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性転のへきれき(ひろみの場合)突然の性転換:今日から女の子になりなさい

【内容紹介】1997年に出版された草分け的なTS小説。第1部では痔の手術を受ける予定の男子大学生が性転換手術の患者と取り違えられて性転換される。第2部の主人公は性転換手術の前に逃げ出した張本人。長年のベストセラー。

第一部 ひろみの場合

 ひろみは憂鬱な気持ちで病室の天井を眺めていた。手術まで、あと一時間だ。痔は大学に入った頃から、冬場になると出血したり腫れたりしていた。大便をすると反り返った肛門が元に戻らないようになり、指で無理矢理押し込んでいたが、先月あたりからは押し込んでも腫れが肛門から一部出たままで、痛くて痛くて耐えられなくなっていた。

 ひろみは赤坂のコスモミックスというソフトウェア会社でゲームのプログラミングのアルバイトをしているが、プログラムの仕事は一日中というか一晩中というか、椅子に座ってコンピュータとにらめっこしていなければならないので余計につらい。ガールフレンドの利枝にもらったドーナツ型のクッションを椅子の上に置いて痔をドーナツの中に浮かせて仕事を続けていたが、かえって脱肛が悪化する結果になってしまった。先週の木曜日、利枝と喫茶店で会っている時に椅子がべとべとした感じだった。出血で晒しのジーンズがポケットの所まで真っ赤になっているのに気づいて逃げるように喫茶店を出た。

「手術しないと駄目ね」

 利枝に諭されて昨日の朝、この大月病院の門をくぐったのだった。

 大月病院は中野坂上にある泌尿器科・肛門科の病院だ。痔の手術には定評があるらしく、普通は手術まで何週間も待たされるとのことだった。利枝の叔父が事務長をしていて、利枝が電話で事情を話して特別に便宜をはかってもらい、すぐに手術をしてもらえることになったのだ。午後の手術は三件あり、ひろみはその二番目とのことだった。

 看護師が二人入って来た。ひろみは下着を脱がされ、肛門の周囲からペニスの下あたりまで薬用石鹸を塗られ、剃刀で剃られた後、脱脂綿とアルコールで完璧にクリーンなお尻になった。看護師のひとりは四十代半ばのベテランで、もうひとりは若い大柄な準看護師だ。ひろみは仰向けになった蛙のような格好で肛門やペニスや睾丸を弄ばれて、恥ずかしといったら無かった。若い準看護師は笑いを抑えたような表情でひろみの性器をしげしげと観察していた。

「ちょっと痛いけど良い子にしてるのよ」

 太股と腕に一本ずつ注射をされた。やがて手術室に運ばれて、ひろみは置き去りにされた。しばらくして手術着をきた医者や看護師が数人入ってきて、麻酔をされた。

「山下さん、見違えるように完璧な身体にしてあげるから安心して眠っていなさい」

「よろしくお願いします」
と言いながら、痔の手術なのに大げさだな、と、ひろみは思った.。

 それから後は、よくわからない。麻酔が効いてひろみは深い眠りに陥った。

 目が覚めるとベッドの横に利枝が座って、心配そうにのぞき込んでいた。

「来てくれたんだね。ありがとう」

 ひろみはにっこりと微笑んで言った。

「ごめんなさい。とんでもないことになって。大変なことが起きてしまったの」

 利枝は当惑したような顔で言った。ひろみは下腹部の痛みと胸部の圧迫感を感じながら利枝の顔を見つめた。

「先生を呼んでくるわね」

 利枝は病室から出ていったが、二分ほどで院長を連れて戻ってきた。

 院長は葬式でお悔やみを言うような表情で言った。

「山下さん、何とお詫びを申し上げて良いのか……。大変な手違いがあり、他の患者さんと取り違えてしまいました。そもそも看護師が山下さんを3Aの手術室に運び込むべきところを2Aに搬入したのが間違いの始まりでした。看護師は遅番の昼休みだったので、その後すぐ食事に行ってしまいました。隣の2Aの手術室で二時半から手術する予定だった患者さんは、字は違いますが同姓同名の山下広海さんという方で、そちらの山下さんが一時半頃に怖じ気づいて病院を抜け出してしまったらしいのです。丁度手薄な時間帯で、あなたの痔の手術をする予定だった私は、病院から抜け出したのがあなただと思いこんだまま三時に出かけてしまいました。2Aの手術を担当される女子医大の先生方は予定通り来られて『ヤマシタヒロミ』さんと確認したうえであなたを手術してしまったのです。手術は大成功で、女子医大の先生方もこれまでで最高の出来だ、と満足して帰られました」

