幻のウクライナ
【内容紹介】ウクライナの活動家と間違えられてロシア人に拉致されそうになった主人公は身の安全のために警察に協力するが……。ロシアのウクライナ侵攻についてのロシア人の心情に迫るTSサスペンス。
第一章 拉致
僕は黒沢勇児、十八歳、東京の私立大学の一年生だ。昨年四月に入学した際に第二外国語を選択する必要があった。同じクラスの友人の間でも意見が分かれていたが、僕は早い段階で候補を中国語、フランス語、ロシア語の三つに絞りこんだ。最終的にどれにするかは大いに迷った。
将来社会人になって役立ちそうなのは中国語だが、友人の半数近くが中国語を選択するようだった。そうなると希少性に欠けるし、中国語ができると海外派遣の際の勤務先が中国になる可能性が高まる。僕は欧米で働いてみたいと思っていたので、中国語は没にした。
フランス語とロシア語の間で迷った挙句最終的にロシア語を選んだのも希少性が主な理由だった。フランス語が堪能な人は大勢いるので、フランス語が一応理解できる程度の語学力では売り物にならない。結局、そんな理由でロシア語を選択した。
ロシア語を学び始めて面食らったのは「格変化」だった。英語でも「三単現のS」などと主語によって動詞が多少変化するが、ロシア語の場合は大きく変化し、名詞・形容詞・副詞にも格変化がある。例えば「愛する」の現在形は英語ならLOVEとLOVESだけだが、ロシア語は私が主語なら「リュブリュー」、第二人称は「リュービシ」または「リュービチェ」、第三人称単数なら「リュービット」と変化するし、名詞は男性名詞、女性名詞、中性名詞に分かれているなど非常に複雑だ。
元々語学は得意だったが、僕の言語中枢はロシア語に特に向いていたようで、他の学生が苦労するのを尻目に、一年生の前期の試験ではクラスでトップの点を取ることができた。文法が一通り身についてからはオンライン主体の勉強に切り替え、英語でロシア語を学ぶことにした。ロシア語は日本語との関連性は皆無に近いが、同じヨーロッパ言語の英語とは共通点が多く、英語で考えながらロシア語を学ぶとスムーズに頭に入ってきた。やはり言語学習は耳から入れるのが最も近道で学習速度も速いようだ。
最近ではロシア語の映画を英語字幕付きで見ると、かなり聞き取れるようになってきた。字幕の無い映画やユーチューブだと大体の流れが何となく分かる程度であり、まだ半分も聞き取れない。先週終わった後期の試験も僕がトップだったに違いないと自負しているが、二年生の終わりまでには字幕なしで映画が見られるまでレベルアップするつもりだ。うちの大学にはサンクトペテルブルグの姉妹校に一カ月間の留学ができる制度があるので、それを狙って頑張りたいと思っていた。
しかし、二月二十四日にロシア軍がウクライナに侵攻したことで全てが変わった。
ロシア語の勉強を通じて普通の人よりはロシアの文化を理解しているつもりだったし、プーチンの人柄にも好意を抱いていただけに、当初はそのニュースが信じられなかった。二〇一四年にロシアがクリミア半島に侵攻した時は、まだ小学生だったので覚えておらず、高校で現代史として学んだだけだが、ロシアが人道的に酷いことをしたという認識はなかった。しかし、今回は違う。ウクライナのドンバス地方で二つの独立国を一方的に承認したとの報道には戸惑ったが、本当にウクライナに全体を侵略するとは夢にも思っていなかった。二月二十四日の夕方、僕の戸惑いは絶望に変わった。
僕はウクライナが軍事大国ロシアにひとたまりもなく潰され、二、三日のうちに占領されるだろうと思ったし、テレビでもそんな風に報道していた。しかし、三日経っても、四日経ってもウクライナは占領されなかった。
僕はウクライナで起きていることについて世間の人より早く正確に把握していた。インターネットには最新情報や世界中の生の声が氾濫しているが、日本で報道される情報は下手をすると二、三日遅れており、断片的かつ表面的だし、情報量が圧倒的に少なかった。英語が得意なことをいかして毎日ウクライナ情報をネットで検索した。夜寝ている間にウクライナや欧米で起きたニュースは翌朝ニューヨークタイムズを読み、ユーチューブでMSNBCやCNNのチャネルを見ていち早く知ることができた。
また、ゼレンスキー大統領は毎日のようにユーチューブで世界中にウクライナ語、英語、ロシア語のいずれかの言葉でのスピーチを流しており、ウクライナ語とロシア語のスピーチには英語の字幕がついていたので十分理解できた。特にロシア語でロシア人に語り掛けたスピーチは非常に説得力があると思った。
心のどこかで「プーチンは悪人だがロシア人は善良だ」と信じたいと思っていたので、ウクライナ寄りでない動画も見るように心がけた。参考になったのは中東のアルジャジーラとインドのWIONのユーチューブ・チャネルだった。ウクライナと時差が少ないだけに情報が早く、またロシアとアメリカのいずれにも加担しない立場で客観的な物の見方をしていると感じた。インド人は英語が話せて政治談議が好きな国民なので、ウクライナ情勢に関する客観的な理解度・把握度はインドが世界一で、中国が最下位、日本は中国より少しマシなレベルだと思った。
三月十六日の水曜日の朝、アメリカの対中工作に関する微妙な進展以外には目立った変化がなく、MSNBCでここ数日間のサマリー動画を見て、ウクライナ人のことが心配になり涙ぐみながら家を出た。月曜日から隣の駅の近くのファミレスで午前十時から午後六時までのバイトをしており、その日が三日目だった。
