日本で同性婚が許可になった日(文夫の場合)
【内容紹介】男性が一般職OLとして働く羽目になる「日本で同性婚が許可になった日」シリーズのTS小説。主人公は同性婚が許可になったというニュースを見て自分には関係が無い話だと思っていたが、ある日、課長から呼び出された主人公は自分にも大いに関係があったことを実感する。課長から結婚指輪を差し出されたのだった。まえがき
世界的にセクシュアル・マイノリティの権利保護に関連する動きが高まり、今年に入ってテレビや新聞で二つの興味深い報道がなされました。
二〇一五年三月二十六日、東京都の渋谷区議会は同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書の発行条例案を総務区民委員会で賛成多数で可決しました。
二〇一五年五月二十二日、アイルランドで同性婚を合法とする憲法改正の是非を問う国民投票が行われ、翌日開票の結果、賛成多数で合法化が決定しました。
渋谷の条例は、同性カップルがアパート入居や病院での面会を家族でないとして断られるケースが問題になっているという人道的問題の解決策という色彩が強いようですが、同性婚に近い状況を公的に認める決定として、十分にショッキングなものでした。
それに追い打ちをかけたアイルランドの国民投票のニュースは「そこまできたのか」という強い衝撃を日本人にも与えたと思います。
日本で同性婚が法制化されるのはいつになるでしょうか。同性婚なんて自分とは全く関係が無いと、気にも留めていない人が殆どです。性同一性障害の悩みを抱える人たちも、戸籍上の性転換は最優先課題でも、男性のまま、あるいは女性のままで、同性との婚姻を許可されることは、戸籍上の性転換が完了するまでの便宜的な措置と受け止める人の方が多いのではないでしょうか?
一方、セクシュアル・マイノリティの保護という世界的な流れに乗って日本で同性婚が法制化されることは十分にあり得ますし、相応の議論はなされてもあまり意識しないうちに成立してしまうというのは、ありそうな近未来の状況と言えます。
そんなニュースが流れても、殆どの人は
「あっ、そう」
「日本でも成立しちゃったんだ」
という程度に受け止めて、殆ど気にも留めないと思います。この小説は、そんな状況で起きてしまった物語です。
あなたは「あっそう、僕には関係ないけど」と思っていても、重大な影響を受ける可能性があるのです。
第一章 衝撃のプロポーズ
昼休みが終わり、海外営業二課の席に戻ってメールをチェックしていると、
「上原君、ちょっと」
と課長から声がかかった。
僕は何かミスをしでかしてしまったのだろうか。課長が「ちょっと」と言って部下を呼びつけるのは問題が起きたときだけだ。
たまたま先輩社員たちは出張中だったり席を外していたりして、海外営業二課には今年の春一緒に入社した一般職の香川愛子と僕だけしかいなかったが、愛子はニヤッとして「またドジったんでしょう」とでも言いたげな視線を僕に投げかけた。
「はい、何でしょうか」
僕は杉田課長の席の横に直立した。
「君、今日の夕方は空いているかね」
鋭い目で課長が聞いた。
「はい、大丈夫ですが」
「じゃあ、五時半に出られるようにしておいてくれ。ちょっと大事な話があるんだ」
課長が思いつめた感じの緊張した顔で言ったので、僕は余計なことは聞かない方が良いと思った。
「はい、承知しました」
理由はわからないが、まずい状況だ。僕が海外のお客さんに出したメールの書き方が悪いとか、最近先輩に指示されて出した韓国の得意先あてのメールのCC欄に台湾のお客さんのアドレスを入れてしまったことについて再度叱られるとか、お客さんとのアポの時間を間違えて一時間遅れて訪問したこととか、課長に叱られるネタはいくらでも頭に浮かぶ。ミスが相次いだので先輩たちや香川愛子から「ミス上原」という不名誉なニックネームをもらってしまった。
だから、課長から叱られるのには慣れていたが、課長の席の横に立たされて皆に聞こえるようにどなられるか、かなり重大なミスの場合は会議室に呼ばれて一対一で叱られるのが普通だった。客先との接待なら職務能力の高い先輩か、客受けの良い香川愛子に声をかけるはずであり、わざわざ僕を五時半に外に連れ出すというのは、接待以外の理由だろう。
課長が僕を食事を食事に誘って言いそうなことは大体予想がつく。
「自分としては君を一人前になるまで育てたかったんだが、厳しい環境に置かれた当社では、そんな甘いことは許してくれそうにないんだ」
というような適当なことを言われて、会社をクビになるか、最良のケースでも子会社への出向を申し渡されるではないだろうか。
「悪い話じゃないかもしれないわよ。気をしっかり持って、ミス上原」
一部始終を見ていた香川愛子が、すっかり意気消沈した僕に励ましの声をかけてくれた。
運命の五時半が来て、課長がカバンを持って席を立ったので、僕は課長の後を追いかけた。百八十センチを超える大男の課長が早足で歩いていくのに遅れないようにするのは一苦労だった。エレベーターを降りて会社の玄関に歩いていくまで課長は一言もしゃべらなかった。課長は道路に出てタクシーを拾い、運転手に「新宿野村ビルまで行ってください」と告げた。
「上原君は福島市の出身だったね」
タクシーの中で課長が聞いた。
「ご家族は全員福島におられるのかね」
「両親と姉が実家に住んでいて、兄は仙台の病院で医者をしています」
「じゃあ、上原家はお兄さんが跡を継ぐんだね」