「手術が大成功だったなら、お詫びを言ってもらう必要は無いと思いますけど……」

 ひろみは怪訝そうに言った。

「あ、まだご存じ無かったのですね」

 院長は困ったように言って救いを求める視線を利枝に向けた。

「びっくりしないで聞いてね。その山下さんは、性転換手術を受ける予定だったの。女子医大では情報が変に漏洩しないように、近代的な設備を持っている大月病院でやることになったらしいのよ。日本では女子医大が男性から女性への性転換手術の最高峰らしいわ。わたしもひろみ君にこの病院を勧めた都合上、責任を感じるわ」

「も、もしかしてぼくのあれを切り取っちゃったの?」

 ひろみは消え入るような声で聞いた。

「いえ、全部を切除したわけではありません。精巣を取り去った後、海綿体を除去しましたが、ペニスの外皮を反転させて膣の内壁として利用しています。睾丸の皮膚は陰唇として活用したし、ペニスの先端につながっていた神経線維を温存して亀頭の一部を生かして形成したクリトリスにつなげましたから、オルガスムも感じられるようになるはずです。専門でない医者が見ても外観上女性と区別できないくらい精巧な形成技術で、二ヶ月後にはセックスが可能になります」

 院長は自慢げに反論した。

「二ヶ月後にセックス? 相手は男ってことですか……」

 ひろみは消え入りそうな声でつぶやいた。

「豊胸手術も完璧だったと聞いています」

 院長がなだめるように言った。

 ひろみは「まさか」という表情でシーツを手で跳ねのけた。寝衣の下には双丘が盛り上がっていた。ひろみは声も出なかった。

「サイズで言うとCカップというところです。今後女性ホルモン治療を行うと一、二サイズ大きくなるでしょう。乳首も大きくなりますからご心配は要りません。あなたは体毛も薄い方ですが、顔面の永久脱毛は私どもが責任を持って行いますし、喉仏を削り取る手術も来週にでも実施させていただきます。あなたは年齢の割りには男性的形質の発現が進んでおらず、骨格も小さいので、女性ホルモンの投与を五、六ヶ月も続けると外観的には普通の女性と区別がつかなくなるはずです。この、バストイレ付きの特別個室も、お好きな期間無料で提供させていただきます。声の高さを手術で大幅に上げるのは困難ですが、あなたは声も高い方だし、発声訓練すれば女性として不自然のない会話が出来るようになるでしょう」

 院長が懸命に弁明した。

「うらやましいわ。わたしなんかAカップよ。ひろみ君はきれいな優しい顔をしているし、眉毛がゲジゲジだから女っぽくは見えないけど、眉毛を直してお化粧させたら女で通るなって以前から思っていたの。メークも教えたげるわね」

 利枝は、ひろみを元気づけようとして言った。

「君とは結婚するつもりで付き合っていたし、来年の春就職したらプロポーズしようと思っていたのに、ひどいよ」

「ちょっと待ってよ。わたしはひろみ君の事を親友とは思っていたけど、結婚対象として考えた事なんてなかったわ。わたしは三、四歳年上で背が高くて高収入な人と結婚するつもり。あなたはわたしより二ヶ月年下だし身長はわたしと同じ百六十三センチしかないでしょ」

「出ていけ。みんな出ていってくれ!」

 ひろみは叫んだ。

 翌日、ひろみの個室に、脱毛装置のカートを押して、看護師が入って来た。

「津久見圭子、あなたの脱毛を担当します」

 圭子は無精ひげの目立ってきたゲジゲジ眉のひろみの顔を見て愛想良くほほえんだが、ひろみが首まで引っ張り上げたシーツを

「一応足の先まで見せてね」
と言ってゆっくりとめくると、ひろみの胸の盛り上がりを見つけて思わず「ククッ」と笑った。

「普通は身体に手を入れる前に眉とかは直すものだから」

 圭子はすまなそうな表情で、失笑したことの言い訳をした。

「いや、これは手違いで、僕はそんなつもりはなかったのに」

 ひろみは口ごもった。

「気にしないで! きれいになりましょうね」

 圭子は仕事に取りかかった。

 レーザー脱毛がこんなに痛いものだとは、ひろみは思ってもいなかった。レーザーヘッドを少しずつ動かしてパルス照射を行う作業が続いた。レーザー照射のたびに、ビシッ、バシッと音がして、毛が焼けたようなにおいがした。その日は両顎の横から喉にかけての脱毛だった。

