雷に打たれた女:入れ替わった男女(TS小説の表紙画像)

雷に打たれた女
 入れ替わった男女

【内容紹介】雷に打たれた瞬間に主人公の男性が20歳の女性に憑依するSF系のTS小説。あまりにも月並みで、クラシカルな性別転換が小説の冒頭で起きてしまう。主人公は女性として残りの人生を幸せに生きていけばよいわけだが、この小説はもっと深い。男女の転換が単なる偶然により起きたのではないことが徐々に見えてくる。

第一章 青天の霹靂

 夏休み明けの第一週、怠け癖がついてしまった心と身体を叱咤して何とか勤め上げた金曜日の夕方。

 五時半の終業のチャイムを待ってパソコンのスイッチを切り、帰宅し始めた女子社員たちに「お疲れさま」と声をかけつつ時計が五時四十分を指すのを待つ。

 茅場町駅五時四十六分発のJR総武線連絡の東西線快速に乗るためには、会社を五時四十一分までに出る必要があるが、一般職の女子社員のように終業のチャイムと同時に席を立つと、いかにも窓際を自認するようなので十分間ほどは仕事をしているようなフリをする。

 私は五十五歳。営業部部長職の肩書だが、昨年、経営企画部長の席を後任に譲り、自他共に窓際社員と認める立場になった。大手商社を八年前に早期退職し、この中堅企業に転職した。二十五年間勤めた商社では二度のニューヨーク勤務を経験し、猛烈社員として仕事に没頭したものだった。今は子供たちも大学を出て自活し、毎週のように女房との週末旅行を楽しむ、私生活重視型のサラリーマンだ。

 女房とはうまくいっている。女房以外の女に手を出したのはたった一度だけだ。二回目のニューヨーク勤務の際、私が赴任してから家族呼び寄せまでの約二か月間、七番街のアパートで独り暮らしをしている時に、ピアノバーでアルバイトをしていた夕子と付き合ったことがある。夕子は女房がニューヨークに来るのと丁度入れ替わるタイミングで帰国し、その日以降は音信不通になった。だから女房は私の浮気については全く知らない。

 その夕子から昨日会社に電話がかかってきた。私が携わっていたプロジェクト案件が新聞のコラムに掲載され、私の名前と小さな写真を見た夕子が会社の代表番号を調べて電話してきたのだ。私は夕子を昼食に誘い、今日二十一年ぶりに一緒に食事をした。夕子は四十歳を超えたのに二十一年前と変わない美しさを保っていた。福島に住んでいると言っていたが、自分の帰国後の人生や家族については話題に出さず、私も質問しなかった。夕子は電話番号もメールアドレスも言わずに帰って行った。夢のような、そして不思議な一時間だった。

 残りの人生で、夕子と会うことは、もう二度と無いだろう。そんな予感がした。東西線の車内で隣に立った小柄な若い女性に体が触れ合わないよう必死で踏ん張り、万一痴漢と言いがかりを付けられても大丈夫なように両手で吊革にぶり下がりながら、夕子との不思議な再会の余韻に浸った。

 東船橋駅に到着して北口の階段を下り、線路に沿って家路を急ぐ。お盆休み前と違って、この時刻には、もう夕方の空気が漂っている。晴天だったのに電車が総武線に入る頃から空模様が怪しくなり始めていた。東船橋駅で下車して三十秒後、にわかに黒ずんだ空から大粒の雨がぽたりぽたりと落ち始めた。

「夕立が来る!」

 本降りになる前に家にたどり着こうと小走りに急ぐが、十も数えないうちにバケツをひっくり返したような土砂降りになった。黒の書類鞄を頭の上にかざし、三十メートルほど先の角にある大きな木の下で雨宿りをしようと必死で走った。

 左折気味に木の下に駆け込んで止まろうとした時、側道から同じ木陰を目指して駆け込んだ女性が目に入った。淡いパステルカラーのワンピース姿の若い女性だ。お互い相手に気づいて衝突回避を図ったが、二人とも壁際の方に動いてしまった。避けきれずに、文字通りおでことおでこでゴッツーン。目から火花が飛び散った。

 丁度その瞬間、その木を雷が直撃した。

 ドッカーン。

 大音響とともに、身体が宙に舞った。

 何秒経過しただろうか。いや、数分間経ったかもしれない。気がつくと私は道路にうつ伏せに倒れていた。雨は止んでいたが、道路は池のように水浸しで、私はびしょぬれだ。

 倒れたままの姿勢で顔を上げると、すぐ前に中年男性が仰向けに倒れていた。動きが無い。大丈夫だろうか。でも、私とぶつかったのは若い女性だったから、この中年男性は私たちの後から倒れこんできたのだろうか?

 どこかで見たような顔……

 それは私の顔と酷似していた。

 さっき衝突した若い女性はどこに行ったのだろう。濡れた頭をぶるぶるっと振ると、長い髪が顔にバサッとかかった。あれっ、この髪の毛はいったい誰の髪の毛なんだ? 手をやるとその髪は自分の頭から生えていた。頬を手で触ると髭の感触が無くすべすべしている。

「何だ、これは」

と言いながら膝を立てて起き上がろうとしたが、私の口から出るはずがない黄色い声が耳に響いた。

「ナンダ、コレハ」

 誰がしゃべっているんだろう。

 自分が着ているワンピースは太ももまでめくれて、細長い脚が伸びている。足にはハイヒールのサンダルがストラップで固定されている。これは、さっきぶつかった女性そのものだ。

 高いサンダルによろけながら立ち上がると、胸にゆっさりとした重みを感じる。

 女性のオッパイじゃないか! あわてて手を胸にやると、手の感触が服を通して乳房に伝わる。これは紛れも無く自分の身体だ。まさか。おそるおそる股間に手をやる。

 無い!

「キャーッ」

 自分では「わーっ」と言ったつもりだったのが、女性の悲鳴になっていた。

 私はへなへなとその場に座り込んだ。

 数人が通りかかった。

 倒れた中年男性を覗き込んでいる。

「もしもし、大丈夫ですか?」

 肩を揺すっても反応が無いようだ。

「生きてるのか?」

「救急車だ」

「この木に落雷したんだ」

「木が焼けてる」

「この木は塀で支えられているだけだ。風が吹いたら倒れるぞ!」

 通行人の一人が携帯電話で救急車を呼んでいる。

「大丈夫ですか? しゃべれますか?」

 通行人が私に聞いた。

 私は何と答えてよいのかわからず、座り込んだまま呆然としていた。

 救急車が来た。

 倒れた中年男性、というか、私の本来の身体は担架で救急車に乗せられた。

「この女性もここで落雷にあったようです」

 通行人が救急隊員に告げ、私は抱きかかえられるようにして同じ救急車に乗せられた。

 救急車が津田沼総合病院に向かっていることが隊員の声で分かった。

 私は呆然としていて、救急車の中で何を聞かれてもどう答えればよいのか分からなかった。

 ぶつかった瞬間に頭の中身が入れ替わったのか? いや、そんなSFのようなことが起きるはずが無い。

 でも、目の前の中年男性の身体は確かに自分のものだし、今の自分の身体は胸に双丘があり、股間には何もなく、髭の無いすべすべした頬をしていて、高い声で、淡いパステルカラーのワンピースを着ている。

 鏡で確かめないと断言できないが、どう考えても木の下で衝突した女性の身体が自分の身体になってしまっている。

「そちらの男性の身体は、私の身体なんです」

 などと自分自身さえ信じられないことを訴えても事態が改善するとは思えない。

 いっそ気を失ってしまえ、と上を向いて目を閉じたところ、本当に頭がぼーっとなって意識が遠のいた。

第二章 病院にて

 目が覚めると病院のベッドの上だった。

 左腕に点滴の管が固定されている。頭が痛い。

 ひょっとしてさっきのは夢だったのではと思い、右手で頭部を探ると、長い髪の毛が指にかかった。胸にはプニュプニュとした二つの塊りがあった。

 作務衣のような病院着に着替えさせられていて、胸の隙間から手を差し込むと弾力のある乳房があった。裾を掻き分けて股間に手をやると、パンツの下は完全に平坦だ。思い切ってパンツの中に手をつっこむと、それは女性のアソコだった。

 指を入れて確かめようとしたが、くっついているようでもあり、無理に指を入れようとすると痛かったのでやめにした。

 私は木の下でぶつかった女性になってしまっていた。

 そこに若い看護師が入ってきて、

「木下さん、気がつきましたか?」

と明るい声をかけてくれた。

「木下……」

 木の下でぶつかったから木下と呼んでいるとすれば悪いしゃれだ。

「木下さん、ご気分はどうですか?」

「私は木下って言うんですか?」

「木下美玖みくさんでしょう、わかりませんか?」

「何も覚えていないんです」

「木下美玖さんですよ」

 ベッドの横の物入れの扉を開いてハンドバッグを取り出し、財布から運転免許証を出して私に手渡した。

 木下美玖、平成七年三月二十九日生まれ。年齢で言うと何歳だろう、頭がよく回らない。住所は船橋市西船橋小峰町三ー一五ー二ー三二六と書いてある。西船橋のアパートかマンションの第二棟の三二六号室に住んでいるようだ。