「はあ、父はサラリーマンで跡を継ぐというほどの家ではありませんが、跡継ぎは誰だと聞かれれば、間違いなく兄と言うことになると思います」
ここで僕はふと思い当たった。そうか、課長は僕に結婚話を持ちかけるつもりなんだな。跡継ぎがどうのこうのと聞くのは、縁談の相手が一人娘なんだろう。わざわざ六本木に連れてくるということは、取引先の大会社の社長の一人娘だったりして……。頭の中で想像が膨らんだ。しかし、いくら逆玉でも僕にとって相手の女性の外観が非常に重要だ。
僕が結婚したい相手はモデル系美人だ。僕は百六十三センチと小柄で、それが「ミス上原」というあだ名をつけられたもう一つの理由なのだが、結婚する相手は自分より背の高い相手を選ぶのが子孫繁栄のために望ましいと思っている。小柄な男性には背の高い女性に憧れる傾向が強いそうだが、それは生物学的にも理にかなった感情なのだ。
タクシーが新宿野村ビルに到着し、課長が向かった先は五十階の展望レストランだった。
入口で課長が「杉田です」というと「二名様のご予約ですね」と窓際のテーブルに案内された。
今日は課長と僕だけのようだ。そりゃあそうだろう、いきなり呼び出してその場で見合いということはないだろうから、今日はとりあえず話だけなのだろう。いや、待てよ、やはりクビか出向の話なのかもしれない。僕は気が気でなかった。しかし、テーブル席に着くと、もやもやした気持ちは吹き飛んだ。
「うわぁ、すごい景色ですね!」
眼下のビル群は夕日を浴びて黄金色に輝き、向かい合って座った課長の右頬への照り返しが、彫りの深い顔を引き立たせている。課長の表情から重苦しい感じが消えて、僕に対する視線が優しく感じられた。
「ここは地上二百メートルなんだ。日が落ちた後の夜景はもっと素晴らしいよ」
「きれいでしょうね。本当に楽しみです」
「気に入ってくれてよかった。実はここは死んだ女房にプロポーズした場所なんだ。私にとっては最も縁起のいい場所であり、同時に最も悲しい場所でもある」
僕はどんな言葉を返したらよいのか迷った。
「存じませんでした。そんな大切な場所に連れてきていただいて光栄です」
ソムリエールが来て課長はワインリストを見てボルドー産のカベルネ・ソーヴィニオンを一本注文した。
課長はワイングラスを慣れた手つきで回して窓の外の夕日にワインを透かしてから口に含み、喉で味わってから「いいですね」と言った。
「テイスティングの時に夕日に透かしてワインを見るなんて、似非ワイン通なことがバレバレですよね」
と課長がそのアラサーのソムリエールに微笑みかけた。
「本当にワインが分かる方は、目に見えない情感までを読み取ることができると聞いたことがあります」
とソムリエールは女性らしい潤いのある声で答えた。
女性が気のある男性だけに放つ艶を、課長に対するソムリエールの視線の中に見た僕は、課長が女性から見て魅力的な男性なのだということを改めて実感した。立派な体格で彫りの深い顔をしているだけでなく、女性の目から見ると、世界中を歩き回ってきた男性の奥深い魅力がオーラのように発せられているのだろう。
課長の顔にやさしい微笑みが浮かんだ。
「今日は、個人的な話をするために急に呼び出して申し訳ない」
僕は肩の荷が下りた気がした。個人的な話ということはクビや出向の話ではないのだ。
「ひょっとして、結婚に関するお話しですか?」
僕は単刀直入に聞いた。
「よく分かったね。君からそう言ってくれたら話は早い」
課長はカバンの中から小さな箱を取り出し、僕に渡した。それは一辺が数センチの美しい箱だった。
僕がその箱を開けると、ダイヤモンドの付いた指輪が入っていた。
「君が好きだ。私と結婚してくれ」
真剣な顔で課長が僕に言った。
第二章 指輪の秘密
「か、か、課長と僕が、けっ、けっ、結婚ですか?」
「分かっていたんじゃないのか?」
「得意先のお嬢さんとかの縁談を持ってこられたのかと思っていました」
あっはっは、と課長は可笑しそうに笑った。
「縁談には違いないね。相手が私自身という点が予想外だったか」
課長はもう一度、あっはっは、と笑った。
「先週金曜日のニュースを見ただろう。日本でも同性婚が許可されることになったというニュースだ。諸外国では同性婚を認める国が増えているが日本はまだまだ先の話だろうと思っていた。しかし、カトリックの比率が高いアイルランドの国民投票で同性婚が認められてから国際的な流れが加速した。
少し前に渋谷区が『結婚に相当する関係』と認める証明書の発行に関する条例を作ったことは君も知っているね。あれは同性カップルがアパート入居や病院での面会を断られると言う人道上の問題に対処するための条例だが、今回は同性婚に関する法律が、国際的潮流に乗って党勢を高める道具に使われる形で、憲法が拡大解釈されて一気に成立してしまった。
上原君が入社してうちの課に配属されたときには、香川愛子君と同じような身長で骨格も女性的な新人だなと思っただけだった。君はとにかくミスが多くて、毎週のように呼びつけては叱ることになった。私は元々叱るのは苦手だが、いくら叱っても新手のミスを生み出す君を笑って見過ごしていては他の部下への示しがつかないから、叱らざるを得なかったんだよ。
君は素直だから、大きいミスをした場合に会議室で注意すると、いつも涙ぐんでいたし、席の横に立たせて叱ると心から反省したような顔をしていた。普通、部下を叱ると後味が悪くて嫌な気持ちが残るんだが、君を叱った後は不思議に爽やかな気持ちになった。
しかし君は同性だから先週までは君に対する恋愛感情とか特別な愛情は全く心の中に無かったんだ。