「今日はこれでおしまい。明日も同じ時刻にくるわね。眉はレーザーは使わないから、自分で直してね」
と言って圭子は立ち去った。

 夕方利枝が来た。

「昨日はごめんね、ひどいことを言って。でも、わたしがあなたのことを親友と思っていたというのは本当よ。男女とか関係なく、ひろみ君といると安心するの。力になるから、何でも言ってね」

 ひろみは何と答えて良いのかわからなかったが

「ありがとう」
と言った。

「ひろみ君、じゃおかしいから、これからはひろみ、って呼ぶわね」
と前置きして利枝が言った。
「ひろみの眉毛を直すと見違えるようになると思うの。今やらせてね」

 利枝はバッグから化粧道具を取り出した。ひろみのゲジゲジ眉をコンシーラーで白く塗りつぶして、その上に色々な形の眉毛の型を置いて見比べた挙句、利枝が気に入った形の眉をペンで細く丁寧に描いた。黒く描いた眉からはみ出る部分の眉毛を一本一本毛抜きを使って抜いた。クレンジングジェルでコンシーラーを落としてから化粧水で拭いた。最後にペンで丁寧にタッチを加えた。

「ね、言ったとおりでしょう、ひろみ」

 利枝は勝ち誇ったように言って、ひろみに手鏡を渡した。ひろみは恐る恐る鏡をのぞいた。鏡の中の顔は見覚えはあるが、それはひろみの顔ではなく、知らない女の顔のようだった。つり上がった細い円弧が目の端を過ぎたところまで伸びていて、びっくりしたような表情をした顔だ。鼻の下の薄い無精ひげが不自然で、ひろみは恥ずかしく思った。頭の中にある自分のイメージと、鏡の中の顔と、盛り上がった胸の重さと、まだ自分の目では見ていない変わり果てた陰部とが、頭の中でごちゃごちゃになってしまって、自分とは何なのか自信が無くなっていたが、とにかく無精ひげが自分にとってひどく似つかわしくないものに感じられて、一刻も早く脱毛して欲しいと思った。

「座れるようになったら、メークの仕方を教えたげるわね」
と言って利枝は去った。

 その日は食事は出なかった。輸液のせいかお腹はすかなかった。左腕の静脈に刺さった針をみるのは憂鬱だった。輸液がぽとり、ぽとりと規則正しく落ちていくのを見ながら、ひろみは眠りに落ちた。午後十時半に尿意を催して目が覚めた。枕元のボタンを押して看護師を呼んだ。

「あのう、おしっこがしたいんだけど、トイレに立っていいですか?」

 ひろみは、こう聞きながら、トイレに行ったところでどうやって小便をしたらいいのか不安になっていた。

「ダメダメ。一週間ほどはベッドから降りることはできないわよ。オシッコが出る穴に『カテーテル』という細い管を差し込んであるからオシッコは勝手に排出されるの。だから、自分でオシッコをする必要はないわよ」

 看護師はこう言ってシーツを半分めくり、ひろみの陰部のあたりから出て太ももにテープで固定され、ベッドの下のプラスティック容器まで伸びたパイプを見せた。

「今、あなたの膣にはガーゼが詰まっていて膀胱を圧迫しているから、いつもオシッコがしたいような気がするかもしれないけれど、気にしなくてもいいのよ」

 看護師は微笑んだまま、
「じゃあ安心してぐっすりおやすみなさい」
といって出ていった。ひろみは深い眠りに落ちた。

 翌朝、ひろみはスズメのちゅんちゅんという声で目が覚めた。窓の白いカーテン越しに柔らかな日差しが感じられる爽やかな朝だった。尿意を感じたので気張ったが、何も出てくる感じはなかった。六時半に館内放送でオルゴールが鳴って、三分もすると看護師が朝食を運んできた。バナナ半分、ヨーグルトと小さなパン、それに牛乳がプラスティックのトレイに乗っていた。

「あなたは病気というわけじゃないから何でも食べてかまわないんだけど、丸三日間口からは何も入ってないから、ゆっくり噛んで食べるのよ」

 看護師が快活に言った。

 ひろみは久しぶりにご馳走を食べるかのように、ゆったりと朝食を取って、久々に満たされた気持ちになった。

 朝の検診の時間が来て、院長が二人の看護師を連れて入ってきた。看護師はシーツをめくってひろみの寝衣の前をあけると、患部をおおっている絆創膏とガーゼを手際よく取り除いた。カテーテルの差し込まれた尿口の下に形成された穴から、綿やらガーゼやらを取り出した。ひろみは今までに経験したことのない感触を陰部に感じた。看護師は患部をきれいに洗浄した。