 免許証の写真は確かにさきほどぶつかった女性の顔だっだ。西船橋に住んでいて、あの木の下に私と反対の方向から歩いてきたということは、帰宅するために総武線に乗ろうとして東船橋駅に向かう道で夕立にあったのだろう。

「そのバッグを見せてください」

 バッグの中に入っていたのはスマホ、化粧品、ハンカチ、財布、手帳と鍵だった。スマホはバッテリーが切れていた。

 財布には千円札が二枚と小銭が入っている。イオンのクレジットカードと、VIEWスイカカード、それに三菱東京UFJ銀行のキャッシュカードも入っていた。

 そうだ、私の身体はどうなったんだろうか? もしこの女性の魂が五十五歳の男性の身体に入り込んでしまったとすれば、彼女の方でも困っているはずだ。

「もう一度頭をガチンコしたら元通りに入れ替わるんじゃないだろうか」

 そんな考えが頭に浮かんだ。

「同じ救急車で運び込まれた男性はどうなりましたか?」

 私は看護師に質問した。

「残念ですがお亡くなりになりました。落雷をまともに受けて即死だったようです。木下さんも本当に紙一重の所に居合わせて危ないところでしたね」

 なんと、私は戻るべき身体を失ったということなのか……。

 急に涙がどっと出てきて、嗚咽で喉が詰まった。泣くのをやめようと思っても身体が言うことを聞かない。

「ご一緒だったのですか?」

「いいえ、赤の他人です」

 泣きながら答えた。いつもの私とは違って、極端に涙もろくなっているようだ。

「一晩ぐっすり休んだらきっと良くなりますよ。ショックで一時的に記憶がなくなるというのはよくあることですから」

 看護師は出て行った。

 何も考える力がなくなり、泣きながら寝てしまった。

 翌朝、病室のベッドで目が覚めた。自分の身体がどうなったのか、気がかりでならない。

 即死だったと看護師が言っていたが、もし身体が雷で黒焦げになっていないとすれば、魂が戻ると息を吹き返す可能性があるかもしれないと思った。救急車に乗せられた時の自分の身体は外観上は焼け焦げた様子は無かった。

 遺体のまま時間が経つと体が腐るのではないだろうか。魂を戻したければ早くしないと手遅れになる。

 とにかく遺体に近づかない限り元に戻るチャンスは無いだろうから、自宅に帰ることが最優先課題だ。

 そこに昨日の看護師が入ってきた。

「元気になりましたから退院させてください」

 私は看護師に頼んだ。

「記憶が戻らないことには……」

「昨日はぼーっとしていましたが、一晩寝たらすっきりしました。今日、友人と約束があるし、一刻も早く自宅に戻りたいんです」

と嘘を言う私。

「先生の診察の後じゃ無いと……」

「一旦自宅に帰って用を片付けたらすぐに戻ってきます」

「ちょっと待ってください。先生の診察の予定を確かめてきますから」

 ぐずぐずしている余裕は無い。自分の身体を取り戻すための時間はそんなには残っていないはずだ。

 私はベッドの横のキャビネットの中にワンピースが折りたたんで置かれているのを見つけて急いで着替えた。パンツとワンピースだけの恰好でベッドの下にあったハイヒールのサンダルを履き、バッグをつかんで病室を飛び出した。

 看護師に見つからないように裏の非常階段から外に出た。

 身体を動かすと、揺れる胸がワンピースの裏地に擦れて痛い。ヒールが七、八センチはありそうなサンダルを履いていると、まるでつま先立ちしているような感じだが、不思議にスムーズに歩くことができた。身体が覚えているのだろう。しかし、足早に歩くとつまずきそうになる。

 タクシーを拾って、自宅のマンションの名前を告げた。自宅は東船橋にあるマンションで、いつも海外出張から帰国する時には京成津田沼駅から津田沼の総合病院の前を通ってタクシーで帰っていたので勝手は分かっている。

 財布の中に二千円入っていたから、自宅までのタクシー代は十分払えるはずだ。

 マンションの敷地内に着くと、いつものように「六号棟まで道なりにお願いします」と運転手に言った。

 一見日常的な状況なのに、スカスカのワンピースを着て高い声で運転手に話しているというのは妙な気分だ。

 マンションのエレベーターの入り口に着いて料金を払った。エレベーターで十二階に上がった。自宅のドアには小さな喪章が掛かっていたが、ドアは閉まっていて、チャイムを押しても応答が無かった。エレベーターを降りて、管理人室に行った。

「森村さんのお通夜はどちらですか?」

 管理人は私のつま先から顔までジロジロと見た。

 私はその時始めて、自分の服装が葬式には著しく不似合いであることを認識した。

「お通夜は一昨日で、告別式は今朝終わったよ」

「一昨日ですか? 亡くなったのは昨日のはずですが」

「一昨日の夕方の落雷で亡くなったのに間違いないよ」

 ということは、私は昨日意識が戻るまでに丸一昼夜寝ていたということになる。

「じゃあ、ご遺体は今どこに?」

「三時間ほど前に出棺したからから、もう火葬が終わったはずだ」

 目の前が真っ暗になった。私の身体は木下美玖の魂を宿したまま灰になってしまったのだ。

「ありがとうございました」

 管理人はまだ私を胡散臭そうな目つきで見ていた。

 自宅のドアの前で妻を待って事情を話し、「僕の中身は死んではいないんだよ」と教えてあげたい。

 でも、火葬場から帰ったところに、こんな服装の若い女が押しかけてくるというのは余りにも唐突で、妻の心をかき乱すだけだ。とにかく今となっては急ぐ意味がなくなった。一旦木下美玖のアパートに行き、気持ちを落ち着けてから善後策を考えよう。

 ハイヒールと格闘しながら東船橋駅まで小走りに歩き、西船橋までの切符を買うと、財布の中には三百円しか残っていなかった。西船橋駅を出て、三菱UFJ銀行のATMにキャッシュカードを差し込んだものの暗証番号が分からないことに気づいた。

 手帳に書かれている住所でマンションを探し出し、バッグの中のキーを差し込むとドアが開いた。

 それは1LDKの普通のアパートだったが、私の自宅とは比較にならないほど雑然としていた。

 リビングルームの真ん中に、スカートが脱ぎ捨てられていた。丸く広がったスカートの真ん中にショーツとストッキングが脱がれたまま放置されている。木下美玖は出かけるときに余程急いでいて、このワンピースに着替えて部屋を飛び出して行ったのだろう。

 キッチンのシンクには使いっぱなしのお皿とコップが置かれていた。

 急にお腹がすいてきたので、冷蔵庫を開けると、賞味期限が今日までのハムとしなびた野菜があり、冷凍庫には冷凍野菜が入っているだけだった。

 キッチンのキャビネットの中を探すとインスタントラーメンが見つかった。鍋にお湯を沸かし、ハムと冷凍野菜を入れてインスタントラーメンを作った。鍋のまま、ふうふうと冷ましながら食べた。

 バッグの中のスマホに充電器をつないだ。通話記録やメールを見れば木下美玖についての情報が得られるだろう。

 とても風呂に入りたい気がして、浴槽にお湯を張った。

 スポンジにボディソープを含ませて身体の隅から隅までやさしく洗った。乳房が湯船の中で揺れる感触が新鮮だ。くたびれた肌のゴツゴツとした五十五歳の男の肉体に慣れた私にとって、シミひとつ無い白いマシュマロのような乳房は衝撃的なほど美しかった。

 初老の男性の身体に閉じ込められて焼かれてしまった木下美玖の魂に対して申し訳ないという気持で一杯だった。

 シャンプーを付けて頭皮を念入りにマッサージした。髪を頭の上に盛り上げて、湯船に顎までつかった。

 口と鼻だけ出して湯船に全身を漬けて数分間放心したようにリラックスした。

 シャワーをして風呂から上がった。

 タンスの引き出しを開けて着るものを物色し、ピンクのブラジャーとパンティを身に着けた。ブラジャーを着けるのは気が引けたが、乳首が服に擦れる痛みはとても我慢できるものではないし、ノーブラでは乳房の存在が気になって仕方がなかった。

 その時、充電器の上に置いたスマホから着信音が鳴り響いた。

 どう応答すればいいのか分からないが、とりあえず「はい」と返事した。

「木下さん?」

「はい」

「バカヤロウ! 忙しいときに無断欠勤して。今、どこにいるんだ?」

 これは会社からの電話だ。さきほどの管理人の発言から判断すると今日は月曜日で、もう昼過ぎだから、木下美玖は欠勤しているわけだ。

「すみません。雷に打たれて、救急車で病院に運び込まれました。昨夜意識を回復したばかりなんです」

「大丈夫か? どこの病院に入院しているんだ」

「津田沼の総合病院です」

「どこか怪我してないのか。火傷してるのか?」

「外傷はありません」

「いつ退院できるんだ?」

「それは、先生に聞いてみないと……」

「わかった。それじゃあ、後で誰かを見舞いに行かせるから」

 結局、自分の名前を名乗りもせずにその男性は一方的に電話を切った。

 会社から誰かが見舞いに来るまでに病院に帰るのが賢明だ。

 落雷に合って意識不明で入院したということなら無断欠勤にはならないだろうが、家でぶらぶらしていたら話は別だ。もし会社をクビになったら木下美玖やそのご家族に申し訳が立たない。