そんな時に同性婚が許可になったというニュースを見た。土曜日に娘たちとクリーニング屋に行った帰りに、同性婚のニュースを聞いて興味を持っていた上の娘が『お父さんがクリーニング屋のお兄ちゃんと結婚したら私は何て呼べばいいの? ママじゃおかしいよね?』と私に質問したんだ。クリーニング屋にイケメンの若い男がいて、娘はそのお兄ちゃんが好きなんだ。
その時に君の顔がちらっと頭に浮かんだ。いやあ、私もドキッとしたよ。だって、君の横顔は死んだ女房とかなりの共通点があるし体格もそっくりだと思っていたから。
夜一人で水割りを飲みながらそのことを想い起こした。そうしたら、叱られた時の泣き顔とか、べそをかいた顔や、褒めてあげた時の素直な笑顔が頭に浮かんで君を好きだという感情がどっと湧いて来た。私はそれまで女性以外に恋愛感情を抱いたことが無かったから自分自身が信じられなかった。
自分はどうかしてる、ひと晩寝たら治るだろうと思ったが、日曜日になると君の笑顔が頭の中から一日中消えなくなった。夜ひとりで寝ていると君の顔が頭に浮かんできて股間がビンビンになった。女性以外を想いながらオナニーしたのは生まれて初めてだった。
今週に入ってからは会社に来るのが辛かった。私の席からは君の横顔が見えるからね。君を見ると胸が苦しくてたまらなくなった。とうとう昨日の夜、娘にそのことを打ち明けたら、こう言ってくれた。
『私のママは天国にいる人だけよ。パパが連れてくる人を私はママとは呼ばないわよ。それでいいのならパパの幸せのために私はその人と仲良くする』
だから今日君にプロポーズすることを決心したんだ。その指輪は死んだ女房の結婚指輪だ。実は君と女房はイニシャルが同じなんだ。もし小さすぎて入らなければ直すから、ちょっと測らせてくれ」
僕は何と答えるべきか分からなかった。課長の話は心を打つ話だし、娘さんにまで話したのは本気だという証拠だ。でも、課長は男で僕も男だ。僕は小さい時から「女の子のように可愛い」と言われると悪い気はしなかったが、男性を好きだと思ったことは一度もなかった。
日本でも同性婚が認められたというニュースをテレビで見た時、以前アイルランドの同性婚のニュースを聞いた時と同じように「へえ、そうなんだ」と思っただけだった。同性愛の人たちにはグッドニュースであり、もし友人にそのような人がいたら「おめでとう」と言ってあげるだろうが、僕自身とは何の関係も無い話であり、そのニュースが自分に少しでも影響を与えるとは思ってもみなかった。
課長が指輪のサイズをチェックしようと、指輪を取り出して僕の左薬指に入れてみると、少しきついが、するりと入った。
「入るじゃないか。君の指は細いんだね」
「いえ、きつめですよ、ほら」
指輪を抜こうとしたが、第二関節に引っかかって抜けない。
「洗剤をつけたら抜けるよ」
と課長が言った。
前菜の皿が来てテーブルに置かれた。
「ちょっとトイレで指輪を抜いてきます」
立ちあがろうとする僕を課長が制した。
「まあ、食事の後で良いじゃないか」
と言ってワイングラスの柄を右の指で持った。
「乾杯、君の笑顔に」
「困りましたね……。それはお受けできませんが、僕はお嬢さんたちの幸せを願って乾杯させていただきます」
「ありがとう」
僕たちはグラスをチンと言わせてワインを飲んだ。フローラルな華やかさは無く、僅かな酸味が喉にかかる樽の香りを際立たせるワインだった。ワインのことはよく知らない僕にも、このワインが職場や友人との飲み会に出てくるワインとはレベルの違う高級なワインであることが実感できた。このワインを僕の為に選んでくれた課長の気持ちが僕の心を揺らし、それが却って申し訳ないと言う気持ちを強くした。
「僕は体質的に女性しか受け入れられないと自覚しています。お話しは感謝しますが、お許しください。申し訳ございません」
曖昧な返事をすべきでないと思い、課長のプロポーズをきっぱりと断った。
「今すぐ返事ししてくれなくてもいいんだよ。折角の料理だから食べてくれ」
そう言って課長は食べ始めた。
僕もフォークを手にして、前菜のアスパラガスにナイフを入れた。口に入れようとフォークを上げると、夕日できらめく左手の指輪のダイアモンドの黄金色の輝きが、僕の心臓を貫いた。
「君は海外に行ったことはあるの?」
突然課長がそんな質問をした。
「はい。入社前に友人と卒業旅行ということで西海岸に行きました」
「どうだった?」
「まず、海の色に感激しました。勿論映画などでは見ていたんですが、あんなに美しいコバルトブルーの海が目の前に実在していることに驚きました。空も抜けるように青くて、信じられないほどでした。それから、ロサンゼルスからバスでメキシコのティワナに行ったんですが、貧しい子供たちを見てショックを受けました。同じ世界なのに人間が置かれる状況にそれほど差があるのを見て心が痛みました」
「君らしい感想だね。でも、世界を歩き回ると君がショックを受けたティワナの貧しささえも天国に見えるほど悲惨な場所があちこちにあるんだよ。南カリフォルニアに負けない青い空や海がどこにあるのか、僕にもすぐには答えが浮かばないが、地中海の空と海の青さには少し違った優しい光が含まれているし、抜けるような空の青さだけならスイスは負けないだろう。若い君はこれからの人生で、色んな国に行って、さまざまな新しい美しさや、悲しさや、貧しさや、悲惨さや、未知の喜びを、ひとつひとつ経験していくことができる」