「やはり若いから傷口の治りも早い! この調子なら後三日ほどでトイレに立てるようになるでしょう。それにしても完璧な手術ですな。私も、知らずに診察すれば普通の女性の陰部と思ったでしょう。ま、スネ毛が残っていると興ざめなので、脱毛はちょっと時間を長くしてペースを早めるようにしときましょう」

 院長はこう言って、満足そうな表情で看護師のうちの一人と一緒に出ていった。

 もう一人の看護師はベッドをきれいにして、ひろみの寝衣も元通りに直してくれた。

「本当、私の下半身と変わらないわ。まあ、胸はあなたの方が勝ってるけどね」

 看護師は、なぐさめの言葉をかけて出ていった。

 午前十時半に脱毛担当の圭子がやってきた。圭子はひろみのゲジゲジ眉を、カモメのような細い眉が取って代わったのを見て

「見違えたわ。あなた結構美人なのね」
と本心から言った。

 その日は脇の下から両腕、両手、指の先までの脱毛だった。圭子は精を出して作業に取り掛かった。昼食のメロディーが流れるまでに、腕や手はすっかりきれいになった。圭子は午後二時に再び来て足の脱毛にとりかかった。このペースで行くと、ひろみの肌から女性として不釣り合いな体毛が殆ど無くなるのに大して時間はかからないはずだ。

「毛は毛乳頭という組織から生えて来るんだけど、レーザー照射で毛乳頭を焼いて永久脱毛するのよ。でも、体毛はしょっちゅう抜けては生え替わるから、生えてくる毛をレーザーで叩くことを繰り返すのよ。全身をレーザー処理するのには三日ほどかかるけど、二週間程度の間隔を置かないと肌がヒリヒリするから、二週間に三日というペースで施術をしばらく続けることになると思うわ」
と圭子が詳しく説明してくれた。

 利枝は毎日見舞いに来て、おしゃべりをしては帰っていった。ひろみにとって、知人も友人も家族も、会う気にもなれず、会う勇気もなく、以前の人間関係はもはや存在しないのも同然だった。仮に出会っても知らないふりをしよう、と思っていた。恥ずかしくて会えるはずがない。

 利枝はひろみの過去と、あの事件と、ひろみの現在を知っている唯一の人間で、今となっては、ひろみの唯一の友達だった。利枝はひろみと同じ学科の同級生で、既に新宿のイントラウェアというビジネスソフトウェアメーカーに総合職として就職が内定していた。卒論はJAVAのインターフェースについて書く予定だった。アルバイトも就職予定のソフトウェアメーカーでJAVAを使ったイントラネットの顧客インターフェースのプログラムをやっており、仕事の成果の一部を卒論に転用させてもらえる予定になっていた。

 ひろみも後は卒論さえ出せば卒業できる状況だが、まだ就職の内定は取れていなかった。ひろみは、ゲームソフトのプログラマーという仕事は自由業のようなものであり、実力さえあれば卒業の一年近くも前からあくせく就職活動に飛び回る必要はないと考えていた。例え就職の内定が取れていたとしても、性別が変わったら採用は取り消されていたのではないだろうかと思った。

 利枝は、同級生の桜山美香から聞いたばかりの就活トラブルについてひろみに話した。美香は日比谷にある日和証券の子会社である日和リサーチに総合職としての就職が内定していた。ところが、証券業界の不況の影響で日和証券は大規模なリストラをする事になり、その一環として日和リサーチは親会社である日和証券の情報システム部に併合されることが決定された。日和証券はさすが大会社らしく、日和リサーチに就職が内定していた美香を含む四名の学生に対して本社の重役面接の呼び出しをかけた。美香は張り切って日和証券本社での重役面接に臨み、その結果採用通知が届いたが、総合職ではなく一般職として採用するという通知だった。

「冗談じゃないわ。ピンクの制服を着てコピー取りやお茶出しをしろっていうの。訴えてやる」
と美香は憤慨しているとのことだった。

 同級生で女性は利枝と美香と、小谷律子の三人だけで、律子は修士課程に進むことになっている。美香はクラスでも秀才で通っており、よりによってクラス四十人のうち自分一人がお茶出しの仕事につくなど考えられないと思っていた。美香は入学以来ジーパンで通しており、スカートをはいて大学に来たのは、入学手続きの書類を提出するために高校の制服で来た時だけだった。日和証券の女子社員の制服であるピンクのスカートをはかされるぐらいなら死んだ方がましだと息巻いている。

 ひろみは飾り気のない桜山美香のことは嫌いではなかったが、スカートを一切はかないとか、化粧を生まれて一度もしたことがないとか、何故そこまで女であることを拒絶するかのような言動をするのか、理解できなかった。