一般的に言うとファミレスの仕事はホールとキッチンに大別される。ホールはいわゆるウェイター、ウェイトレスとして食事の運搬や接客、会計が担当で、キッチンは文字通り調理や皿洗いなどの仕事だ。男子は殆どがキッチンの仕事になるのだが、僕の場合はたまたまキッチンの要員が足りており「キミは清潔感があって人当たりが良さそうだからホールを頼む」と店長に言われて女子に混じって働いた。
そのファミレスでは全面的にタブレット端末による注文システムが採用されており、客がタブレット端末でメニューを見たりクーポン番号を打ち込んだりして勝手に注文するので、ホールのバイトは出来上がった料理を伝票に書いてある通りの番号のテーブルに届けさえすればよかった。
去年の夏休みに神田のレストランでウェイターのバイトをしたことがあるが、自分が注文したい料理を正確に言える客はせいぜい三人に二人で、残りの三分の一は発音が聞き取りにくかったり、メニューとは違う自己流の料理名を言ったり、オーダーを取りに行ってから「えーと」と待たせた挙句「やっぱりこちらに変えてもいいですか」と言い出したりで、毎日がフラストレーションの連続だった。
それでいて給料は今回のファミレスの方が高いのだから、ある意味不公平だ。僕が就活をするのは二年先になるが、進歩的な優良企業に勤めれば楽でいい給料をもらえるし、変なところに就職したら割に合わない人生を歩むことになるので、十分に予備調査をしてから会社訪問をしなければと思った。
その日は、バイトのシフトが終わると私服に着替えて駐車場側の通用口から外に出た。午後六時十分、まだ薄明るかった。
通用口のドアを開けた時、外人が二人立っているのに気づいた。二人とも黒い背広にネクタイをしており、映画に出てくるスパイのようでカッコいいなと思った。その二人が僕の方に歩いて来たので、道を聞かれるのだろうと思って、背が高い方の男に僕の方から笑顔で話しかけた。
「ハウ・メイ・アイ・ヘルプ・ユー?(何かお手伝いさせていただきましょうか?)」
その時、小柄な方の男が(といっても僕よりずっと背が高かったが)さっと僕の後ろに回り、何やら固いものを僕の腰の後ろ側に押し当てた。
――まずい、強盗だ!
「アイ・ハブ・ノー・マネー」
と言うと、小柄の方な男が低い声で言った。
「ザトクニーシ」
発音でロシア語だと分かった。「シ」の音は口の先端部で発する「сь」という子音だったが、SではなくSiに近い音だった。こんな発音をするのはスラブ系の言語だ。
――えーと、ザトクニーシの意味はなんだったっけ……?
答えが頭に浮かんだ。Заткнись、つまり「黙れ」とロシア語で言っているのだ。
「ネ・ウビヴァイ・メニャー(僕を殺さないで)」
背の高い方の男を見上げてロシア語で懇願した。
「ハヂーチ(歩け)」
腰に当てられた銃口が示す方向へと歩いた。
黒い外車の所まで来ると、背の高い方の男がサッと運転席に乗り込んでエンジンをかけ、ほぼ同時にもう一方の男が後部座席のドアを開けて僕を押し込もうとした。僕は押し込まれまいと必死でもがいた。
その時、キーッという鋭いブレーキ音を立てて灰色のトヨタが黒い外車の前を塞ぎ、中から二人の日本人が降りてきた。僕を車の中に押し込もうとしていた男は僕を乱暴に突き飛ばし、自分だけが後部座席に乗り込んでドアを閉めた。外車は猛烈な速度でバックしてハンドルを切り、ものすごい音を立てながら駐車場のもう一方の出口から走り去った。灰色のトヨタから出て来た日本人は外車を追いかけようとはせず、僕に歩み寄った。
――助かった……。
体中の力が抜けて、僕はその場にへなへなと座り込んだ。トヨタから降りてきた日本人のうちの若い方が僕を助け起こした。
「フシェ・ハラズド?」
と外国語で聞かれた。ロシア語のような響きの言葉だが意味がつかめなかった。
「ルースキイ?(ロシア語ですか?)」
とロシア語で聞いたところ、彼は頭をかきながら、
「フ・パリャットケ?」
と言い直した。「大丈夫ですか?」という意味のロシア語だった。
「ダー、スパッシーボ(はい、ありがとう)」
とロシア語で答えると、彼はもう一人の日本人――アジア系のロシア人だろうか?――に言った。
「どうもオレのウクライナ語は発音が悪いみたいです」
流ちょうな日本語だった。
「なんだ、日本語がしゃべれるんですか?!」
僕が笑いながら言うと彼は目を丸くして、
「えっ、あなた、日本語、わかります?」
と、僕が外人であるかのような口調で聞いた。
「失礼ですが、どなたですか?」
「警察です」
二人が同時に僕の目の前に警察手帳を示した。彼らが私服の刑事だと分かってほっとした。ロシア語を話す方の若い刑事が潮田で、もうひとりが勝山という名前だった。
「イェゴール・メドベージェフを見張っていましたが、彼が倉沢さんの拉致を試みるとは……。それにしても、倉沢さんが日本語を話せるとは知りませんでした。とりあえず署までお連れします」
「人違いです。私は倉沢ではなく黒沢です」
「えっ、クローサヴァだったんですか?」
「いえ、ク・ロ・サ・ワです」
「確かにクラーサヴァと書いてあったのですが……」
「さっき、どうしてウクライナ語で聞こうとしたんですか?」
「急に何を言い出すんですか?! とにかく署までご同行願います」
「それは任意ですか? 任意ならお断りします」
警察とトラブルになった場合、任意同行されるとそのまま缶詰にされてなし崩し的に逮捕されることがあるので、任意同行に応じてはならないと最近読んだ小説に書いてあったのを思い出した。