 それに、私はヤドカリのように木下美玖の身体を借りて生きていくしかなさそうだ。私自身が木下美玖ということになるわけだから、木下美玖が職を失うと自分が食べていけなくなる。評判が落ちないよう気をつけなければならない。

 クローゼットを開けて病院に着て帰れそうな服を物色したところ、くるぶし丈の黒のパンツとブラウンのおとなしい柄のチュニックがセットになってハンガーに掛かっているのが目に入った。

 これなら外を歩いても、さほど抵抗は感じない。

 バッグを持ってローヒールの黒のパンプスでアパートを出た。二十四センチと表示されたこんなに細い靴に自分の足がすっぽりと入ったのは驚きだった。

 西船橋駅で総武線に乗って津田沼駅で下車し、病院まで歩いた。

 病室に帰るとベッドは元のままだった。畳んで置いてあった病院着に着替えてベッドに入った。

「木下さん、困ります。勝手に外出しては」

「すみません。スマホの充電器を取りに自宅に帰って、お風呂に入ってきました」

「記憶が戻ったんですね」

「そうとも言えないんですけど……」

「とにかく回診があるまでおとなしく寝ていてください」

「はい」

 六時に夕食が配膳された。いかにも病院食という感じの無機質な食事だったが、空腹だったので抵抗なく食べられた。

 米は自分の期待する味より甘く感じた。本来好きではない煮魚が美味しいと感じられる。私の身体と木下美玖の身体では味覚が微妙に異なるようだ。

 夕食のトレーをワゴンに返して間もなく、見舞い客が来た。

「美玖、怪我はないの? 雷に打たれたって聞いたから心配したわよ」

 それは二十代前半で木下美玖と同じような体格の女性だった。

「はい。身体は一応大丈夫みたいです」

「何よ。いきなり敬語みたいな言葉遣いをして。雷に打たれて頭が変になったの?」

「え、目上の方じゃないんですか?」

「冗談だったらぶん殴るわよ」

「落雷に合うまでの記憶が全くなくなったんです。あなたが誰だか覚えてないんです」

「本当なの?」

「うそだったら、殴っていいですよ」

 ふーっ、とため息をついて、その女性はベッドの縁にドカリと腰をかけた。

「私は栗山洋子。美玖と同期入社の友達よ。そう、親友と思ってもらっていいわ」

「栗山さん、ですか。よろしくお願いします」

 私としては栗山洋子にすがるしかない。

「まず、その言葉遣いをどうにかしてくれない? 洋子、美玖って呼び合う間柄だし」

「わかりました。じゃあ、洋子、まず会社のことを教えて。社名は何?」

「菱村物産よ」

「菱村物産って、赤坂にある一部上場の商社?」

「そうよ」

「すごい! そこで私はどんな仕事をしているの?」

「どんな仕事って、精密化学品部の普通の一般職よ」

「一般職ってアシスタント業務をする事務職のことよね」

「そういう言い方もあるかしら。変なことを言うわね」

「私は入社何年目なの?」

「本当に覚えてないの? 今年の四月入社の新入社員でしょ。私と同じ」

「ということは二十三歳なの? でも確か運転免許証ではもっと若いみたいな……」

「何を言ってるの。美玖は三月生まれで短大を出たばかりの二十歳でしょ」

「そんなに若いのね。じゃあ、洋子も二十歳?」

「悪うござんしたわね。私は一浪で四年制大学卒の七月生まれだから二十四歳のババアよ」

「すみません。やっぱり年上だったんですね。失礼しました」

「だから、その言葉はやめなさいって! 三学年も違うけど一緒に入社した日からずっとため口でしょ」

「そうなのね。じゃあ、敬語はやめます。私が出た短大ってどこだか知ってる?」

「小紫女子短期大学の英文科よ。入社の日にジャパンをJAPPANってスペルしたようなレベルの英文科だけど」

「小紫女子ってお嬢さん学校として有名な、西荻窪にある大学ね。合コンしたことがあるみたいな……」

「確かにお嬢さん学校で知られてるわ。美玖がお嬢さんかどうかは全くの別問題だけど」

「もう、洋子ってサディスティックなことばかり言って。シニカルなのね」

「あんた、やっぱりおかしいわ。サディスティックはとにかく、シニカルなんて英単語がすらすら口に出るようなレベルの子じゃないのに」

「ということは、私って、賢いタイプとして位置づけられてはいないというわけね」

「そうね。位置づけ、なんて言葉が似合わない、お茶漬け、という感じの子よ」

「なんじゃそりゃ」

「いつものノリに戻ったようね」

「じゃあ、次の質問。私は西船橋のアパートに一人で住んでいるみたいだけど、実家とかあるのかしら」

「実家は福島でしょ」

「じゃあ、短大も西船橋から通っていたのかな?」

「短大のときは荻窪のアパートだったと聞いたわ」

「ふうん、そうなんだ」

「あんた、自分に関することは忘れてしまっても、地名とか、会社名とか、一般常識は覚えてるのね」

「そうみたい。会社についてもっと教えて。洋子は私と同じ部署なの?」

「同じ精密化学品部の隣の課よ。あなたは医薬品原料課で、私は電子材料課」

「精密化学品部の人たちの名前と役職をこの手帳に書いてくれる?」

 洋子はぶつぶつ言いながら、手帳二ページ分に部の机の配置を描いて、三十数名の部員の役職と名前を記入してくれた。その手際と仕上がりを見ると、洋子の頭脳レベルは相当高いということが分かる。

「会社の始業は何時なの?」

「九時十五分だから、遅くとも九時には更衣室に入らないと」

「更衣室ということは、制服があるの?」

「そうよ」

「どんな制服?」

「美玖がいつもダサイって言ってる制服よ。来ればわかるわ」

「更衣室はどこにあるの?」

「十四階にエレベータで上がって、精密化学品部の入り口と逆方向に二十歩進んだ左側が更衣室よ」

「そこから私の席へはどう行くの?」

「そのために書いてあげたんでしょう」

 洋子はブツブツいいながら先ほど書いてくれたページを開き、更衣室の場所と私の席を指で示した。

「もし迷ったら『記憶を無くしました。私の席はどこですか』って周りにいる人に聞きなさい」

 洋子は私の相手をするのに飽きてきたようだ。

「出社したら私が教えてあげるわ。その状態じゃ、誰に会ってもトンチンカンな対応をしそうだし、記憶を無くしたことは初めから正直に言う方がいいわよ」

「そんなことがばれて、クビになったらどうするの。業務内容の記憶も無くしてしまったんだから、使い物にならないってクビにならないかしら?」

「美玖ねえ、あんたは業務内容と言えるほどのことはさせられていないから、クビになったりしないわよ。頭はクラゲなのに、愛嬌だけで採用されたって、あんたの敵は言ってるわ。まあ、あながちウソとも言えないけど」

「ひどい。私はそんなに低能なイメージなの? その敵って誰なの?」

「農薬課の尾崎彩子よ。美玖にとっては小柴女子短期大学の一年先輩で昨年入社。吉崎さんと付き合っていたのに、吉崎さんが新入社員の美玖に目移りして捨てられたから美玖を恨んでるという噂よ」

「私はその吉崎さんと付き合ってるの?」

「何度か誘われたのは確かよ。でも、美玖は吉崎さんについてはしゃべりたがらなかったから、どこまでできてるのか、私は知らないわ」

「できてるって……」

「吉崎さんはプレイボーイだから、まず、最後まで行ってるでしょうね」

「そ、そんなあ!」

「会って確かめなさいよ。でも海外出張中みたいだから帰国するまでは会えないけど」

 看護師が入ってきて、面会の時間が終わったので帰るようにと洋子に促した。

「じゃあ、退院の予定が決まったら私の携帯に電話しなさい。番号は美玖の携帯に登録されてるから」

「わかったわ。ありがとう、洋子」

 洋子が去ると全身をどっと疲労感が襲った。病室の天井のモザイクを数えながら、洋子から聞いたことを色々考えた。

 私の新しいアイデンティティである木下美玖は、短大を出たばかりの二十歳のOLなのだ。驚くべき若さというか、ほんの二、三年前まで高校生だったわけであり、まだ子供だ。だからこんなに弾力性があってきめ細かい透き通るような肌をしているわけだ。そんなに若いのに会社勤めして、敵もいて、多分私がしたのとは違った種類の苦労をしているのかもしれない。若い女の子も楽じゃない。

 灰になってしまった元の身体ではもう五十五歳で、それなりに人生を楽しんでいたが、身体の老化も容赦なく進み始めていた。あと五年か十年働けばいわゆる老後が残っているだけ。

 それが突然二十歳になって、人生の元気な部分を二度経験できるのだから、とてつもなくラッキーかもしれない。

 女性として生きるというのも趣向が変わって面白い。全く違った服装や生活様式にはとまどうが、まあそのうち慣れるだろう。

 それにしても吉崎というボーイフレンドのことが気になる。洋子が、プレイボーイと言っていた。木下美玖はそんな男と手を組んだり、キスをしたり、考えるのも恐ろしい行為に到ったのだろうか……。

 胸に手をやって乳房の感触をもう一度確かめた。自分がこの身体を気に入りかけているのは、それが若い女性の身体であり、この身体に内接している感触が快いからだ。

 栗山洋子と二人で温泉に行って肌を触れ合ったら気持ちいいに違いない。でも吉崎という男と身体を触れ合うのは想像するのもおぞましい。自分はレズとして生きていくことになりそうだ。