 ひろみは以前、何かの拍子に美香に「俺が女なら絶対スカートをはくと思うな」
と言ったところ、

「はきなよ、あんたなら似合うよ」
と言い返された事を思い出した。

「あのときのばちが当たったのかもしれない」

 ひろみは、そう思って苦笑いした。

 悪夢の手術から七日目の朝、いつものように院長の回診があった。手術跡は順調に回復しており、縫合部分の周囲の腫れも引いていた。ひろみの尿道からカテーテルがはずされ、膣のガーゼも取り除かれて患部は綺麗に洗浄された。

「一日最低三十分は歩行して下さい。その方が回復が早いんです」

 ひろみは自分でトイレに行けるのがうれしかった。その夜久しぶりに風呂に入って身も心も洗われるような気がした。重くて持て余し気味の乳房が、湯船に入ると逆に浮くような感じで、自由にゆらゆらしているのが面白かった。

「乳房って、太った白い魚みたいだ」
とひろみは思った。

 それからの一週間は退屈だった。脱毛担当の圭子が来るのと、殆ど毎日利枝が見舞いに来てくれるのを除くと、三度の食事が持ち込まれる以外は部屋の中を歩き回るかテレビを見るか、本を読むしかなかった。利枝はひろみに病室の外を散歩しようと誘ったが、ひろみは誘いに応じなかった。ひろみは自分の姿を衆目にさらしたくなかった。

 利枝が眉毛をそろえてくれて見違えるような感じになったが、やはりよく見ると男である事がバレそうな気がするし、万一知っている人に出会ったら胸の膨らみをどう説明すればいいのだろう……。そんな危険を冒してまで病室の外に出られるはずがなかった。

 ある日、利枝は綺麗に包装され、赤いリボンのついた箱を持ってきて、差し出した。

「プレゼントよ、ひろみ」

 ひろみはリボンと包装紙を綺麗にとりはずした。包装紙を外すと、

「あなたの親友より」
と書かれたカードと、化粧品のセットが入っていた。

「入門キットってところかな。百円化粧品とかでわたしが見繕ったの。わたしが教えてあげるから、暇なときに練習するのよ」
と利枝は言って、化粧水を手のひらに取り、ひろみの顔につけた。ファンデーションをのばし終えるとひろみの顔はすっかり女っぽくなった。

「つけすぎるとピエロのようになるから気を付けるのよ」

 利枝は、パフにとりかかった。

「さあ、これからが一番難しいところよ」

 利枝はチークのラインに紅のブラシを走らせた。

「一応マスカラも入れといたけど、入院中は薄化粧の方がいいと思うわ。リップもおとなしい色にしといたから」

 利枝は器用に仕事を進めた。

「若い肌はできるだけ薄化粧にするのがコツよ」

 利枝は言いながら仕上げのタッチを加えた。

「さあ、出来上がりよ、お嬢さん」

 ひろみが鏡を見るとちょっと色気のある女の顔がそこにあったので驚いた。化粧でここまで見た感じが変わるとは予想していなかった。利枝はバッグの中から薄いピンクの地に小さい花柄のついたくるぶしまでの丈のネグリジェと赤いガウンを取り出した。

「ネグリジェは叔母からお誕生プレゼントにもらったんだけど、一度着ただけ。わたしはネグリジェは嫌いだから、先月叔母が遊びに来て泊まっていった時に一度だけ着て見せただけよ。ガウンは自分で買ったものだけど、もひとつ形が気に入らなくて数回しか着てないの。ひろみが自分の好きなのを買うまで使ってくれればいいわ」

 ひろみは利枝に促されてネグリジェに着替え、赤いガウンを着た。ガウンはバストラインの下からウェストにかけて絞ってあり、バストが強調されるようなデザインだった。

 利枝とひろみは一緒に病室を出た。外来用の食堂まで歩いて行って、コーヒーを飲んだ。食堂の手洗い場の鏡に二人の姿が映った。茶色のタイトパンツに白いタートルネックのセーターを着て肩までの髪を後ろで結んだ利枝はすっきりと理知的な感じに見えた。横にショートカットで、豊満な胸をなんとか隠す赤いガウンを着た、すこしやつれた感じの若い女が、利枝にくっつくように立っていた。「病み上がりの水商売の女性みたいだ」とひろみは思った。ひろみはもはや、被害者でも、利枝の元恋人でも、卒業間近の情報工学科の学生でも、プログラマーのバイトでも何でもなく、ひとりのやつれた女をそこに見て、自分の世界が本当に変わってしまったことを実感した。