「我々を困らせないでください」
半ば強制的にトヨタ・クラウンの後部座席に押し込まれた。限りなく胡散臭かったが、彼らはどう見ても本物の警察官だし、危ない所を助けてもらったばかりなので、任意同行に応じることにした。
勝山が運転席に、潮田が後部座席で僕の隣に座った。
二人が僕を敬遠しているような雰囲気が感じられて車中では何となく気まずかった。
「私が拉致未遂の被害者だということをお忘れなく」
「勿論、承知していますよ。それにしても変なことを言うんですね……」
「先ほど、イェゴール・メドベージェフを見張っていたとおっしゃっていましたけど、私を拉致しようとした男の一人がイェゴール・メドベージェフなんですか? ロシアのスパイか何かでしょうか?」
「あなたを車の中に押し込もうとしていた方の男がメドベージェフで、ロシア大使館の二等書記官です。外交官特権を持っているので、我々も簡単には手出しできないわけです」
「どうしてロシア大使館員が私を……」
と僕は独り言のようにつぶやいたが、潮田は返事をしなかった。
車が警察署に到着し、僕は彼らに両側をガードされるようにして建物に入った。警察署に足を踏み入れるのは生まれて初めてだった。エレベーターで四階に行き、外事課と書かれた大部屋に入った。
窓際のエリアに数人の男性が立っていた。
「清水係長、メドベージェフを張っていたら倉沢さんを拉致しようとする現場に遭遇して……」
勝山が最後まで言わないうちに、清水係長と呼ばれた男性が、
「倉沢さんはずっとここにいるぞ」
と言って色白で華奢な感じの男性を指さした。
「えーっ!」
勝山が絶句した。
部屋には数人がいたが、係長が指さした僕と同年代の男性を見て目を疑った。彼も僕をポカンとした目で見ている。彼は僕とそっくりだった! 刑事二人が見間違えるだけのことはある。しかし、何かが違う気がした。根本的な何かが……。彼が僕の前まで歩いて来た。お互いの頭のてっぺんからつま先までをしげしげと観察した。
彼は僕の肩に両手を置いて言った。
「スホージ!」
ロシア語の発音だが意味が分からない。
「ルースキ?(ロシア語?)」
「ニェット、ウクラインスキ(いえ、ウクライナ語です)。ガバリーシ・パ・ルースキ? (ロシア語が話せるんですか?)」
と彼がロシア語で質問を返した。
「ネムノーガ(少しだけ)」
「日本人ですか?」
「なんだ、日本語も話せるんですか」
「母が日本人なので話せますが、漢字は苦手です」
「なるほど。お母さんの旧姓が倉沢なんですね」
「いえ、父の名字がКрасаваなんです」
「なるほど。クラーサヴァの当て字として倉沢はピタリですね」
「今回日本に来て私がユーリ・クラーサヴァですと自己紹介したところ『日本名を倉沢ユリさんにしましょう』と提案されました。それで倉沢さんと呼ばれているわけです」
「倉沢はいいですが、ユリは女性の名前ですから『ユ』の音をちゃんと伸ばして『倉沢ユーリ』と名乗らないと、そちら系の人かと思われますよ」
「日本人は『ユーリ』が典型的な男性の名前だと言うことを知らないので、ユーリと言ってもユリと言っても大差ないんじゃないでしょうか?」
「いや、ユリだと百パーセント女性です。ユーリと名乗るべきです」
「実際問題として日本人は名字にさん付けで呼び合いますからファーストネームがユーリでもユリでも問題ありません。フルネームを聞かれたらYuliy Ivanovich Krasavaと英語名を言うことにしています」
「なるほど。じゃあ、ユーリ・イワノヴィチと呼ばせてもらっていいですか?」
「もちろんです」
その時、僕たちの会話に清水係長が割って入った。
「倉沢さんの名前のことで話が盛り上がっているようですが、あなたのお名前を教えていただいてもいいですか?」
「失礼、申し遅れました。N大学一年の黒沢勇児です。バイトの帰りにロシア人に拉致されそうになったところをこちらの刑事さんたちに助けていただきました。倉沢さんと呼ばれたので『いいえ、黒沢です』と答えたつもりなんですけど、倉沢さんと間違えられたまま任意同行されました」
「顔と体型が似ていて、名字と名前もビミョーに似ているとは、本当に奇遇ですね!」
「さっきから、顔が似ているようでいて何かが根本的に違うという気がしていましたが、やっと分かりました。左右が逆なんですよ。倉沢さんは右の目の方がパッチリしていますよね?」
「黒沢さんも右の目がパッチリしていますよ。普段自分の顔を鏡で見慣れているから、生き写しの人が目の前に現れると左右が違う人間のように見えるんです。鏡像体を見慣れていると、非鏡像体である実物を見て強烈な違和感を感じるわけですね」
係長の解説には聡明さが感じられた。
「とにかく、黒沢さんを人間違いで連れてきてしまったことをお詫びします。お帰り頂いて結構です」
「待ってください。私は明日も同じファミレスにバイトに行く予定です。あのロシア人たちは私を倉沢さんだと思っているわけですから、また捕まえに来るんじゃないでしょうか?」
「その可能性は大ですね」
「それは困ります。そもそもロシア人は何が目的で倉沢さんを拉致しようとしたのですか? 彼らは私を捕まえて倉沢さん本人ではないと分かったら、すみませんでしたと言って帰らせてくれるでしょうか?」
「自分たちの犯罪の証人である拉致被害者を簡単に解放するとは思えません。もしあなたを捕まえたら、とことん口を割らせようとするでしょうね。FSB風の拷問で……」