 翌朝、回診があった。

「記憶は戻りましたか?」

と主治医の先生が私に聞いた。

「何となく思い出せそうな感じになりかけるんですけど、まだ記憶は戻りません。体調は完璧なんですが」

「CTとMRIでは異常は見当たらなかったので、経過を見るしかありませんね」

「日常生活に戻ったら色々思い出すでしょうから、退院していいですか? 会社を何日も休みたくないので」

「本来はもう少し入院して様子を見たほうがいいのですが、どうしてもということなら退院を許可しましょう。但し、頭痛などの異常があったら必ず直ぐに来院してください。当分、異常がなくても週一回通院してください。お薬を処方しておきますから、朝夕飲んでください」

「何のお薬ですか」

「脳神経保護剤と代謝改善剤、それにビタミン剤です」

 しばらくすると看護師が戻ってきて、会計で退院手続きをするように言われた。健康保険証の呈示を求められたが、バッグの中に健康保険証は入ってなかった。

「自宅に帰って取ってきます」

と言ったが、その場合は保証金十万円を現金で預けて欲しいという。しかしキャッシュカードの暗証番号が判らないから現金は無い。

 結局、勤務先を聞かれ、その場で会社の健康保険組合と色々電話でやりとりして必要情報が得られたようだった。

 本人負担部分については本来この場で現金で払う必要があるが、

「キャッシュカードの暗証番号も記憶喪失したので直ぐには現金が引き出せません。思い出すまで入院しなきゃダメでしょうか?」

と泣くようにいったところ、次回来院時に払うということで了解してくれた。

 電車を乗り継いで西船橋のアパートに帰った。まず、洋子の携帯に電話をして退院を知らせ、私の上司に伝えてくれるよう頼んだ。

 片っ端から引き出しを開けて、お金や預金通帳を探した。自分が泥棒に入ったようで可笑しかった。

 鏡台の引き出しに一万円札が一枚入っていた。

 私の自宅でも妻は鏡台の上の見えるところに一万円を置いていた。万一泥棒が入ったら、その一万円札を持って出て行ってくれれば、という期待をこめたお守りのようなものだ。木下美玖もそんな目的で置いたのだろうか? とにかく一万円あれば何日かは食いつなげる。

 役に立ちそうに無いカードが何枚か見つかったが、預金通帳は見当たらなかった。印鑑は木下と書かれた丸い三文判が二つ見つかった。

 キャッシュカードの暗証番号が分からないと身動きが取れない。

 テーブルの上のノートパソコンのスイッチを入れたところ、幸いパスワード入力なしで起動できた。デスクトップに「ひみつ」という名前のZIPファイルがあったのでダブルクリックしたところ、パスワードの入力を求められた。

 もしや、と思い、「ごみ箱」を確かめると、「ひみつ」というフォルダーが残ったままだった。「元に戻す」をクリックすると、デスクトップにフォルダーが復元され、パスワードや口座番号が全て記入されたワードファイルが入っていた。

「これじゃあ、頭はクラゲと言われても文句は言えないな」

 ごみ箱の中のファイルを見られるのだからパスワード付き圧縮ファイルにする意味が無い。この子にはセキュリティに関する教育が必要だ。

 その情報を使って三菱UFJ銀行のホームページにログインし、木下美玖の口座の入出金記録を調べると二十五万円の残高があった。

「入社五か月目で二十五万円の残高があるとは、意外にしっかりとした子だな」

 少し安心した。

 キャッシュカードを使ってお金を引き出すのに必要な四桁の暗証番号はどこを探しても手がかりは得られなかった。

 木下美玖はキャッシュカードの暗証番号だけはファイルに記入したりせず記憶だけに収めていたようだ。

 明日の昼休みにでも銀行に行って、パスワード紛失の手続きをしようかな。新しい銀行口座を開いて会社の給与振込みをそちらに変更してもらう必要があるかもしれない。いや、ゆうちょ銀行にでも新たに口座を開設して、三菱UFJ銀行のホームページからオンラインで振り込むという手はある。

 明日は菱村物産に初出社だ。商社勤務経験のある私にとって菱村物産に勤務すること自体は苦にならないが、OLとして出社したらどんなことになるのか、想像がつかない。

 親友の洋子以外は知らない人ばかりの中に飛び込んでいくことになる。私はちゃんとやっていけるだろうか。

 それ以前に、どんな格好をして会社に行けばよいのだろう。クローゼットを物色して、結局、一番上等そうな服、すなわちグレーのスーツを選んだ。靴もヒールが五センチほどのグレーのパンプスが見つかったので、玄関にそろえて置いた。

 冷凍野菜の残りとインスタントラーメンで夕食にした。シャワーを浴びて早めにベッドに横たわった。

第三章 初出社

 翌朝、洋子に言われた通り地下鉄千代田線で赤坂まで行くと、菱村物産のビルの入り口はすぐに見つかった。

 洋子が書いてくれた配置図を頼りに十四階の更衣室に直行した。まだ早いのか、更衣室には誰もいない。

 木下というネームプレートの付いたロッカーを開けて、制服に着替えた。白のブラウスと、おとなしいピンクのツーピースだ。昨日洋子から聞いたダサいという表現は適切ではないと思った。

 制服は自分の身体に不思議なほどフィットした。木下美玖が自分用の制服を着るのだからフィットするのが当然なのだが、更衣室に忍び込み、ロッカーを開けて、どこかのOLの制服を恐る恐る試着する変質者のような後ろめたい気分になっていたので、その制服が自分の身体にフィットすること自体が不思議だったのだ。

「木下さん、退院したのね」

 二十代後半の小柄で目つきが厳しい女性が更衣室に入ってきた。

「はい。昨日の夕方退院しました」

「雷に打たれて記憶をなくしたって聞いたけど本当なの?」

「ええ、そうなんです」

「私の名前は覚えてる?」

「いえ。すみません」

「山口よ。山口淑恵」

「木下美玖です。よろしくお願いします」

「あなたの名前は覚えてるわよ」

「す、すみません」

 話しているうちに数名のOLが次々と出勤してきて、制服に着替え始めた。着替えながら山口と同じように、私に話しかける。

 私が雷に打たれて記憶を無くしたことは全員が知っていた。洋子が話したのだろう。私は若いOLたちが私の目の前で平気で下着姿になってピンクの制服に着替えていくのをあっけにとられて見ていた。入れ替わる前の私がこんな場所で彼女たちの下着姿を見たら、すぐに通報されて刑務所行きになったに違いない。

 九時十分を過ぎて更衣室に飛び込んできた女性に、

「おはようございます」

と声をかけたが、返事をしてくれなかった。

 それは木下美玖より二、三センチ身長が低い、丸い目をタヌキのようにメイクした若い女性だった。

「昨日退院しました。休み中はご迷惑をおかけしました」

「なにそれ」

と言って、フンと笑った。

 今日始めて、敵意を感じる相手に出会った。

「尾崎彩子さんですか?」

「なんだ。記憶を完全に無くしたって聞いてたのに」

と不満そうに言って更衣室を出て行った。

 私も更衣室を出て、洋子を探しあて、木下美玖の座席を教えてもらった。

 洋子は私を課長の所に連れて行った。

「あなたの上司の小田切課長よ」

と私の耳元でささやいた。

「昨日退院しました。休み中はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

「元気そうで安心したよ。記憶を無くしたと聞いたが」

「はい。雷に打たれる前の記憶が完全に無くなりました。どんな仕事をしていたかも覚えてないんです」

「本当かね。まあ、気を楽に持って、課の人間の手伝いをしていれば、そのうち記憶も戻るだろう。伝票のインプットとかは、洋子くんとか、部の女性に教えてもらえばいい」

「はい。よろしくお願いします」

 席について、昨日洋子に書いてもらった人名表を見ながら、課の六名の名前と顔が結びつくよう、皆の顔を観察した。

 全員が忙しそうにしていたが、自分は何をしたらいいのかが分からず、居心地が悪い。

 吉崎はどこに座っているんだろう。

 洋子に書いてもらった座席配置図を見て吉崎の席を確かめた。洋子が病院に見舞いに来たときには海外出張中と言っていた。いつ帰るのだろうか。

「あのう。何かお手伝いすることはないでしょうか」

 課で私の次に若い竹林の仕事が一段落ついた合間を見計らって声をかけてみた。

「お前、雷に打たれて頭が変になったんじゃないの? お前が、お手伝いすることはないでしょうか、なんて似合わないよ」

と竹林。

「すみません。雷に打たれる前に自分がどんなだったとか、全く思い出せないんです」

「まあいいや。雷に打たれて素直になったのなら助かるよ。でも、よく見るとお前、すっぴんじゃないか。それに、素足だし」

「お化粧の仕方とか忘れてしまって。素足はダメなんですか? 若くてきれいな足だし、そのままでも大丈夫のような……」

「すごい自信だな。でも、周りを見て見ろ。このフロアで他に素足の女性がいるか?」

 見回すと、女性は例外なくストッキングを履いている。森村だった頃の自分は会社で毎日女性社員を見ていたが、全員がストッキングを履いているかどうかなど考えたことも無かった。最近の若い男性はそんなことまで意識しているのか、と感心した。