課長の言葉には人間としての重みと魅力が感じられ、自分で世界を歩き回った経験に基づく奥の深いものなのだと思った。聞きかじりや知ったかぶりで出てくる言葉とはひと味もふた味も違っていて、一つ一つの言葉に心臓を掴む力がある。僕は一人の人間として課長を素晴らしいと思った。
「そんな世界を娘たちにも見せてやりたい。そこに君もいて欲しいんだ。私は世界中の価値のあるものや色々な美しいものを君たちに見せてあげて、その時に自分も再体験したいと思う」
僕は生理的に男性と結婚する気には絶対になれないが、課長の言葉は単に胸に響いたというよりも、身体の芯から揺さぶられるのを感じた。「はい」と答えてあげることができなくて申し訳ないと思った。僕が返す言葉を選んでいるうちに課長が続けた。
「君はアメリカ人女性と日本人の女性のどちらが好きかな?」
「西海岸への旅行の際に出会ったアメリカ人女性たちは、陽気でハキハキしていて、話していて楽しかったです。それに僕は背の高い女性が好きですから、アメリカ人女性の方が好きかも知れません」
「僕も知的でウィットに富んでいて配慮のできるアメリカ人女性なら嫌いじゃないが、平均的なアメリカ人女性は、表現が直截的過ぎて、自分の感情を大事にするから、話した後で疲れが残る。君はまだ知らないだろうがヨーロッパの女性はかなり日本に近い。先日ベルギーのお客さんのご夫婦と食事をしたが、奥さんは自分の意見はしっかりと表明するのに、ご夫君や私に対する女性らしい配慮が言葉の端々に感じられて、動作もとてもエレガントだった。日本女性はまだ女性としての自己表現能力がそこまでは開発されていないかもしれない。でも、恥じらいとか、少女のような素直な表情とか、相手の男性を立てようとする姿勢とか、欧米の女性が足下に及ばない美しさが沢山あるよ」
やはり、世界中の女性を知る人の話は面白い。
「僕はヨーロッパの女性もアメリカ女性と同じかなと思っていました」
「じゃあ、少し切り口を変えて二つ質問しよう。今、君が女性になるとしたら、アメリカ人女性、ヨーロッパ人女性、日本人女性のうちのどれになりたい? 二番目の質問は、今の君はアメリカ人女性、ヨーロッパ人女性、日本人女性のうちのどれに近いと思う?」
海外の女性に対する僕の意見を聞いた後で、いきなり「もし女性だったら」という質問に切り替えられて僕はうろたえた。
「女性になりたくはありませんが、もしどうしてもひとつ選べと言われれば、何でもストレートに主張できるアメリカ人女性を選びます。それから、今の僕がどれに一番近いかというご質問には悩みます。アメリカ人女性のように自己主張できるタイプではないし、そのベルギーの奥さんのようなエレガントな気配りは到底できないし、日本人女性の古典的な特質は男の僕には無縁だし……。答えとしてはどれにも当てはまらないと思います」
「その答えで僕のインスティンクトが正しかったことが証明されたよ。僕が何故君をこんなに好きになったかわかるかい?」
話す角度や言葉を変えて、僕が何らかの言葉を返さざるを得ないように追い込む課長のテクニックに切り崩されていくのが分かった。自分がもし女性だったら課長の思いのままに落ちてしまうだろうと思った。
「い、いえ、わかりません」
はい、と答えられるはずがない。本当は沈黙しているべきだった。
「毎日、ストレートに主張できるアメリカ人女性のようになりたいと思って一生懸命仕事をしている君がいる。でも、叱られた時に垣間見える君の本質は古典的な日本女性の特質そのものなんだ。恥ずかしそうにしていて、素直な気持ちが感じられて、そして私の気持ちに応えようとして一生懸命私の心を覗こうとする。死んだ女房もそんな特質を持っていたが、若い時でも君ほどじゃなかった」
僕の心はズタズタになる寸前まで切り崩されていた。
「僕、よくわかりません。男ですから」
そう口にするのが精一杯だった。
「でも、私が君にそばにいて欲しいと思う理由は、理屈としては理解できるだろう?」
それは質問と言うより強引な誘導だった。
「は、はい。理屈としては……」
「君の気持ちはよく分かる。将来女性と結婚するつもりだったのに、ある日突然年上の男性から結婚してくれと言われて、その場でハイと答えられるはずがない。君が一人の人間としての僕を嫌いじゃないことは分かっている。勝手に決めつけて悪いが、君の目と表情と口調は私に対する好意に溢れていて、私は感謝している。もし私の了解が間違っていればそう言ってくれ」
「いえ、おっしゃる通りです。僕は男性として課長を尊敬していますし、憧れています。男性同士という点だけが決定的な問題です」
「今、君がそう思うのは当たり前だ。いきなり男性から求婚されるのはまさに青天の霹靂であり精神的に受け入れられるはずがない。だから、今すぐに返事をくれなくてもいい。今日のところは、私が君に恋をして求婚したという事実だけを受け止めてくれ。その上で、私の結婚を拒否するならその理由を私が納得できるように示してくれ。単に男同士だからというのは理由にならないよ、法律が変わったんだから。法律で許可されているのに拒否する理由が本当にあるのかどうか、よく考えてくれ」
「まず、セックスが成立しないし、男性同士が裸で抱き合ったら嫌悪感が出てくると思います」
とっさに答えたが、それは課長が想定していた通りの返事だったようだ。