FSBとはソ連時代のKGBと同じ諜報機関のことだ。KGBがどんな拷問をしていたのかは読んだことがある。一睡もさせず責め立て、水責め、脱歯、性的暴行、何でもありの世界だ。
「冗談じゃない! 助けてください!」
「世の中の要人と似ている人を全て保護しようとしたら警察は人員不足になります」
「似ているのは勝手だと言いたいんですか? それはないでしょう!」
「困りましたね」
係長が腕を組んでうなった。
その場にいた三十歳前後の聡明そうな感じの警官が発言した。
「係長、黒沢さんに倉沢さんのボディダブルをやってもらってはどうでしょうか? 東京にいると見せかけておいて、横浜で動けば、彼らは全く手出しできない!」
「グッドアイデアだ! 黒沢さん、是非お願いします!」
「ボディダブルって何ですか?」
「BODY DOUBLE――同じ体が二つあるということで、代役のことです。プーチンや金正恩に影武者が居るという話を聞いたことがありませんか?」
「影武者をやれと言われても……。ロシアから狙われている男性の影武者とは、危険な役目ですね……。それに、バイトに行けなくなるのは困ります」
「勿論バイト代は払います。危険地手当として法定賃金に二割上乗せしましょう。食事付きで、ちゃんと警護も付けますから大丈夫です」
「危険地手当込みで千二百円ちょっとしかもらえないんですか……。それにファミレスもシフトによってはまかないが付いてるんですけど」
「ファミレスのバイトは重労働でしょう。ボディダブルほぼ座っているだけなので楽ですよ。一日十二時間ぼーっとしていれば一万五千円ほどになる」
「ファミレスより楽で一万五千円になるのなら魅力的ですね。分かりました、引き受けます。でも、倉沢さんがどうしてロシア人に狙われているのか事情を教えてください」
「私から直接説明します」
と言って倉沢が話し始めた。
第二章 ミッション
「私はロシア生まれのウクライナ人です。父がモスクワで勤務していた時に日本人の母と結婚し、私が小学校五年の時にウクライナに帰りました。ですから私はウクライナ語とロシア語の両方が母国語で、英語と日本語も話せます。
ウクライナ語とロシア語は単語の六十二パーセントが共通ですが同じ単語でも異なる意味で使われる場合があります。共通の単語についてはほぼ同じ発音なので、お互いに相手が言っていることはある程度理解できます。
黒沢さん、グジェ・ヴィ・イズーチャリ・ルースキー・イェズィク?(あなたはロシア語をどこで勉強したんですか?)」
「フ・カーチェストヴェ・フタローヴォ・イノストランノヴォ・イエズィーカ・ヴ・ウニヴェルシチェーチェ(大学の第二外国語としてです)」
「すばらしい! 発音も文法も正確です。大学一年ということはまだ一年しか勉強していないのにすごいですね」
「イヤー、それほどでも。そちらの刑事さんは――潮田さんはウクライナ語もできるみたいですけど」
「私は外務省からの出向です。警察庁からウクライナ語のできる人材の緊急支援要請があって、オデッサでの研修から帰国したばかりの私が指名されました」
「じゃあ、あの警察手帳はフェイクだったんですか?!」
「とんでもない! 本物です。見てください」
「本当だ……。でも、階級は警視と書いてある! やっぱり偽物じゃないですか」
「えっへん。こう見えても私は警視です。入省六年目のキャリアが警察庁に出向すると、ほぼ自動的に警視になれるんです」
「へぇー! すごいパワフルなチートですね」
「何、チート?!」
と潮田が気色ばんだ。
「潮田警視、落ち着いてください。この大学生が言ったチートというのは異世界もののゲーム用語で、特別な能力のことです。ズルをして警視になったという意味で言ったのではないと思われます」
と勝山刑事が潮田をなだめた。
「紛らわしい。本来の英語の持つインパクトを軽視したゲーム用語を社会人相手に使うのはやめてほしいな」
潮田はまだブスッとしていたが、気を取り直して僕に言った。
「ロシア語とウクライナ語は同じような言い回しで反対の意味になる言葉がありますから、ロシア人とウクライナ人を喧嘩させようと思えば、特定部分を取り出して文脈を変えて流せばお互いに腹を立てると言われています。英語でも日本語でも、誤解を生みやすい言葉は慎重に使わなければなりません」
「すみません、反省します。潮田警視殿、大変失礼いたしました」
と僕は潮田にお辞儀をして詫びた。
「いや、ゲーム用語に疎い私にも非がありました」
倉沢が会話を本題に戻した。
「私が両国の平和を願って始めた取り組みは、言葉に込められた真実を伝えることです。私が数多くのロシア人、ウクライナ人から収集した音声情報は、平和を取り戻すための武器になりますが、平和を願わない人たちの手に渡って切り貼りされれば戦争を進めるための武器にもなりえます。だから私はロシア当局から追われる身になっているのです」
「ピンと来ないのですが、具体的にどんなことに取り組んでいらっしゃるんですか?」
「ウクライナに居るロシア兵の近況を問い合わせるための電話サービスを提供しています」
「誰に提供しているんですか?」
「ロシア人です。特に息子が徴兵された母親からの問い合わせが多いです」
「倉沢さんはウクライナ人なのにどうしてウクライナに攻め入った敵兵の安否を敵の家族に提供するんですか?」
「テレビでも報道されているように、ロシア軍の兵士は軍事演習に行くと言われたり、どこに行くかも知らされずに送り込まれて、来てみて初めて軍事侵攻だと知る若者も多いのです。母親は息子から連絡が途絶えて、もしかしたら自分の息子はウクライナで戦死したのではないかと心配になり居ても立っても居られなくなって、ネットで検索して私たちに問い合わせます」