「すみません。明日から履いてきます。コンビニで買えますよね?」

「知るか。先輩OLにでも相談しろ」

 竹林は呆れ果てたという表情だった。

「化粧の仕方を忘れるとは、相当な電撃だったんだろうな。でも、ちゃんとしゃべったり考えたりできるみたいだから安心したけれど、一体どうなってるんだ?」

「色々勉強して元通りに働けるようになりたいと思いますのでご指導お願いします」

「ほんと変だよ。お前」

 竹林は、その後、コピーを頼んだり、総務部に書類を届けるように言いつけたりと、私にかまってくれるようになった。

 時計が十二時を指した。

「お昼にしようよ」

と、洋子が誘ってくれたのでついていった。

 同じ部で一年先輩の加藤夕菜と三十代半ばの水谷美香子の四人でインド料理店に行った。既に店の外まで行列が出来ている。人気店のようだ。

「店の外まで並ぶなんて、余程おいしい店なんでしょうね」

 思ったことを単純に口にすると、夕菜と美香子が私の目を穴の空くほど見つめた。

「元々あんたが行きたがったから来るようになったのよ」

「すみません。雷に打たれる前のことは全然覚えてないんです」

「本当なのね。見かけは傷も無いし、ぴんぴんしてるのに」

「本当に、完全に忘れてしまったんです。さっきも竹林さんに素足は変だって指摘されたんですけど、ストッキングを履かなきゃならないってことも覚えてなかったから……」

「言いにくいから私も言わなかったけど、そうだったの」

と美香子。

「お化粧してないのも、お化粧をしなきゃならないことを忘れてた、なんて言わないでよね」

と美香子が追い討ちをかけてきた。

「女性がお化粧をするということは覚えてました。でもファンデーションの使い方とか、順番がよく分からないし、今朝は時間がなかったから、そのままで会社に来てしまったんです。それに、鏡を見ると、これだけ若い肌だったら塗りたくる必要も無いようにも思えて……」

 洋子と夕菜が当惑したように目を見合わせた。

「あんた、私達に喧嘩を売る気?」

 美香子がおどけたような言い方で私を責めた。よく見ると、美香子は化粧が厚めで、若く見せようと無理をしているなと思った。

「申し訳ありません。私、B型で、思ったことをそのまま口に出してしまって」

「B型がどんな性格だとか、一般常識的なことについては記憶喪失してないのね」

と、夕菜。

「えへへ、本当は私、自分の血液型を覚えていないから、今のは出まかせなんですけど」

「そんなら益々B型しかありえないわ」

と美香子が言った。

「じゃあ、来週の試験も大丈夫ね」

と、洋子がニヤニヤしながら言った。

「来週の試験って何なの?」

「TOEICの社内受験よ。美玖の得意な英語のね。二年目までの社員は全員受験よ」

「ええ、英語だったら大丈夫よ」

 私は森村として二回のニューヨーク駐在を経験しており、TOEICは腕試しで数年前に一度だけ受験したことがあるが、九百五十五点だった。

「英語が弱点だってことも都合よく忘れちゃったのね。まあ、誰も期待してないから良いけど」

 洋子は一浪して四年制大学を卒業しているから、短大卒の美玖の学力を見下しているのだ。

「じゃあ、賭けましょうか。一点百円でお互いの点差分払うってことでどう?」

と私は洋子に挑戦状を叩きつけた。一点百円というレートはゴルフやマージャンからの連想だった。

「バカなこと言わないで。記憶喪失で自分の実力を忘れた人を相手に、何万円も勝つことが分かっている賭けなんかできないわ」

と、洋子。

 正直で良い性格の女性だなと感心した。親友として大切にしなくては。

「じゃあ、一点十円ならいいでしょ。お願い!」

「そこまで言うなら、二、三千円勝つことが分かってても良心が痛むことも無いか。じゃあ、ハンディを百点あげるわ」

「ハンディはいらないわ。勝った時に千円余計に取り立てたくないもの」

「わかったわよ。じゃあ、一点十円でね」

 美香子と夕菜が証人になって賭けが成立した。

 カレーは本格的なナブラタンコルマで、とてもおいしかった。

 私はインドに何度も出張したことがあり、インド料理についてはちょっとした通人を気取っていた。このレストランのカレーは森村の味覚でも同じようにおいしいと感じるに違いない。

 二人の先輩や親友の洋子とのおしゃべりは、屈託が無く心地よいものだった。

 その日の主な話題は救急医療に関する連続テレビドラマのことで、そのドラマは初回から欠かさず見ていたので、私も話題についていくことができた。

 そのドラマの出演者には好きな女優が何人かいて、私は洋子に負けないほど情報を持っていた。

 男優については名前と顔がかろうじて結びつく程度だったが、美香子を含め、三人とも男優の身長や経歴まで詳しく知っているのには驚いた。私は男優の身長など何の興味も湧かないが、木下美玖として生きていくためには、今後は男優の情報も仕入れる必要がありそうだ。正直なところ気が進まない。

 レストランを出たのは十二時四十五分で、洋子について更衣室に行き、洋子が化粧を直すのを手持ち無沙汰に見ていた。

「今日は化粧道具を持ってないから」

 更衣室を出て洋子に着いて行くと女子トイレに行きついた。

 禁断の場所に足を踏み入れるようで、胸がドキドキしたが思い切ってついて入った。洋子の隣の小部屋に入り、スカートを上げて座った。

 今朝会社に着いてから自分なりに相当緊張していたので気づかなかったが、尿は限界まで貯まっていて、洋子の小部屋から音が聞こえ始める前に迸り出た。

 出し終わって深呼吸すると、胸のドキドキも収まっていた。

 数名の女子社員が鏡の前に重なるように立って化粧を直していた。私は手だけ洗って、いつものクセで手の水分を髪にこすり付けて手櫛で髪を直しつつハンカチを使わずに手を乾かした。

「美玖、まるで中年のオジサンね。うるさい先輩もいるから、ハンカチを使ったほうがいいわよ」

と洋子が耳打ちしてくれた。

「ごめん、つい、いつものクセで」

と小声で言ってしまった後で失言に気づき冷や汗がでた。

 幸い、洋子は私の言ったことが聞き取れなかったようで、事なきを得た。

 午後は午前中よりも気楽に過ごすことができた。

 課長から明日の会議用のプレゼンテーション資料を二十部コピーするように言われたからだ。

 何故パソコンから直接プリンターに出力しないんだろう、と思ったが、仕事をもらって嬉しかったので丁寧に仕上げた。

 英語に何ヶ所かスペルミスがあったが気づかないフリをした。

 長年の会社勤めの経験からして、部下が上司のスペルミスを指摘するのは相当リスクを伴うことだ。

 今朝からの観察の結果としては、美玖は業務能力が評価されているのではなく、短大を出たばかりで何も出来ないが職場に安らぎをもたらすことが存在価値になっていると推測された。

 自分としては未経験の範疇だが、そのような役を演じながら様子を見つつ長期的にどうするかを考えていくのが懸命だろうという気がしていた。

 午後二時を過ぎたころ、急に寒くなった。

 太ももから膝が猛烈に冷えてきて我慢できなくなった。

 周囲を見渡すと誰も寒そうではなく、スカートに素足で冷房の効いた部屋に座っているからかなと思った。

 ロッカーの中にストールがあったのを思い出して取りに行った。

 それでもまだ寒く、ストールの上から太ももを寒そうにこすっていたら、竹林が気づいたようだった。

 電話の応対をしたり、またコピーを頼まれたりして時間が過ぎた。

 しばらく席を外していた竹林が帰ってきて、コンビニの袋を私にそっと差し出した。

「風邪ひくぞ。これ、やるから」

 中身を見ると、パンストだった。私が寒そうにしているのを見て気を回してくれたのだ。

 会社でこんな優しさに出会うことなんて滅多に無いことだ。この人は口は悪いがとてもいい人だなと思った。

「ありがとうございます。感激です」

「いいから、早く履いてこい」

 更衣室でパンストを履いた。女房がパンストを履くところを何度も見ていたので、伝線させずにちゃんと履くことができた。パンストを履いて歩くと、足とスカートの裏地のこすれる感触が素肌とは全然違っていた。それは、経験したことが無いフェミニンな感触だった。

 うきうきしながら席に戻った。

「本当にありがとうございました」

「いいよ。気にするな」

 後になって思うと、私は多分、それからずっと嬉しそうな顔をしていたのだと思う。

 午後四時に課長に来客があり、私は洋子に教えてもらってお茶を応接室に持っていった。

 このときは長年のサラリーマン経験が役立った。

 接客中に女子社員がお茶を出してくれるときに、出す順番を間違えたり、ぶっきらぼうに出たりされて、苦々しい思いをすることがあった。自分は完璧なお茶の出し方をしてみようと思った。