「セックスの目的は子孫を作ることと、その対価としての快楽だ。私は娘が二人いるから、もう打ち止めにしたい。快楽については、やってみないと分からない。私は男を抱いたことは無いが、君への恋心が全ての障害を取り除いてくれるかもしれない。でも、正直なところやってみないとわからない。やってみて嫌悪感や違和感があれば、君へのプロポーズは撤回する。君は男に抱かれたことがあるのか?」
「勿論ありません。考えたことも無いです」
「じゃあ、私と裸で抱き合ったら嫌悪感があると、どうして断言できるんだ? 君は人間として僕に好意を持っていると言ったばかりじゃないか。あれはお世辞だったのか? 実際に私に抱かれてみたら、女性と抱き合う以上の快感が得られるかもしれないじゃないか」
「そ、そんな……」
「今これからラブホテルに行って確かめようと言っているわけじゃない。実際にやってみないと分からないのだということを説明しているだけだ。もし君が私のプロポーズに早く答えを出したくて今夜済ませたいというなら、喜んでホテルに連れて行くよ」
「いえ、今日は勘弁してください」
「じゃあ、君の決心がつくまで延期しよう」
僕は、後日応じることを約束させられたことになったのだろうか……。
「百歩譲って、抱き合うことができたにしても、社会的な制約が多すぎます。家族や友人が僕をバカにするでしょうし、会社でも陰口をたたかれるのが目に見えています」
「きっとそうだろうね。でもこの世の中に万人が祝福する恋愛結婚なんてそんなにあるものじゃない。国籍や、家柄や、家族問題や、色んな問題を二人で乗り越えるのが結婚というものだ。法律が変わった今となっては性別の問題もそのひとつに過ぎないんじゃないかな。一緒に乗り越えていけるさ。君のことは絶対に私が守る。でも、会社でプラスにならないのは確かだろうな。君だけじゃなく私にとっても。その点は、もう少し時間をかけて一緒に考えていこう。君の心の整理がついてからプロポーズの返事をくれればいいよ」
課長と論争しても、理屈では勝ち目がないことを思い知らされた。
「お嬢さんの心の問題も大事です。先週末にはお父さんが苦しんでいるのを見て許してくれたかも知れませんが、実際に僕が家に来たら、気持ちが変わるのは確実です。天国のお母さんの代わりに見たことも無い人が、しかも男性が家に入るんですよ。僕なら絶対に耐えられないと思います」
僕は「もし結婚して課長の家に住むことになったら」という想定で反論する所まで追い込まれていた。それが実際に起こり得ることのような気がして、その場合に二人の娘さんたちから敵として拒否される事の悲しさが敗北感のように僕にのしかかって来た。
「君の言う通りだ。娘たちが君を心から受け入れない場合は、非常に申し訳ないがプロポーズを撤回せざるを得ない」
「撤回」という言葉を想定していなかった僕は狼狽えてしまった。今更酷い、という感情を抱く自分の方がおかしいのだが……。
「とにかく娘に会ってもらうことが先決だ」
「お嬢さんが嫌ならこの話は無かったことにするという前提でとにかく会ってみろということでしたらお受けします」
「ありがとう」
課長は両手で僕の手を強く握った。
「じゃあ、明日うちに来てもらえるかな」
「はい」
話し合いの形式なのに結局全て課長の思い通りに事が進んでしまう……。
「娘たちが君を受け入れると仮定して、最終的な回答期限は一ヶ月後ということにしよう。一ヶ月後に、私と結婚してくれるかどうか最終的な返事をくれ。それまで、お互いに良く考えて悔いのない決断をしようよ。それから、ちゃんと話し合うために毎週金曜日の夜にデートしよう。週末もあけておいてくれ。そういうことで良いね」
私はその申し出を受ける以外に道はないと諦めた。
「はい、お受けします。あ、結婚をお受けするのじゃなくて、今おっしゃった一ヶ月プランをお受けします」
「君のそんな小さな悪戯っぽいウィットやそれを口にする時の誘惑するような視線が私を虜にしたってことに君自身は気がついていないようだな」
と言って課長は笑った。
第三章 香奈と美菜
土曜日の朝、小田急線の向ヶ丘遊園駅に降り立つと、改札を出たところに紺のジャージー姿の男性の姿が目に入った。人の群より頭一つ高いその長身の男性は長い右脚の膝を少し曲げてジャージーの上着のポケットに両手を突っ込んで立っている。付近を通る女性の多くが男性の精悍で彫りの深い顔をちらりと見上げるが、彼は女性たちのそんな視線を全く意に介していない。
課長が女性にモテることは知っていたが、それは整った顔の長身の男性にはありがちな現象であって、昨夜までの僕は気にも留めていなかった。道行く女性たちが課長に向ける視線が、告白を受けた翌朝の僕に理不尽な焦燥感を呼び起こした。異性から見た課長の魅力がこれほど強烈なものだとは思っていなかった。
「上原君、こっちだよ!」
課長が右手を高く上げて僕に合図した。
僕は合図されて初めて課長に気づいたフリをした。
「おはようございます、課長。わざわざ迎えに来ていただいて恐縮です。グーグルマップを見て自分で行けましたのに」
「とんでもないよ。狙った人を落とすには家まで車で迎えに行くのが常道なんだが、娘たちを放って置きたくなかったから」
「そりゃそうですよ、課長。お嬢さんの幸せが一番ですから」
「プライベートなんだから、課長はやめてくれ」
「何とお呼びすればいいんでしょうか。杉田さん、で良いですか?」
「上原君に杉田さんと言われるのはしっくりこないな。死んだ女房からは、お父さん、とか、あなた、とか、健司さん、とか呼ばれていたが」
「お父さんとか、あなたとは呼べるはずがありません。健司さん、というのもちょっと……」
「どう呼ぶかは君に任せるよ。課長と杉田さんだけは避けてくれ。上原君の名前は文夫だったな」