 食堂はとても混んでいて、利枝とひろみは五十がらみの女性患者とその姉らしい見舞客と相席した。

 利枝がひろみに言った。
「渋谷で嵐のコンサートがあるんだけど切符が二枚とれたの。二ヶ月先だから、大丈夫、外出できるわ」

「そんな、外出だなんて。それに嵐なんて興味ないよ」

 ひろみは女性としては低めの声でつぶやいた。

「女の子なら誰でも欲しがるチケットを苦労して手に入れたんだから。着るものはわたしが持ってくるから心配しないで。去年のクリスマスにわたしが着ていた赤と茶色のチェックのワンピースを覚えてる? あれ、わたしにはちょっと大きめで胸の所が余っていたでしょ。ひろみならボインだから丁度合うと思うわ。あれ、ひろみにあげる」

 ひろみが口ごもる暇もなく、同席していた見舞客が口を挟んだ。

「立派な胸でうらやましいわね。お子さんはいらっしゃるの?」

 ひろみは答えた。
「わたし、まだ学生なんです」

 自分の事をわたしと呼んだのは初めてだった。

「あら、ごめんなさい。お嬢さんたちは本当に仲が良さそうね」

「女どうし一生の親友でいようねって誓った仲なんです」

 利枝がすかさずフォローを入れた。

 利枝とひろみは席を立って薄日の射す中庭を歩き始めた。

「女どうしになっちゃった」
と、ひろみがあきらめたように言った。

「そうよ、一生ものよ」
と利枝が言って、ひろみはこの病院に来て初めて落ちついた気持ちになり、利枝に感謝と友情を感じた。

 翌日から、昼食の後ひとりで外来用の食堂にコーヒーを飲みに行くのがひろみの日課になった。病室を出る前に入念に化粧をして、女性としての顔に確信が持てる事を何度も鏡で確かめた上で、胸をどきどきさせながら大冒険に出かける気持ちでドアを開けた。しかし、ひろみの懸念に反して、誰もひろみに特に興味を示すわけでもなく、普通に歩いて行って、普通にコーヒーを飲んで、普通に帰ってきた。ひろみは人から話しかけられるのが恐かったので、利枝と一緒の時以外は出来るだけ人目に付かない隅の方に席を取って、廊下でも人に目を合わせないように足早に歩いた。ひろみの声は女としては低すぎるので、しゃべると「見破られる」事が心配だったのである。「見破られる」といっても、「こいつは怪しい」と言って裸にされたところで、脱毛できれいになった今となってはどこをどう見ても女なので、特に心配する事はないはずだった。

 ひろみは、シャワーを浴びた後、上半身を鏡に映していて喉仏が気になった。

 ひろみの喉仏は小さい方だったが、気にして見ると確かに不自然だ。院長が喉仏を取り除く手術の事を言っていたので相談してみよう、とひろみは思った。化粧をした状態で鏡を見ると自分自身女であることに疑いは感じないのだが、メイク落としのクリームを使った後、明るい場所で鏡を見ると角度によっては男のように見える。特に風呂でシャンプーした後、髪の毛が水に濡れて寝ている状態だと、頭と顔の骨格が明らかに男に見えて、ひろみはとても不安になった。ひろみはシャワーの後、利枝からもらった「きれいになりたい」という雑誌に出ているファッションモデルの顔と鏡の中の自分の顔を入念に見比べて、自分の顔のどこをどう直したらモデルの顔に近づくか研究してみた。

 第一に、顎を少し短くする必要がある。モデルの顔やそれ以外の女性の顔は下唇から顎までの距離が自分の顔よりは大分短いし、顎の形が清楚で細く丸くなっている。

 第二に、おでこが自分よりは高くて丸い。ひろみの眉の部分の骨は平均的な男性と比べて決して高い方ではないが、おでこは平たいので、目の上の骨はいくらかは盛り上がっているように見える。自分のおでこを若干高くすればモデルの額の感じに大分似てくると思われる。

 第三に、目の下の部分の頬骨が、モデルの方が自分より高い。頬骨を若干高くすれば感じが似てくるだろう。額と頬骨を高くすれば相対的に鼻が低く見えるかもしれない。ひろみの鼻は幾分鉤鼻になっているので、真っ直ぐで細目の鼻にすればバランスが良くなるかもしれない。ついでにひろみは一重瞼なのでアイラインを描くのに何分間もかかり、何度かやり直す事が多い。それはそれで楽しいが、二重にすればもっと楽になると思った。

 翌朝の朝の回診の際に、ひろみは思い切って院長に喉仏のことを相談した。院長は言った。

「バタバタしていて申し訳ない。本当は今週にでも喉仏を削る手術を手配するつもりだったんですが、急患が相次いだりしてついつい失念してしまいました。明日にでも目黒の山崎整形外科で検査してもらって手術の日程を決めましょう」