 年配の客に先に出し、次に若い方の客、最後に課長に出した。出し終わるとドアの前に背筋を伸ばして立ち小声で「失礼致しました」と言い、会釈をして応接室を出た。

「木下さん、さっきはありがとう。うるさいお客さんなんだが、お宅の女子社員は上品で作法が行き届いてるね、と言われたよ」

 接客が終わって席に戻ってきた課長の第一声だった。

「上品? 作法? 雷に打たれる前の木下には無縁の形容詞ですね」

と竹林が冗談っぽく言った。

「お前、雷に打たれてよかったな」

 私は嬉しいのと同時にはずかしかったので、

「じゃあ、竹林さんも雷に打たれてみたらどうですか」

と憎まれ口を叩いて、お茶を下げに行った。

 飲み終えた茶碗をお盆に載せて、女子社員が「湯沸し室」と呼んでいる小部屋に持って行って洗った。

 手を拭いていたとき、尾崎彩子が入ってきた。

「雷に打たれて記憶を無くしても淫乱癖は直らなかったのね。素足を男たちに見せびらかして、竹林さんを垂らしこんだらしいじゃない。吉崎さんを寝取っただけじゃ気がすまないのね。そのストッキングを見てると、私は淫乱女です、男なら誰とでも寝ます、って文字が浮き出てくるって皆が言ってるわよ」

 尾崎彩子は小声で一気にしゃべって、湯沸し室から出て行った。

 私は当初、

「何を言っているんだろう、この人」

と思っていたが、バタンとドアが閉まると、尾崎彩子の言ったことの意味が一言ずつ分かってきて、血の気が引いていった。

 私が素足で出社したことは相当目立っていたようなので、竹林からストッキングをもらって嬉しそうに履いたことに気づいた女子社員がいても不思議ではない。

 でも素足を見せびらかして男を垂らしこんだと言いがかりをつけるなんて、まず竹林に対して失礼極まりない。

 吉崎のことで尾崎彩子に恨まれていることは洋子に聞いて分かっていたし、今朝の冷たい態度も覚えていたが、男なら誰とでも寝るとか、そこまで面と向かって言うとはひどすぎる。

 怒りと恥ずかしさと、経験したことの無い種類の悔しさが一気にこみあがってきた。唇がわなわなと震えて、目に涙があふれた。

 その時ドアが開いて洋子が入ってきた。

「美玖、どうしたの?」

 洋子の顔を見ると泣き出しそうになった。でも、喉が詰まったようになって声にならない。

「やっぱり尾崎さんね。美玖を追いかけるように湯沸し室に入ったから気になっていたの。何をされたの」

 洋子が私の両肩に手を置いた。

「わあっ」

 喉が解放されて泣き声が涙と一緒に迸り出た。私は洋子に抱きついて、泣きじゃくった。

 しばらくは言葉にならなかったが、段々気持ちが落ち着いてきた。泣きじゃくりながら尾崎彩子からどんなにひどいことを言われたかを洋子に訴えた。

「美玖らしくないわ。いつもその程度のことは尾崎さんから言われてるじゃない。そんな人なのよ。尾崎さんがそんなことを人にしゃべったら自分の信用を落とすだけだし、仮にしゃべっても真に受ける人なんていないわ。その程度のこと言われたぐらいで大泣きしていては女をやってられないわよ」

 洋子は毅然としていて説得力があった。

「先週までの美玖ならその程度のことは平気だったのに、雷に打たれて弱くなったのかしら」

「女の世界って厳しいのね」

 私はしみじみと言った。

「せっかく小紫短期で鍛えられたのに、その記憶をなくしたら惜しいわよ」

「小紫って、そんなに厳しい学校なの?」

「四年制の小紫女子大はお嬢さん大学だけど、短期部の方はコムタン番外地と言われてるらしいわ。尾崎さんも美玖のことはコムタンの後輩だから手加減しないんでしょうね」

 そこそこの器量の若い女性なら周囲からちやほやされて楽しく勝手気ままに過ごしているのだろうと思っていたが、舞台裏では男性の社会以上に理不尽な戦いが繰り広げられているのだろうか。

 洋子という味方がいなければ、私は尾崎彩子から一撃を受けて、直ぐには立ち上がれなかっただろう。女にとって親友とは、戦国時代の盟友のようなものなのかもしれない。

「さあ、涙を拭いて席に戻りましょう。もうすぐ終業のチャイムが鳴るわ」

 湯沸し室の鏡で顔を確かめた。少し目が赤いが、一目見て泣いたことが分かるほどではない。

 洋子の後ろに隠れるようにして席に戻った。

 丁度五時半のチャイムが鳴った。

「お前、相当疲れた顔をしてるな。退院したばかりなんだから無理しないで早く帰って寝ろ」

と竹林が気遣って声をかけてくれた。

「はい、そうさせていただきます」

 課長のところに行って、

「今日はこれで失礼します」

と言って更衣室に向かった。

「美玖、元気を取り戻しにカラオケでも行こうか」

と、洋子が誘ってくれた。

「ありがとう。でも、今日は色んなことがあって疲れたから帰って寝るわ」

「その方がいいかもね」

「ところで洋子、三菱UFJのキャッシュカードの暗証番号が思い出せなくてお金が引き出せないんだけど、私が使いそうな四桁の番号って心当たり無いかしら?」

 洋子は私の耳元で四桁の番号を囁いた。

「あと財布に一万円弱しか無くて、暗証番号が分からないから困っていたの。よく覚えていてくれたわね」

「覚えやすい数字だから。元彼の生年月日なんでしょ?」

「元彼って、私の?」

「入社してすぐのころに振られたみたいよ。落ち込んでいる美玖を私が慰めて、それがきっかけで私たち友達になったのよ」

 千代田線から総武線に乗り継いで家路を急いだ。西船橋前のローソンでノリ弁当を買い、洋子に教えてもらった暗証番号をインプットしてキャッシュカードで二万円を引き出した。

 帰宅してノリ弁を食べた後、部屋の中にある化粧品を全部食卓に並べた。

 全部で二十二種類の様々な容器に入った化粧品が見つかった。こんなに多くの化粧品をどんな順番で使えばよいのだろう、と途方に暮れた。

 気を取り直して、パソコンを開き、二十二種類の化粧品の製品名、ブランド、成分名、容量と容器の色をエクセルの表にした。

 次に、製品名をキーワードとしてインターネットで一つ一つ調べていくと、大体の用途が分かってきた。

 更にグーグルで「化粧、入門、新社会人、初めての化粧、順番」などのキーワードを入れて何十もの記事を読んだ。

 これで、どの瓶を、どの順番でどう使えばよいのかが大体分かってきた。

 しかし、大体の理屈が分かっても実際にやってみるのとは大違いだった。

 化粧水と乳液で下地を整えるところまでは簡単だったが、ファンデーションが上手くいかない。白すぎたり、ムラになったり、ささくれ立ったり、何度やってみても散々な出来だった。

 もう一度パソコンを開いてファンデーションの使い方について色々な記事を読んでみた。ユーチューブに自分の化粧の仕方を映した動画をアップロードしている人が何人か見つかった。

「さっきのは塗りたくり過ぎだったんだ」

 量を今までの何分の一かに減らして薄くのばしたら自然な感じになった。

「すっぴんで会社に行けるほど若い肌だから、薄い化粧で十分なのね」

 口に出してそう言ってみたところ、幸せな気分になった。

 こんなことで嬉しがる自分の気持ちが信じられない。精神まで女性化しはじめたのだろうか。

 目元も眉もチークも、ごく薄く化粧したつもりだったが、それでも地方から出てきたばかりのキャバクラ嬢のようになった。

 コールドクリームを使って化粧を完全にふき取り、もう一度やり直したところ、かなりマシになった。

 何度かやり直して、五回目にやっと自然な仕上がりになった。

 これで明日は大丈夫だ。

 でも、一回でうまく仕上がるとは限らないので、やり直す時間の余裕をみて、化粧にかかる時間を三十分と見積もっておこう。

 明日着ていく服をああでもない、こうでもないと色々見比べた挙句、濃いブラウンの無地のワンピースと紺のレースのボレロを選び、すぐに着られるようにセットしてハンガーにかけた。時計を見ると既に午後十一時を回っていた。

 風呂ではリンスに時間をかけた。今日、会社で他のOLの髪の毛が自分よりつやつやしているのに気づいたからだ。風呂を出て、長い髪を乾かすのには思っていた以上の時間がかかった。

 結局、ベッドに横になれたのは午前一時だった。明日は六時起床だからそれまで五時間しかない。スマホからメールの着信音が何度か聞こえたが、メールを見る気力も無く、そのまま放置した。

 OL初日がやっと終わろうとしていた。ファッション、化粧、髪の毛、おしゃべり、女同士の熾烈な戦い。男性にとっては無縁のことばかりに時間が費やされた。この調子なら眠る時間を削らないと二十四時間に収まりそうにない。

 一体自分はどうなっていくのだろう。そんな疑問が頭の中で形になる前に深い眠りに落ちた。

第四章 高校の同窓会

 翌朝の通勤電車の中でスマホを開いた。

「チョロ」という人物から二通のメールが届いていた。

「明日会えるね! わくわく」

「早めに行ってゆっくり話そうね」

 木下美玖はチョロと今日会う約束をしているらしい。メールの言葉づかいから判断すると女性である確率が高いが、断定はできない。もしこのチョロが洋子の言っていた「元彼」だったらどうしよう、と心配になる。