「なるほど、敵兵の母親でも息子を思う気持ちに変わりはないという人道的見地でサービスを提供するのですね」
「それだけではありません。息子は自分がウクライナで何をさせられているかを母親に語って聞かせます。若い兵士ほど不本意な人殺しをさせられたり、自分自身が危険な目に遭っているので、母親は自分の息子がぞっとするほど恐ろしい状況に置かれていることを知ります。そんな話の内容を自分の家族や友人に伝えることによって、ロシア国民にウクライナで何が起きているかを知らせることができるのです」
「インターネット世代のロシア人はウクライナの真相を知っていても、年配の人や田舎の人は政府系のテレビの言うことを本気で信じているそうですね」
「今放送を続けているのは『政府系』の放送局だけです。政府の発表に反することを流布すれば十五年以下の懲役刑になります。従ってロシア人はいわゆるプロパガンダだけを毎日聞かされている状況なので、息子がウクライナの民間人を殺したと涙ながらに懺悔するのを聞いても、母親は悪い冗談と受け止めて会話が成立しない場合もあります。二度、三度と電話を繰り返すうちに母親も徐々に事情を悟って、今後は母親が『逃亡罪になってもいいから早く帰ってきて』と泣いて息子に訴えることになります」
「実際に電話の結果、ロシアに逃げ帰った兵士もいるのですか?」
「居ないとは言い切れませんが現実問題として戦場から逃げて帰るのは非常に困難です。上官に『やめさせてください』と言っても『はいどうぞ』とはなりません。上官が止めるのを振り切って逃亡すれば七年の罪になりますが、逃亡して戦場を歩いて帰ろうとしても生きて国境を超えられる可能性は高くありません。万一逃げ帰ることができても、ウクライナでの体験談を人に話し始めたら、すぐに警官が乗り込んできて、危険人物として行方不明になるでしょう」
「そんなふうに考えるとロシア人も犠牲者なわけですね」
「犠牲者だとは言わせません。ロシアの大統領は国民の投票により直接選ばれます。その大統領がしたことにはロシア国民も責任があります。声を上げて反対しない限りは同罪です。大統領を支える与党のイェジーナヤ・ラッシーヤ(統一ロシア党)の議員もロシア国民の投票によって選ばれた人たちです」
「金正恩が核実験することの責任から北朝鮮国民も逃れられないという理屈はちょっと酷みたいな気がしますけど……」
「金正恩は選挙で選ばれた指導者ではないので、ロシアとは状況が全く違います」
「ロシア人に厳しいんですね」
「私の父と母はロシア人に殺されました。ロシア兵が、大統領に逆らえないから不本意ながら手に掛けたと言い訳しても実行犯としての罪を許すことはできません」
「ご両親が……そうでしたか……」
「しかし、私はロシア人全体に復讐するために電話サービスを始めたのではなく、あくまで出来るだけ多くのロシア人に真相を知らせるためにやっています。あわよくばその中から声を上げる人が出てくることを願いますが、今の政権を転覆させるのは不可能に近いと思っています。むしろ三月四日に発表された虚偽報道禁止令がじわじわと効いてきてプーチンのプロパガンダを信じる人の比率が増えてきているのが現状です」
「嘘で塗り固められた面白くない報道をテレビで見て本気で信じるのは、インターネットとは無縁の老人だけじゃないんですか?」
「とんでもない。もしかしたら黒沢さんは北朝鮮の女性アナウンサーの神がかった語り口を連想しているんじゃないですか? ロシアは地上波だけでも二十ものチャンネルがあって、ニュース、バラエティー、ドキュメンタリー、ドラマなどが放送されています。日本に負けないぐらい面白い番組なんですよ。ニュースは勿論ですが、バラエティー番組でも政府が流す情報に基づいて人気タレントがCпецоперация(特別軍事作戦)について面白くて説得力ある語り口で解説したり討論するわけです。視聴者はアメリカがEU各国に圧力を加えてロシアを窮地に陥れようとしていると思って、プーチンの崇高な思想に心から賛同します。反プーチンのデモに加わる人とか、私のようにウクライナや西側諸国と共同歩調をとる人間は、悪魔に洗脳された裏切り者だと本気で思われています」
「インターネット上に流れる情報の殆どが、ロシアのプロパガンダと反対のことを言っているのにですか?」
「ロシア人は日本人と同じぐらい英語が苦手なんです。ロシア語で信頼に足る筋から得られる情報しか本気にしません。ロシア人にとって基本的にアメリカは憎き敵なので、インターネット上に流れる情報の殆どがロシア人にとってはフェイク・ニュースなのです。第二次大戦中に日本人の殆どが政府のラジオ放送を百パーセント信じていたということを忘れないでください」
「うーん……。問題は深刻ですね」
「自分が信じたい情報を聞きたがるのは人間の性です。自分の国の大統領が実は無慈悲な極悪人だったなどという信じたくない話にはロシア人は誰も耳を貸しません。しかもプーチンは話し上手で説得力があります。毎日のようにプーチン本人がテレビに出演しては直接国民に熱っぽく語り掛けて愛国心を煽っているので、ちょっとやそっとの雑音が西側から流れても『またアメリカのフェイクニュースか』と聞き流されるのがオチです」
「ロシアのプロパガンダがそれほど強固だとは知りませんでした。それで、倉沢さんは電話機の前で待機する毎日を送っているわけですか?」