「はい」
「文夫君、というのも変だから『君』で通しておこう」
向ヶ丘遊園駅から杉田課長が住んでいる社宅まで住宅街を並んで歩いた。すれ違う女性の二人に一人が杉田課長を見上げた後で、ちらりと僕に視線を向ける。僕も普段一人で歩いている時には、すれ違う女性から異性としての興味を意味する視線を受けることがあるのだが、今日の杉田課長と比べると何分の一かの比率だ。今朝僕が感じる視線は余計なものが目に入ったとでも言いたげな敵意に近い視線であり、普段女性から受ける視線とは異なっていた。
課長の家は大規模な分譲マンションの一室だった。うちの会社がその分譲マンションの数十戸を買い取って社宅にしていた。
「ただいま」
課長宅のドアを入ると、
「パパだ。おかえり」
という声が聞こえて二人の女の子が走って来た。一人は小学校二年生ぐらいだろうか。もう一人は就学前のあどけない少女だ。二人とも手足が伸び伸びした感じで将来美人になることが約束されているような美しい少女だった。
「こんにちは、お邪魔します」
少女たちは僕の言葉には答えず、パパの手を引いて居間の方に進んだ。
「香奈、美菜、お兄ちゃんにご挨拶しなさい」
課長が言うと、二人は声を合わせたように小声で「こんにちは」と言った。
僕はカバンから赤いリボンのついた小箱を三つ取り出した。
「香奈ちゃん、お土産だよ。よろしくね」
「はい、これは美菜ちゃんに」
受け取った二人の目が輝いた。
「パパ、開けていい?」
と香奈が聞くと課長が「いいよ」と答えた。
香奈は赤いリボンを上手に解き、包み紙が破れないように丁寧に開けてクッキーの入った箱を見つけると、嬉しそうな顔を見せた。妹の美菜も少し遅れて一挙手一投足香奈を真似ながら箱を開けた。
「申し訳ないね、上原君。昨夜約束したばかりなのに、よくお土産を買えたね」
「昨夜電車を降りてコンビニでクッキーとリボンを買ったんです。包み紙は以前に取っておいたものを使いました」
「それ、パパの?」
香奈が、残りの一つの小箱を指さして僕に聞いた。
「悪いね、私にまで」
と課長が言った。
「違うよ、香奈ちゃん、これはママのだよ」
と僕が言うと香奈は
「あっ、そうか」
と言って可愛い笑顔を見せた。
「パパの分は無いんです。すみません。お仏壇はどこですか?」
僕たち三人は課長の後に続いて隣の部屋に行った。それは六畳の客間で、棚の上に亡くなった奥さんの写真が掛かっていた。僕は写真の前にクッキーの小箱をお供えして手を合わせ、しばらくお祈りした。
「ママに何て言ったの、上原君?」
香奈が僕に質問した。
「自己紹介をしてから、香奈ちゃんと美菜ちゃんがとても可愛く元気に育って素晴らしいですねってお話ししたんだよ」
「ママは複雑な気持ちだと思うわよ」
「どうして」
「だって、パパが上原君のことを好きになったから、取られると思って怒ってるわよ、きっと」
「天国のママはこれからもずっとパパの奥さんだし、香奈ちゃんと美菜ちゃんのママだよ。僕は三人のお友達で、ママのことも大好きだから」
「本当? それなら私は上原君をうちに入れてあげる」
「どうもありがとう、香奈ちゃん」
「上原君のお名前は? うちに来るのに、上原君じゃ変よね」
「上原文夫だよ」
「フミオね、じゃあ、フミちゃんって呼ぶわ」
「フミちゃんか。女の子みたいな名前だな」
「でも、ママみたいに、パパや私たちの世話をしてくれるんでしょう? ご飯を作ったり、お洗濯をしたり。パパからそう聞いたわよ」
「パパがそんなことを?」
僕は課長に非難の視線を投げた。
「いや、それは一緒に住むようになってから決めればいいことだ」
と課長は誤魔化すように言った。
僕は昨夜、課長が単に僕が好きで一緒に居たいから結婚を申し込んだのだと受け止めていたが、課長が頭に描いている結婚後の僕はきっとお手伝いさん代わりなのだ。それはちょっと話が違う。仮に結婚したとしても僕が会社を辞めて専業主夫になるということは考えられない。
「フミちゃん、こっちに来て」
香奈に呼ばれて香奈の部屋について行った。僕は少し課長に腹が立って、課長の近くに居たくないと思っていたところだった。香奈は机の上のアルバムを見せてくれた。それは小学校の遠足の写真だった。美菜も僕の横に座って一緒にアルバムを覗きこんだ。
「これが一番のお友達のアユちゃんよ」
香奈ともう一人の女の子が二人で写っている写真だった。
「左右の三つ編みが可愛いよね」
「そうでしょう。アユちゃんのママが結ってくれるんだって」
香奈が遠くを見るような目をしたので、僕は母親の居ない香奈がとても気の毒だと思った。
「前髪をこんなに短く切るのが流行ってるんだね。アユちゃんはとても似合ってるけど」
「そうなの。私もやってみたい気がするけど、失敗すると怖いわ」
「ちょっとやらせてみて」
僕は香奈を鏡の前に連れて行って、前髪を指で三センチ上げて見せた。
「意外と似合うかも。でも、上手な美容院でやった方がいいよ」
「三つ編みはどうかな。ひとりでやってもうまく行かないんだ。フミちゃん、手伝ってくれる?」
「うん、いいよ。やり方を教えてくれたら手伝ってあげる」
香奈は髪の毛を左右に分け、右半分を三つに梳いて編み始めた。鏡を見ながら一生懸命に編んでいるが、すぐに緩んでだらりとシマりが無くなってしまう。香奈が途中で髪を押さえて僕が編むと形が良くなった。三度やり直して綺麗になり、ゴムバンドで固定した。左側は一度目でうまく行った。美菜もやってほしそうだったが、時間がかかりそうなので、香奈のヘアバンドでポニーテールにした。