 会社以外での美玖の交友関係を知る手がかりは大切にしよう。もうこれからは美玖として生きていくしかないのだから、現実に直面しなければならない。

「時間と場所を忘れたから教えて」

と、チョロにメールを出した。

 数分もしないうちに返信が来た。

「ろくじはんにココ」

とだけ書いて、レストランのホームページのアドレスが書かれていた。

 秋葉原駅に近い新しいビルの三階にあるレストランだ。

 チョロの顔は知らないが、きっとチョロの方で私を見つけてくれるだろう。とにかく行ってみよう。

 出勤二日目の職場は何となく勝手が分かってきたのであまり緊張しなかった。何を言われても笑顔で「はい」と答えて出来る限りのことをした。私はパソコンは得意だったのでワードやエクセルを使うような仕事は難なくこなせたが、サーバーにアクセスするデータ入力については勝手がわからず、洋子や他の同僚に教えてもらったり、マニュアルを見たりで四苦八苦した。私が勤めていた会社でも同じような伝票入力はあったが、それは専ら一般職の仕事であり、私としては全く未経験の業務だった。

 昼休みは洋子と二人で居酒屋に行った。居酒屋と言っても、お昼は和風の定食を出していて、サバの炭火焼定食が美味しいので有名な店とのことだった。

「ねえ、美玖。金曜日の夕方に落雷に会ったのは確かJR東船橋駅の近くだったのよね」

「そうよ。東船橋駅の北口から線路沿いに二ブロックほど歩いた角を曲がったところにある大きな木の下よ」

「美玖のアパートは西船橋でしょう? 東船橋駅で降りてどこかに行こうとしていたのかしら?」

「違うわ。東船橋駅に向かって歩いていたのよ。急に夕立が来た時に大きな木が見えたから、雨宿りの為に駆け込んで、たまたまそこに雷が落ちたの」

 それは森村だった私の記憶にある光景だった。木下美玖は、帰宅を急ぐ私と反対方向から木の下に駈け込んで来たのだ。

「それって、雷に打たれる前のことなのに、覚えているの?」

「現場に救急車が来た時に少しだけ意識があって、目撃した人が、そんなことを言ってたのを聞いたから」

と、知っている理由について取り繕った。

「とにかく、東船橋駅から歩いてどこかに行った帰りだったわけよね?」

「多分その可能性が高いでしょうね」

 東船橋の北口は商業施設が僅かしかない住宅地であり、若い女性が金曜日に休みを取って訪れるような場所はひとつも思い当たるものが無かった。木下美玖はどこから東船橋へと歩いていたのだろうか?

「美玖が金曜日に有休を取ると聞いたのは、前日の木曜日だったわ。金土日と三連休にして彼氏と旅行にでも行くのって聞いたら、美玖はウフフってごまかしてた。吉崎さんとの関係がそこまで進んだのかなと疑いかけたけど、吉崎さんは海外出張中だし、美玖の有休の理由は分からずじまいだったの」

「私は、プライベートなことについては親友にもあまり話さなかったのかしら」

「私には結構何でもしゃべってくれていたと思う。彼氏とのお泊りとか、余程の秘密じゃない限り、有休を取る理由を私に隠すような子じゃないわ」

「ごめんね。でも、金曜日にどこに行ってきたのか、私も知りたい」

 誰かと待ち合わせするなら、東船橋ではなく、レストランなどが数多く立ち並ぶ隣の駅、すなわち船橋駅か津田沼駅の周辺を選ぶはずだ。東船橋駅周辺を知り尽くしている私としては、木下美玖がどこに行っていたのかが気になってきた。

「手帳のカレンダーの金曜日の欄に『流星』と書いてあるのよ。固有名詞かしら? 私から流星という言葉を聞いたことはないかな」

「ないわ。メールの送受信記録とか、チェックしてみた?」

「スマホのメールはざっと読んだわ。自分のことをできるだけ思い出したいからね。雷に打たれた後は慣れない体で毎日ぐったりだったので詳しくはチェックしてないけれど」

「慣れないカラダ?」

「そ、その、記憶が全部なくなったから心と身体がちぐはぐだったのよ」

 冷や汗が出そうだった。

「流星って何だか怪しい名前だけど、美玖が相手に自分のアイデンティティを知らせないために、別のメールアドレスを使って流星についてメール交信していた可能性はないかな。ウェブメールのアドレスをどこかにメモしていないかしら。自宅のパソコンでインターネットの閲覧履歴をチェックしたら、何か分かるかもしれないわよ」

「うん、やってみる。色々アドバイスしてくれてありがとう」

 流星のことが気がかりなまま、昼休みが終わった。

 昼過ぎに来客が帰った後、お茶を下げて湯沸し室に向かう廊下で、すれ違った男性から紙片を手渡された。

「あ、あのう」

 私が声をかけようとしたのを無視して男性は立ち去り、自分の席に戻った。

 吉崎の席だった。昨日は見なかった顔だ。あれが吉崎なのか。海外出張から帰ったのだ。顔が上気して、鼓動が高まった。

 端正だが冷淡さが混じる顔だ。人に気づかれないように私に対してはわざと無表情だったのかもしれないが、想像していた吉崎の顔とは少し感じが違った。

 四つに折りたたまれた紙片を湯沸し室で開いた。

「明日金曜日の午後七時にいつもの場所で。渡したいものがある」

と右上がりのペン字で書かれていた。

 これはデートの誘いだ。海外出張から帰ってきて、お土産でも渡したいというのだろうか。もし婚約指輪を渡されたら一体どう反応すればよいのだろう……。

 そんな重大なことを迫られても、判断に必要な基礎データがまだ私にはない。

 胸が破裂しそうなほどドキドキと高鳴る。あんな男性に付け文をされても、嫌なら断れば良いだけで、どうってことはないはずだが、美玖の身体が反応してしまい、心と身体が擦れ合ってギクシャクと機械音をたてている。

 でも逃げていても状況は改善しない。会って二人がどんな関係だったのかだけでも確かめるべきだ。そう思い直すと鼓動が収まってきた。

 でも「いつもの場所」が分からないと会えない。社内メールで聞いてみようか。いや、吉崎が社内メールでなく紙切れを渡すという行動に出たことから判断すると、社内メールは誰かに監視されているのだろうか?

 私が勤めていた茅場町の会社でも社内メールは部長が全て読めるようになっているという噂を聞いたことがあったが、自分が部長になって、その噂が正しくなかったことが分かった。きっとこの会社でも社内メールは安全なはずだ。

「落雷に合って記憶喪失になりました。場所とか、全て記憶を失いました」

という短い社内メールを吉崎あてに出した。このメールなら万一他人に見られても意味が分からないだろう。

 半時間たっても返信が無かった。そこで、わざと吉崎の向かい側の列の横を通って、湯沸し室の方に歩いていき、廊下を曲がったところの人気の少ない場所に立って吉崎が来ないかと待った。案の定、吉崎が来て、私に紙を渡して通り過ぎていった。

 それはレストランの場所と名前を示す手書きの地図で、

「社内メールは使うな」

と書いてあった。

 終業のチャイムが鳴ると、私はそそくさと席を立った。

 更衣室で入念にメークをして千代田線へと急いだ。御茶ノ水でJRに乗り換え、秋葉原駅近くのレストランに着いたのは六時二十五分だった。

「すみません。六時半の予約なんですが」

と店員に聞いた。

「はい、お名前は」

「チョロだと思います」

 本名は知らない。

「いえ、そのお名前ではうかがっていませんが」

と店員。

 困った。チョロの本当の名前も顔もわからないし、性別も確かではない。そうだ。携帯メールという手があった。

「レストランの入り口に立っています。迎えに来てください」

 一分もしないうちに小柄で元気そうな女性が目を輝かせて近づいてきた。

「美玖、ひさしぶり! なんだか少し大人っぽくなったわね。どうして自分で入ってこないのよ」

「チョロ、あなたがチョロなんですね。良かった、女性で!」

「なにをバカ言ってるの?」

 チョロは当惑した目を私に向けた。

「早く来なさい。みんな待ってるわよ」

「みんなって、チョロだけじゃないんですか?」

「今日は同窓会よ。メールで案内が来たでしょ」

「ああ、小紫短期の同窓会なのね」

「いい加減になさい。城西高校の同窓会よ」

「高校までは福島県のはずだけど」

「城西高校三年の関東支部同窓会よ。あんた、わたしをバカにしてるの?」

「ごめんなさい。先週、雷に打たれて、それまでの記憶が完全になくなったの。一昨日退院したばかりなの」

「本当なの? ボケてるんだったら承知しないわよ」

「ウソだったら殺されてもいいわ。神様に誓って本当」

「へーっ、たまげた! とにかく、みんなのところに行こうよ」

 チョロの後についてレストランの奥の衝立で仕切られた区画に行った。十人ほどの大学生風の男女が談笑している。

「木下じゃないか」

「美玖、久しぶりね」

「これで全員そろったな、改めて乾杯しよう」

 私の座った席にはビールのグラスが既に置かれており、みんなで乾杯した。

「ねえねえ、美玖が記憶喪失になったらしいわよ」

「ビールを一口飲んだ程度で、そんなネタは受けないよ」

「本当よ、ねえ、美玖。説明してよ」

 全員の視線が私に集まった。

「先週の金曜日の夕方、東船橋駅の近くの大きな木に落雷があったの。そのとき丁度その木の横に通りかかって、ドッカーンと来て、気が付いたら病院のベッドだった。落雷のことは覚えているけど、それ以前のことは自分が誰だとか全く記憶が無くなってしまったのよ。悪いけど、ここにいる皆ともはじめて会うのと同じよ」

