敏感に反応することに驚いた。彼女のしなやかな指に触れられると、そこに電気が発生して暖かい痺れが周囲に広がった。首筋、脇の下、胸から下肢まで鳥肌が立った。
「茉莉花のピチピチした体が大好き」
その言葉は僕の身体をますます敏感にした。彼女の指の次のタッチが待ち遠しくて気が狂いそうだった。
「雨宮さん……」
「シーッ、何も言わないで。体の力を抜いて、私にされるがままにすべてを受け入れるだけでいいの。それが茉莉花の役割だから」
「あーっ……」
僕は雨宮のすべてを受け入れたい気がして頭を左右に振った。心から雨宮と一緒になりたいと思ったが、それは不可能だ。僕は鈴木ではなく代役に過ぎないからだ。二週間後にこの部屋でプロポーズを断るまで、我慢できるだろうか……。
雨宮の愛撫はいつまでも続いた。彼女は僕のものを自分の中に導き、体を重ねたまま動かずにキスと指で僕を愛してくれた。僕は自分が彼女の中に射精をしたかどうかの記憶さえないほど恍惚となった。
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