「ほら、可愛くなったね。似合うよ」
「本当だ」
香奈は色々と角度を変えて鏡の中の自分を見て気に入ったようだった。
「フミちゃんが来てくれたらいいのにな……。パパはこんなことは全然してくれないのよ。頼めばお洋服は買ってくれるけど」
「パパは忙しいし、男だから、女の子のことはあまり分からないんだよ」
「フミちゃんは、今は男なのに、どうして分かるの?」
「お姉ちゃんがいて、小さい時から見て来たからかな」
「フミちゃんは、うちに来たら、女の子になるの?」
「どうして?」
「だって、パパの奥さんになるんでしょう?」
「パパがそんなこと言ってたの?」
「そうは言ってなかったけど、パパの奥さんで、私と美菜のお母さん代わりになるんでしょう? 男のままだったら変じゃないかな」
「男でも奥さんになれる、という新しい法律ができたから、パパはフミちゃんに結婚してくれって言ってるんだよ」
自分をフミちゃんと呼んだのは、その方が他人事のような気がして抵抗感が薄れたからだった。結婚してくれという話と、奥さんになるという話は、僕の頭の中でまだかみ合わない。
「ふうん、そうなんだ」
香奈と僕が真剣に話している間、美菜は僕たちの間に座って、二人を交互に見上げていた。静かで人なつっこい女の子だ。
香奈はアユ以外のクラスメートのことについても、写真を見せながら、一人一人詳しく教えてくれた。香奈の小学校での毎日が目の前に見えるようだった。美菜も保育園の友達のことを話してくれた。
香奈に聞かれて、僕は福島の姉や父母のことを話した。香奈は僕の父母を自分のパパや亡くなったママと同列に受け止めていて、僕をパパと自分の中間か、自分に近い立場と見ているようだった。
「パパは会社でもやさしいの?」
香奈が聞いた。
「パパは課長でえらい人だから怖い顔をしてるよ。フミちゃんはしょっちゅう間違いをしでかして、パパに怖い顔で『ちょっと来なさい』って毎日呼ばれるんだ。怖い顔で怒るから、フミちゃんは涙を流しながら『ごめんなさい、許してください』って言うんだ。そうしたらパパはにっこりして許してくれる」
「私も時々パパに叱られて涙が出るから、フミちゃんと一緒だね。でも、美菜のことは滅多に叱らないんだ、パパは」
僕たちが話している途中で課長がドアを開けたが、入って来ずにドアを閉めたので、僕たちは気にせずにおしゃべりを続けた。香奈はタンスから月曜日に学校に着ていく予定のお気に入りの洋服を出してきて、着て見せてくれた。
僕は自分が子供好きだと特に認識したことは無かった。姉には二人の男の子がいるが、乱暴な言葉を大声で言ったり、ものを投げたりするし、いつも騒がしいので、小さな子供は煩わしいものだと言う先入観があった。香奈と美菜にはそんな煩わしさは皆無だった。お互いに、少し利害関係のある相手と思って控えめに接したからだろうか。完全に対等な立場で、相手と仲良くなる道を模索しようという気持で面会したのが幸いしたのかもしれない。香奈は自分の目から見て僕の良いところを見つけ出して、それを尊重しながら友達になろうという気持ちで接してくれたのだと思う。香奈が昔からの親友のような気がしたが香奈も僕のことを同じように感じてくれているようだった。
「おい、お前たち、ご飯ができたらぞ」
課長がドアを開けて僕たちを呼んだ。
「パパが作ってくれたんだね」
僕は香奈に驚きの気持ちを伝えた。
「パパの作ったご飯は美味しいんだよ。フミちゃんもきっと気に入るよ」
「すみません、お手伝いすべきなのに」
「気にするな。フミちゃんは今日はまだお客さんだから。でも、今までよく子供たちとの話が続けられたな」
「香奈ちゃんたちと話してると時間が過ぎるのを忘れます」
課長が作ったのはスパゲッティだった。出来合いのミートソースを使っただけらしいが、それだけにとても美味しかった。香奈たちは僕に対する遠慮が無くなってきて、食事しながら、ミルクを欲しがったり、こぼしたものを僕が拭くのを当然のように受け止めたり頼んだりするようになった。僕は課長に全て食事の準備させたことへの後ろめたさもあって、あたかも主婦になったかのように立ち回った。食事の後、課長が皿を洗おうとするのを制して、僕が片付けた。
午後、課長は滞っていた雑用や日用品の買い物のために外出する必要があり、僕がついていくのは不適切なので、僕たちは三人で留守番することになった。
「フミちゃんはアナ雪は見たの?」
「有名なところは見たけど、全部は見てないよ」
「なんだ、まだ見てないんじゃない。一緒に見せてあげる。私は十回以上見たわよ」
香奈がアナと雪の女王のDVDをセットし、三人が並んで見始めた。見終わった後、ベランダに干されていた山のような洗濯物を取り入れて三人で一緒に畳んだ。香奈に教えてもらって、課長と香奈と美菜の引き出しにしまった。課長は溜まっていた洗濯物を今朝自分で洗濯機で洗って干したのだろう。毎日仕事で忙しいのに大変だろうなと思った。
「美菜ちゃんは誰が保育園に迎えに行くの?」
「おばちゃんだよ」
「おばちゃんって親戚の人?」
「違うよ。パパが雇っている人。今月から新しいおばちゃんに変わったの。その人が夕飯を作ってくれるのよ。私と美菜が食べ終わったら、おばちゃんは帰るわ」
毎日そのために専門のお手伝いさんを雇っているわけだ。そんな方法もあるのだなと感心したが、香奈や美菜は慣れたといっても心細いに違いない。もし手違いがあってお手伝いさんが来なかったり、何らかの理由で大人の助けが必要になったらどうするのだろうと気になった。香奈たちには是非母親が必要だ。