 口々に「へえ、ウソだろう」とか「大変ねえ」と言って顔を見合わせている。

「それからは自分探しの毎日というか、こうやって人に会うたびに自分について聞いて、過去を取り戻そうとしているわけよ」

「美玖はこの春に短大を出て就職したんだよね。会社は休んでるの?」

「ううん。会社には毎日行ってるわ。インプットの仕方とか、仕事についての記憶も無いから、ゼロから再出発って感じ」

「高校時代のことも覚えてないの?」

「そうよ。共学の高校だったってことも、ここに来てはじめて分かったわ」

「じゃあ、誰と付き合ってたとか覚えてないの?」

「全く覚えてない。知ってたら教えて、お願い」

 皆が困ったように顔を見合わせて、その後、視線が私の右斜め前に座っている大人しそうな男性に集まった。

「佐々木、お前から説明しろよ」

「もしかして、あなたと付き合ってたんですか?」

「忘れちゃったのか」

 佐々木と呼ばれた男はため息をつくように言った。

 これが元彼なのだろうか。まだ子供じゃないか。こんな子供と付き合うなんて。木下美玖が若干二十歳に過ぎないことを思い知らされる。

「今は付き合ってないんですね。別れてしまったんでしょうか?」

 わざとつっけんどんに聞いた。

「皆の前でそんなこと言わせる?」

 佐々木はどぎまぎした表情でそう言った。

「ごめんなさい」

と、一応あやまる。

「美玖が就職して忙しくなってから会わなくなったというか……」

 ということは短大時代まで付き合っていたということか。

「普段は確かに忙しいけど、土日は時間があるのに何故会わなくなったのかしら?」

 歯切れの悪さを見て、佐々木を苛めたくなった。

「美玖が就職した直後に二度誘ったけど、疲れてるからって断られたから、その後は誘いづらくなって」

「なんだ。二回断られたぐらいで諦める程度の関係だったのね」

 私は佐々木のいじいじとした物言いに益々腹が立ってそう言った。

「まあまあ、とりあえずその辺で止めて、話題を変えようよ。後で二人でじっくり話し合って」

とリーダー格の男性が割って入った。

「小学校以来のお友達として、私が美玖の過去を全部教えてあげるわ」

 左隣の席のチョロが私に話しかけてきた。

 私は佐々木のことは無視してチョロの手を取り、

「教えて教えて。まず小学校から」

と言った。

 チョロは話し上手で面白い。木下美玖が小学校四年に好きだったクラス委員長の三塚君の話から始まり、エピソードを交えて色々話してくれた。チョロの話から判断して、木下美玖はどちらかというとマイペースで、行動派で、活発な女の子だったようだ。小学校時代から中学一、二年にかけては勉強ができたが、中学三年ごろから学力が徐々に低下し、進学校である城西高校には合格したものの、高校時代は学業に苦労したようだ。中学時代に美玖が好きだった男子のこともチョロはよく知っているが、美玖が好きになるのは、頭が良くて大人しい男子だったようだ。

 目の前の佐々木もそのタイプに入るのかもしれない。

 男性としての自分はどうだっただろうと考えると可笑しくなった。思春期以降の森村は、まさに美玖好みの、頭が良くて大人しいタイプの中学生、高校生で、同級生の女の子に積極的に話しかけることができる性格ではなかった。今、女性の側から男性を見る立場になって、大人しいタイプの男性と関係を築きたいかと言われると、正直なところそんな気にはなれない。勿論、男性と関係を持つという想定自体が、あり得ないわけだが。

 ここ数日間に会社で接した男性は少なくとも何歳か年上で、竹林にしても吉崎にしても、二十歳の木下美玖から見ると圧倒的に存在感がある存在だ。竹林や吉崎のような男性と、女性として関係を持ちたいという気持ちは無いのだが、目の前の佐々木と比べると、女性である自分にとっては、自分を圧倒的に凌駕するような男性のほうが好ましいのではないかという気がする。

 チョロと話していると、とても楽しかった。

 女子としての学生時代が、あたかも実在したかのように感じられてきた。小中学校時代の話が、実際に体験したかのように頭の中に記憶として定着してくる、それは奇妙な感覚だった。

 チョロと話したお陰で、二十歳の木下美玖が突然落雷で降って湧いたSF的存在ではなく、毎日スカートをはいて、小学校、中学校、高校、短大と進み、今の会社に勤めている、確かな実体を持った存在だということが実感できた。一言で表現すると「つながった」という感じだ。

 何だか「木下美玖になることが出来そうだわ」という予感がして安堵した。

 佐々木は時々私の方を見るが、目が会うと視線をそらす。私のことを気にしているのだ。それは間違いない。多分、未練があるというか、私のことを好きなのかもしれない。自分は木下美玖の身体に閉じ込められた男性だという意識を持って佐々木を見ると、娘のような木下美玖がこんなつまらない男と付き合うことは納得できない。吉崎の方が大人であるだけマシだ。

 でも、木下美玖として生きていける段階まで早く到達したいという意識を持つ自分としては、佐々木と付き合っていたころの自分を一度取り戻せば、今の自分をしっかりと見つけることができるんじゃないかとも思った。

 そうだ。佐々木と付き合ってみよう。つい半年前までそうだった、女子短大生としての記憶を再体験できれば、きっと二十歳の自分を確立するための手助けになる。

 チョロとは毎週でも会いたい。自分の過去をもっと知りたいし、チョロとの女の子らしい会話は未体験の充足感をもたらしてくれる。

「美玖って、雷に打たれて、聞き上手になったんじゃない?」

とチョロが言う。

 好意を感じてくれていることがわかってうれしい。三時間があっという間に過ぎて、同窓会はお開きになった。

 二次会はコーヒー店に立ち寄り、一時間ほどで散会した。

「さっきはごめんね。きつい言い方をして」

 駅に向かって歩きながら佐々木に近よった。

「いや、別になんとも思ってないけど」

と佐々木が恥ずかしそうに言う。

「また、時々会ってくれる?」

「も、もちろん!」

 スマホの番号とメールアドレスを交換した。

「短大時代まで付き合ってたということは、私、きっとあなたのことを好きだったと思うの。でも、本当に全く記憶がないから、くやしいのよ。もう一度付き合って、短大時代の気持ちを取り戻したい。そうしないと、今の自分も取り戻せないから」

 私は思っている通りを素直に話した。

「いいよ。美玖とデートしなくなってから、特に他の女の子と付き合ってるわけじゃないから」

 佐々木はうれしそうに答えた。もっとも、木下美玖のような美人から付き合って欲しいと言われれば誰でも悪い気がするはずがない。

 電車が丁度西葛西駅に着いた。

「じゃあ、またメールするわね」

 電車のドアが開いて佐々木が降りた。

「ところで、佐々木君のお誕生日はいつだったかしら?」

 佐々木の答えはキャッシュカードの暗証番号と一致していた。木下美玖の元彼は佐々木だった。

 怪訝な顔をして何か言いたそうにしている佐々木から私を隔離するように電車のドアが閉まった。私は笑顔で両手を振った。

 今日初めて、佐々木の顔が満面の笑みで覆われた。可愛いと思った。

 西船橋駅で降りてアパートに帰り着いたのは午後十時を少し過ぎたころだった。森村としての私はお酒はそんなに強い方ではなかったが長年のサラリーマン生活で「ここまでなら大丈夫」という飲酒ペースの限界が身につき、役職が上がるにつれて自分のペース以上の酒を無理強いされる機会も滅多になくなったので、飲み会は楽しいものだという概念が自分の中に定着していた。

 今日の同窓会でも、森村としての安全なペースを特に意識することもなく守っていたが、私は従来の飲み会と比べて酔いが浅かった。お開きの際に乾杯したとき、私のお湯割りのグラスはチョロが作ってくれたばかりで、それを飲み干したのだが、それでも後で酔いが回って気分が悪くなることは無かった。普段の私の身体の感覚、といってもまだ日は浅いが木下美玖の日常の体感と比較すると、胸から天頂にかけて少し上気して、ウキウキするような充足感があった。この身体はお酒との相性が良さそうだ。

 それに、森村が夜遅くに飲んで帰った時のような疲労感を殆ど感じなかった。これが若さから来る体力というものなのだろう。女の身体になってしまったことにまだ違和感はあるし、特に男性と接する時の自分のポジショニングというか、どう男性に相対したらよいのか、戸惑いだらけだが、若くて高性能な健康体を手に入れたのだという喜びが心の中に芽生えてきた。

 お風呂から上がって化粧水をはたきながら、昼食時の洋子との会話を思い出した。木下美玖は先週金曜日に有給休暇を取ってどこに行っていたのだろう? ノートパソコンを開いて「流星」というキーワードでパソコンのデータ領域を全文検索にかけた。メールの送受信データも検索対象となるように設定してあったが、数分後に出た検索結果でヒットは一件だけで、それはしし座流星群に関する二年前の記事の切り抜きだった。

 次にインターネットブラウザーの閲覧履歴を検索したが、「流星」では何も出てこなかった。

 フェイスブックとツイッターは、スマホでは一応チェック済みだったが、改めてPC画面で詳細に調べてみた。しかし「流星」について書いたり、受信した形跡は全く見当たらなかった。

 結局、流星の謎に関する手がかりが得られないまま一日が終わった。


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