「問い合わせにはノートPCで専用のソフトを使ってヘッドセットをつけて応対します。私は問い合わせシステムの提案者であり共同開発者です。オペレーターとして大勢の協力者が対話に当たっていますが、勿論私自身も時間があればオペレーターの役目を果たしています」
「ロシア兵の安否情報はどうやって調べるのですか?」
「私がシステムを共同開発した相手はウクライナ政府のチームです。彼らの情報能力は非常に優れています。また、得られた全ての情報はロシアからウクライナを防衛するために彼らが役立てます」
「なるほど。ロシア政府にとって不都合かつ有害な問い合わせシステムの開発者だから、ロシア大使館が倉沢さんを拉致しようとしたんですね。でも、既にそのシステムは立ち上がっていて、倉沢さんが居なくても機能しているわけですよね。今更倉沢さんを拉致しても手遅れじゃないんですか?」
「私は共同開発者としてシステムがウクライナ政府の保有するどのデータベースとどんな形で連携するかを熟知していると、彼らは考えています。ウクライナ政府のITチームは非常に想像力が豊かでレベルの高い若者の集団で、私は膨大な情報戦のごく一部分にしか関与していないのですが、ロシア人は私を拷問にかければ何らかの有用な情報を聞き出せると考えているのでしょうね。彼らは拷問に関して非常に想像力が豊かでレベルが高いので」
「身の毛がよだつようなブラック・ジョークを、女性のように優しい顔でしらっと言われると……」
「ということは、私にそっくりな黒沢さんは自分が女性のように優しい顔だと自覚しているわけですか」
「茶化さないでください!」
「男なのに口の周りや顎に髭がないですよね?」
「去年、バイトでお金をためて脱毛しました。日本ではこういうのが流行ってるんです。清潔感を求める女性が増えたんだと思います」
「確かに、女だと言っても通用するほど清潔感にあふれていますね、アハハハ」
「何が言いたいんですか?! ていうか、自分自身についても言えることだということをお忘れなく」
「いや、褒めたつもりだったんですけど。話を本題に戻しましょうよ。ロシア兵の行方を問い合わせるシステム以外にも、私は二年ほど前から幾つかのプロジェクトに参画しています。軍事的な対立とは無関係な分野でも、私の活動はロシア政府の神経を逆なでしているようです。そんなわけでロシア政府からペルソナ・ノングラータ(好ましくない人物)として排撃される身となってしまいました。しかし私はくじけません。私はロシア軍がウクライナから出て行くまで、命を懸けて戦い抜く所存です」
「安いバイト料で大変なことを引き受けてしまいました……。係長さん、警護は万全にしてくださいね」
「勿論です。万全を期するため、今夜は建物の中に泊まっていただきます」
「このビルの中にですか? テレビドラマで見たことがあるんですが警察署って意外に侵入しやすいそうですね。一般人も色んな手続きに来るし、報道機関の人も出入りするから……」
「大丈夫。黒沢さんは完全警護された部屋に泊まってもらいます。関係者以外の出入りは不可能です」
「それなら安心です。でも、そんな特別な部屋があるんですか?」
「当然ありますよ。警察ですから」
係長が意地悪そうにニヤリとした笑みを浮かべたのを見て、どんな部屋なのかピンときた。
「イヤですよ、留置所に泊まるなんて!」
「じゃあ、黒沢さんのアパートに帰りますか? パトカーで送りますけど」
「でも、夜中にロシア人が私を拉致しに来たら……」
「お好きな方を選んでください。アパートか、留置所か」
「倉沢さんも留置所に泊まるんですか?」
「いいえ、倉沢さんはホテルに泊まっていて、パトカーで送り迎えしています」
「じゃあ私もそのホテルに泊めてください!」
「同じホテルに行けば倉沢さんが二人存在することがロシア大使館にバレてしまいます。倉沢さんは明日中に別の場所に移動しますから、黒沢さんは明日の夜からそのホテルに泊まってもらいましょう。ロシア人たちには倉沢さんが東京のホテルに泊まってこの警察署との間を往復していると思い込ませます」
「なるほど、そうすればロシア人たちを出し抜けますね」
「倉沢さんは変装をして移動して、別の場所でも変装したまま活動します。黒沢さんのおかげで彼らを混乱させられます」
大変なことに巻き込まれてしまったが、ここまで来たら仕方ない。それに、留置所には悪いことでもしない限り入れないので、貴重な体験ができるチャンスだ。
「それでは吉住巡査部長、倉沢さんをホテルにお送りしてくれ。黒沢さんは私が宿泊所まで送り届ける」
と係長が指示した。
倉沢ユーリは二人の警官に護衛されて部屋から出て行った。
第三章 檻の中
壁の時計は午後六時四十分を指していた。僕は係長に連れられてエレベーターで地下の留置室へと向かった。
「係長も警視なんですか?」
「そんなに簡単に警視にはなれませんよ。この警察署の係長は全員が警部補です」
「でも、倉沢さんの案件は係長がリーダーとして仕切っていて、潮田警視も係長の指示で動いてるんですよね?」
「指示などとはめっそうもない。私はコーディネイターとしてお願いする立場です」
「ふーん……ビミョーですね。もし新人のキャリアが係長のグループに配属になった場合も『お願いする』立場になるんですか?」
「大卒一年目のキャリアの場合は警部補なので私と同じ階級だから遠慮なく『命令』できます。しかし二年目のキャリアだと自動的に警部になります。現場経験ゼロで子供のような体格の女の子を上官として扱うのは正直なところ苦痛です」
「実際にそんなことが起きるんですか?」