 山崎整形という名前は雑誌か何かの広告で何度か見たことがあったので、ひろみは安心した。ひろみはモデルの顔と自分の顔との比較研究結果について院長に詳しく説明し、手術して欲しいと頼んだ。

「このままじゃあ人目にさらされるたびに自分が本当の女ではないことを見破られるのではないかと不安で、人前には出られません。何とかして下さい」
と、ひろみは強く訴えた。

「このままで十分女性として通ると思いますが、どうしても美容整形を受けたいということなら、私としては何とかするしかありませんな。今日午後にでも山崎先生に電話でお願いしておきましょう」
と院長が答えた。

 昼食後まもなく、看護師長の長谷川洋子が来て、翌日の午前九時半にタクシーで出発するので準備しておくようにとひろみに言った。

「九時頃までに普段着に着替えて何時でも出られるようにしといてね。私が一緒に行くから。山崎整形は予約時間厳守だから、早めに行って待たないといけないのよ」
と言い終わると、洋子は忙しそうに出ていった。

 ひろみは、この病院に痔の手術のために来院した時に着ていたジーンズのズボンと、コットンのスリムなシャツと毛糸のセーターが引き出しの中にあるのを確認した。「もしかしたら」と思って着てみると案の定コットンシャツの胸のボタンが留められなかった。両側から引き寄せても数センチ開いてしまう。ボタンが開いたままでセーターを着て隠そうとしたが、気分が悪くなるほど窮屈な感じで、鏡を見ても全く体型の違う他人の服を無理矢理着ているようで滑稽だ。

 ジーンズのズボンの社会の窓の部分がぶかぶかで布だけが異様に余っていて落ちつかない。ひろみは着なれていたはずの服に、異性の服を無理にまとうような強い違和感を感じている自分に気がついた。

「これじゃあ駄目だ」

 困惑していた時、利枝が見舞いに訪れた。ひろみは翌日の外出のことを利枝に話した。

「まかせといて、今からアパートに戻って、夕方もう一度、服を持ってきてあげるから。初めての外出なんだからおしゃれしなくっちゃ」

 利枝は楽しそうに言って出ていった。

 夕方、利枝がデパートの紙袋を提げてやってきた。

「ひろみに似合いそうな服を持ってきてあげたわよ。さあ、まずはこのブラとガードルをつけて。ブラはテレビで宣伝している『寄せて上げる』タイプのをこづかいはたいて買ったのよ。それにおそろいの色のガードル。スリップはおとなしい色にしたわ。タイツは濃いめの茶色のタイツよ。全部で一万円もしたんだから」

 学生の利枝にとって一万円はバイト一日分だ。

「僕、はらうよ、勿論」
と言ってひろみは財布から一万円札を出して利枝に渡した。ひろみの財布の中身は七千円に減ってしまった。

「わたしって言わないと変な人と思われるわよ、女子高生じゃあるまいし」

 ひろみがネグリジェを脱いで、真新しい下着に付いているラベルやタッグを苦労して外しながら身に着けるのを見物しながら、利枝が冷やかした。ブラジャーはひろみの乳房を一段と丸く、高く見せて、直立するとつま先が見えなくなった。肩に重みを感じたが、今まで何となく収まりが付かず重苦しかった胸元が、しゃきっと引き締まって気分が爽快になった。ガードルをはくと股が切れ上がったような感じで、足が長く見えるようになった。茶色のパンストはひろみの足を柔らかな感じに見せた。

 利枝はバッグの中からワンピースを二着取り出した。

「二着ともわたしのだけど、もう着るつもりはないからひろみにあげる」

「でも、二着とも新品みたいだよ。こっちのピンクの方はタッグまで付いてる。本当にもらって良いの?」

 ひろみは驚いて聞いた。

「ピンクの方は先月遅くまでバイトしてくたくたに疲れてた時、帰り道に衝動買いしたの。渋谷駅の手前で店じまい売りつくしセールって赤い垂れ幕がかかっててね、わたしが店に入った時にはもう閉店しかかってたの。一番目立つところにこれが斜めに吊るしてあって、三万五千円のところ一万円って書いてあったの。わあ、安いな、けどちょっと派手かな、って思いながら十分ほど見てたら、お嬢さん似合いますよ、って言われて、もうひとりの店員さんはもうシャッターを半分降ろして帰ってしまって、その店長も帰りたがってるみたいで、すみません、もう閉店しますのですぐ買ってくれるんだったら七千円にしときますって言われたのよ。三万五千円が七千円という事は五分の一でしょ。それで試着もせずに買って帰った。その日は帰ってからもバイトのやり残しをやって、翌朝に着てみたら胸は余っててペチャパイがますます小さく見えるし、ひざ上二十センチ近いミニだし、色もその店の照明で見ると割合おとなしいピンクと思ってたのが太陽の光で見るとすごく派手で、とてもこんなのを着て人前に出られないと思ったの。衝動買いした自分に腹が立って、この服を見るたびに悔しい気持ちになるの。ひろみが着てくれれば嬉しいわ」