課長が帰宅したのは午後五時過ぎだった。
「じゃあ、僕そろそろ失礼します」
当初の目的である課長のお子さんとの顔合わせは完了し、僕はプロポーズを断る理由としては使えないと認めざるを得なかった。
「そんなこと言うなよ。フミちゃんの分も含めてすきやきの材料を買ってきたんだから、一緒に晩飯を食べていってくれよ」
「フミちゃん、一緒にご飯を食べようよ」
と香奈が言い、美菜は「帰っちゃダメ!」と僕の手を離さない。
課長がすきやき用の電気鍋をテーブルに準備する間に、僕は課長が買ってきた食材を大皿に準備した。香奈と向かい合って美菜の横に座り、三人とおしゃべりしながら美菜が食べるのを手伝うのは新鮮な経験だった。
「いつもはフミちゃんの場所に私が座ってるの。でも、こうやってパパの横に座ると大人になった気分よ」
と香奈が言った。
「フミちゃん、美菜の世話ばかりしていて、自分は殆ど食べていないんじゃないか? ちゃんと肉食べろよ」
「十分頂いてますよ。パパとは身体の大きさが全然違うから食べる量も違うんですよ」
楽しい食事が終わって、僕は課長に手伝って貰いながら後片付けをした。
「じゃあ、こんどこそ失礼します」
「明日は日曜日なんだから泊まって行けよ。他に用があるのか?」
「特に用事はないですけど」
「フミちゃん帰らないで、お願い」
香奈と美菜に抱きつかれて僕は悪い気がせず、一泊することにした。
課長が風呂にお湯を入れて先に入った後、香奈と美菜の誘いに乗って僕も一緒に入った。姉の息子たちをお風呂に入れてあげた時は頭にお湯をかけると泣き叫ばれていやな思いをしたが、香奈と美菜はとても賢かった。香奈は自分でシャンプーができたし、美菜の長い髪をベビーシャンプーで洗ってあげると僕の膝の上で気持ちよさそうにしていた。
「フミちゃん、服を着ているとママみたいだけど、やっぱりおちんちんがついていて、おっぱいも小さいね」
「フミちゃんは男だからパパと同じだよ」
僕はペニスを両足の間に隠して答えた。
「パパとは全然違うわよ。パパは身体中に毛が生えていてゴツゴツしてるのよ。すっごく大きいて強いんだから」
子供の目から見ても課長と僕の身体はそれほど違うのだ。
香奈と美菜を送り出してから風呂をきれいにして、僕は風呂から出た。課長が自分のパジャマとトランクスを出しておいてくれたのでそれを来た。課長のパジャマは僕には大きすぎたので、袖もズボンの裾も二回折り返した。
「フミちゃん、ダブダブの服着てる!」
香奈が僕を指さして笑い、美菜も「ダブダブだ」と言って笑った。
「いくらなんでも大きすぎるな。転ぶと危ないし、着替えた方が良いな。ママのパジャマを着るといいよ」
「フミちゃん、こっちよ」
香奈に手を引かれて、亡くなった奥さんの服が入っているタンスの引き出しのところに行った。香奈がパジャマを出してくれて、僕はそれに着替えた。それはピンクとグリーンの斜めのチェックが入った白い半袖のパジャマで、ズボンは膝の少し下までの長さだった。胸の開きが大きいのが恥ずかしいが身体にフィットしていた。
「すごく似合ってる。ママみたい!」
と香奈が嬉しそうに言った。
居間に戻ると課長が僕の姿を見て立ち上がり、怖い目で僕をじっと見つめた。
「どうかしましたか?」
と僕が聞くと、課長は元の表情に戻ってソファーに座った。
「女房が帰ったみたいでドッキリしたんだ」
「よしてくださいよ。写真を見ましたけど、言われてみれば少し似ていなくもないという程度ですよ。僕は髪は短いし身体が男ですから」
「身体の大きさと全体の雰囲気がドキッとするほど似てるんだ。なあ、香奈そう思わないか」
「フミちゃんはママにすごく似てるわ。今日フミちゃんが家に入って来たときにはびっくりしたもの」
「どうして今まで言ってくれなかったの?」
「ママそっくりに化けた人がパパを取り上げるのが怖かったの。でも、フミちゃんがいい人だから好きになったのよ」
家族のような団らんがあって、九時になり子供たちが寝る時間になった。子供たちが歯を磨いている間、ソファーで課長の横に座ってテレビのニュースを見た。課長がチラチラと僕を見る視線に気づいて課長を見ると、課長の股間が盛り上がっていた。課長はクッションを膝の上に置いてそれを隠した。
「フミちゃん、一緒に寝ようよ」
香奈と美菜に言われて、僕は「うん、それがいいね」と立ち上がった。
「パパ、お休みなさい」
香奈と美菜を真似して僕も同じ事を言った。
子供部屋に二人のベッドが並んでいた。僕は美菜のベッドに並んで横たわった。美菜は僕の左腕に抱きつくようにして、あっという間に寝息を立て始めた。
「フミちゃん、まだ起きてる?」
香奈は眠れないようだった。
「フミちゃん、明日帰っちゃうんだよね」
「うん。月曜日から会社に行かなきゃならないから」
「次はいつ来てくれるの?」
「パパに聞かなきゃ分からないけど、来週か、再来週かな」
「できるだけ早く来てね、お願い」
寂しそうな口調が心に響いた。
「うん。フミちゃんも香奈ちゃんに早く会いたい」
それは本心だったが、勿論僕には課長のプロポーズを受ける気持ちはなかった。そんな無責任な言葉で取り繕う自分を恥ずかしい人間だと思った。
翌日の日曜日も一日中課長の家で家族のように過ごし、夕食を片付けた後、一人で家を出て駅まで歩き、複雑な思いで家路についた。
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