「去年あったんですよ。ぶ厚い眼鏡をかけたチビの東大出のブスで性格も最悪でした」
「シーッ、誰かに聞かれるとまずいですよ」
「大丈夫。彼女は新潟に異動になりました。友達も親派もいない女だから、人に聞かれても彼女に伝わる心配はありません」
性格の悪さを非難するのは人情だが、美醜と身長を規準として女性をそこまでけなすのはまずいのではないかと思った。
エレベーターでB2まで行き、廊下を歩いて鋼鉄製のドアのある部屋の前まで来ると係長が僕に言った。
「倉沢さんとして留置する形になるから、自分は今から倉沢さんになったと思ってください」
「えーっ、警察署内なのに他人のフリをするなんて……」
「黒沢さん自身が留置所に入ったという記録が残ってもいいんですか?」
「と、とんでもない! 倉沢さんとして収容してください。今から私はユーリ・クラーサヴァです!」
係長は笑いながらドアを開けた。
それは小窓のある小さな部屋で、小窓の向こう側が執務室になっており、数人の警察官が席に座っていた。僕たちが入って来たのに気づいた若い女性の警察官が出て来て係長に「お待ちしていました」と言った。
「今朝説明したウクライナ人だが、受け入れ準備はできているか?」
「はい、清水警部補、お預かりします」
と女性警察官が答えた。
「では明日迎えに来るまでここでくつろいでください」
「えっ、部屋までついてきてくれないんですか?」
「捜査官は中には入れない規則です」
係長と別れて女性警察官の後について行った。小部屋で持ち物を袋に入れさせられた。スマホも袋に入れるように言われたので僕は抵抗した。
「スマホが無ければ何もできません。犯人扱いしないでください」
「特殊事情を考慮して身体検査は簡略化しましたが、あくまで被疑者としての留置なので外部との連絡が可能な状態に置くことはできません。他の人と同様に扱います」
「でも……」
「不満なら明日清水警部補に訴えてください」
「分かりました」
「七号、ついてきてください」
「番号で呼ばれるんですか? やっぱり犯罪者扱いじゃないですか!」
「実名でなく番号で扱うのは人権尊重が目的です。被疑者の段階では推定無罪ですから『ついてこい』ではなく『ついてきてください』と原則的に人格を尊重して話すことになっています。指示に従わない場合は別ですが」
鉄格子の部屋の前を通って廊下を進んだ。その部屋には女性が三人居るのが見えた。次の部屋には女性が四人居た。どんな容疑でここに来たのか分からない人と同じ部屋に入れられるのは勘弁してほしい……。
角を曲がって左側の鉄格子の鍵を女性警察官が開けて「七号、入りなさい」と言った。
――人格を尊重して話すと言っていたくせに、命令形じゃないか……。
少しムカついたが、独房だと分かってほっとした。六畳の和室だった――と言っても和風なのは床だけだが。暖房が効いているのか、寒くはない。
「畳の上に直に寝ろと言うことですか?」
「布団については後ほど案内します。そこの説明書を読んでください」
女性警察官は外から鍵をかけて立ち去った。
――留置所に泊まれと言われて素直に従うんじゃなかった。
バイト料はもらっているものの、悪いことをしていないのに檻の中に閉じ込められるのは納得できない気がした。もし彼がロシア人を殺害していたことが判明して、何かの拍子で逃げたとしたら、警察がスキャンダルを隠すために僕をユーリ・クラーサヴァに仕立てあげたりしないだろうか? そんなくだらない妄想が頭に浮かんで不安になった。
部屋の奥には小さな流し台があり、ガラス窓のある壁を隔てて和式の便所があった。残念ながらシャワーは無い。入り口が鉄格子でさえなければ、粗末ながら一応寝起きに不便はなさそうだ。四人でも詰め込めそうな部屋を一人で使わせてくれるのだから特別扱いされているのは確かだ。
女性警察官が先ほど指で示した印刷物には、一日の時間割が書いてあった。午前七時に起床、八時に朝食、十二時に昼食、十八時に夕食、二十一時に就寝となっている。「点呼」を起床後と就寝前に実施すると書かれているのが留置所らしい。風呂は週二回、洗濯は週一回とのことだ。
僕の場合は明日の朝ここから出るはずだから一部しか体験できないが、こんな空間で何日も暮らすのは退屈だろうなと思った。テレビもスマホも無いので早く寝たいところだが、畳の床の上で布団も掛けずに眠ったら風邪を引きそうだ。さきほど「布団は後ほど案内します」とか言っていたが、いつ案内してくれるのだろうか……。
大声で呼べば係官が来るかもしれないが、他の部屋の留置者をいらいらさせるのはイヤだった。新参者だから大人しくしていよう。そう思った時に係官が来た。先ほどの人物とは別の女性警察官だった。
「七号、出なさい」
この警察官は僕の特殊事情について聞かされていないようだ。これでは完全に被疑者扱いだなと思いながら係官の指示に従った。彼女はわずか数メートル離れた収納スペースへと僕を導いた。そこには布団が積んであり、僕は敷布団、掛布団、シーツと枕を自分の部屋に運ぶように言われた。
「セルフサービスなんですね」
と軽いイヤミを言って指示に従った。
布団はジメジメしておらず、シーツも洗濯されていたので安堵した。僕は取り立てて清潔好きというほどではないが、風呂に入らずに寝るのは大学に入ってから初めてだった。午後九時に点呼で起こされたがその後すぐ消灯になり、掛布団を頭まで被って深い眠りに落ちた。
***
スピーカーから流れる起床のメロディーで目が覚めた。布団を畳み、流しで顔を洗ってから座っていると、女性警察官が点呼に回って来た。八時の朝食まで、今か今かと待った。空腹感がピークに達しかけたころに弁当が配られた。一口で言えば朝食サイズの「ノリ弁」だったが、非常においしかった。空腹は最良のソースと言われるが、こんなに美味しい食事を出していたら、留置所に入りたいために軽犯罪を犯す浮浪者がいてもおかしくないと思った。
何もすることが無いので畳の上でゴロゴロしていた。清水係長も公務員だから九時までには出勤しないだろうと予想したが、その通りだった。九時五分に女性警察官がやってきて、
「七号、出なさい。取り調べです」
と言われた。やはり彼女は僕の特殊事情を知らないから普通の被疑者として扱っているようだ。
昨日通過した小部屋に着くと男女一名ずつの若い警察官が待っていた。男性の方の警察官がいきなり僕に手錠をかけた。
「何をするんですか! 私は何もしていません!」
僕は強く抗議した。
「おとなしくしろ」
腰に縄までつけられたので当惑した。
「約束が違うじゃないですか! 係長を――清水警部補を呼んでください」
「取調室に行けば係長に会える。黙ってついて来なさい」
係長が彼らにちゃんと説明しなかったから普通の被疑者のように扱われているのだ。腹が立ったが、この警察官の言う通り取調室に行けば係長が居るのだから、会ってから文句を言うことにした。テレビの刑事ドラマに出てくる犯人のように手錠・腰縄で引っ張って行かれる経験は滅多にできるものではない。当分友達との会話で自慢ネタとして使えそうだ。
取調室に入って手錠・腰縄を外され、しばらくすると係長が入ってきた。
「黒沢さん、昨夜はよく眠れましたか?」
「おかげさまで、手錠・腰縄とクサイ飯まで貴重な体験することができました」
イヤミたっぷりに言ったつもりだったが、係長はアハハハと笑った。
「昨日ウクライナ大使館からの問い合わせに対し、クラーサヴァさんは入国管理法違反の嫌疑で取り調べ中であり、本署で留置すると回答しました。今日は本署で取り調べ後に甲府西警察署に移送して取り調べを継続するという情報も流してあります。これが公式の説明となります。彼らはその情報を元に倉沢さんの監視を続けるでしょう。その間、本物の倉沢さんは彼らに気付かれることなく活動できるわけです」
「ちょっと待ってください。その情報をウクライナ大使館に流したんですか? でも、倉沢さんをマークしているのはロシア大使館ですよね?」
「ウクライナ大使館の情報がロシア大使館に流れているのです。ウクライナ大使館の中に協力者がいると考えられます」
「スパイですか!」
「007に出てくるような本物のスパイが居るとは限らないし、盗聴器が仕掛けられている、あるいはネットワークがハッキングされている可能性もあります。とにかく倉沢さんに関する情報は何らかのルートでロシア大使館に流れていることを確認済みなので、我々は気づかないふりをして彼らの目を欺くわけです」
「へぇーっ、まさにテレビドラマの世界ですね」
「テレビドラマと違うのは銃で撃たれると、本当に死ぬという点です」
核心を突いたブラックジョークだが座布団をあげる気にはなれなかった。
「僕は今日、甲府西警察署に移送されるわけですね。パトカーの窓ガラスは防弾ガラスじゃないですよね? くれぐれもしっかりと護衛していただけるよう、よろしくお願いします」
「万全な警護をするのでご心配なく」
「影武者の僕が甲府西警察署に行っている間、倉沢さん本人はどこで活動するんですか?」
「それは極秘事項です。とにかくあなたは自分が倉沢ユーリ本人だと意識した言動をするように注意してください。自分は影武者だと思っているとプロの目は欺けません」
取調室のドアがノックされた。若い私服の警察官が入ってきて係長に、
「出発準備が完了しました」
と小声で言った。
「倉沢ユーリさん、出発です」
と係長が言って、僕に再び手錠と腰縄を着けた。僕は係長とその私服の刑事に警護されて――連行されて取調室を出た。三人でエレベーターに乗ってB1で降り、地下駐車場の出入り口の手前の小部屋に入った。
そこには、倉沢ユーリとよく似た背格好の――ということは僕にも似ている――人物が、昨日倉沢ユーリをホテルに送って行った吉住巡査部長と一緒に立っていた。
「則本巡査、髪を切ったんだね」
と係長がその人物に言った。
「ちょうどショートヘアにしようと思っていましたので。公費でヘアカットが出来て助かりました」
その声を聞いて、女性の巡査が男装をしているのだと分かった。私服刑事が僕の手錠を外し、腰縄を解いて則本巡査につけた。
――影武者が二人いたらダブルボディじゃなくてトリプルボディだ !
「予定通り私が倉沢ユーリをパトカーで甲府西警察署に移送することになります。あなたは吉住巡査部長が別の場所にお連れします」
と係長が僕に告げた。
「別の場所とはどこですか?」
「あなたの安全のためにも知らない方がいい。移動中、吉住巡査部長にも質問しないでください」
係長たち三人が出て行った五分後、吉住が僕を駐車場の一角に停まっているグレーのカムリまで連れて行き、僕を後部座席に乗せた。カムリの運転席にはもうひとりの私服刑事が座っていた。
吉住が助手席に乗り込むとカムリが発車して地下駐車場を出た。後部座席の窓は普通のスモークガラスで外から見えるようなので、僕は後部座席に横になって顔を隠した。しばらくしてカムリが首都高速道路に乗ってから、僕は体を起こした。
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