 利枝の話を聞いていると、もらってもあまり感謝する必要は無いようにも思えた。

「こちらのチェックの方は今年の三月にお見合があって帰省したら、母が買ってくれてて、お見合の日に一日だけ着たものよ」
と、利枝は言った。

「お見合なんて初耳だよ。ひどいよ、ぼくは恋人のつもりでつきあってたのに」

 ひろみは憤慨して言った。

「わたしもお見合なんてしたくなかったんだけど、すごくいい条件の人で母が強引に決めちゃったの。伊豆長岡市内に八千坪もの土地を持ってる兼業農家の次男で、釣書を見ると慶応大学卒の三十二歳で大手町の大手総合商社に勤務していて、近々ニューヨーク駐在予定、おまけに身長百八十三センチって書いてあるじゃない。誰だってチャンス到来と思うでしょ」
と、利枝は言った。

「あ、そうか、それでこの服を着てお見合したら相手に気に入ってもらえなかったから二度と着たくないんだね」

 ひろみは馬鹿にしたように言った。

「とんでもない。気に入られすぎて大変だったのよ。その気に入られ方がイヤだったというか……。相手の人は巨豚みたいな人でね、お腹はたるんでいるし、毛深くて手の甲にも熊のような毛が生えていた。顔も喉まで青いぐらい髭が濃くてね。汗っかきで暑くもないのに額がびしょびしょになるぐらいに汗をかいていて何度もハンカチで拭いていたわ。ハンカチを落として拾うときに頭の上が見えたんだけど、三十二歳の年で、てっぺんはげだったのよ」

 利枝は顔をしかめながら嫌で嫌でたまらないという感じで言った。

「わたしは五分で絶対にイヤだと思って早く帰りたかったんだけど、結局仲人さんが帰った後、二人きりで喫茶店に連れて行かれて二時間も話をする羽目になってしまったの。その人、わたしのスカートの裾の辺りにしょっちゅう目をやってはジーッとみているの。喫茶店で『可愛いですね』って七、八回言われたわ。二、三回までは嬉しかったけど、だんだん気味が悪くなってきてね。だって『可愛いですね』って言う時いつもスカートの裾の辺りを見ながら言うのよ。喫茶店を出て別れる時『僕は貴女のような小さくて可愛い感じの女性が好きなんです』と言うのよ。わたしは小さくないし、可愛いタイプになろうと思ったこともないわ。駅で鏡に映った自分をみたら、確かにかわい子ぶったようなワンピースだなって気がして、その時からこのワンピースが嫌いになったの」

 利枝はいくらか自慢げに話した。

「それでそのお見合はどうなったの」

 ひろみは気になって聞いた。

「家に帰ると、もう仲人さんから母に電話が入っていて、是非結婚を前提にお付き合いして欲しいと言われて、すぐに仲人さんに断りの電話を入れてもらったの」

「高学歴、高収入で百八十三センチもあるのに、惜しいなあ」

 ひろみは冷やかした。

「じゃあ、ひろみを紹介してあげようか、このワンピースを着てお見合すれば気に入られるわよ、きっと」
と、利枝がやりかえした。

「どちらでも好きな方を明日着て、次に検査に行くときにもう一方を着ればいいわ。それから、靴とバッグはわたしの古いのを貸したげるから、そのうちに自分のを買ったら返して。いつでもいいわよ」
と、利枝は言って、黒の五センチぐらいのヒールのパンプスと、赤いハンドバッグを差し出した。

 ひろみは、まずピンクのワンピースを着てみた。淡いピンクの単色でシンプルなデザインだ。バストのサイズはピタリとフィットして、ハイウェストの下部はゆったりとしており、かえってウェストが細く見えた。ヒップから裾にかけてのラインはマッシュルーム型で、スカートの裾は膝の上二十センチぐらいだった。ピエロかコールガールのように見えないかと心配したが、鏡で見ると意外におとなしくて上品な感じだったので安心した。

「似合うわ。ひろみの為に仕立てたみたいよ」
と、利枝が叫んだ。

「よかった。ありがとう」
と、ひろみは素直に女らしく礼を言った。

 ひろみはピンクのワンピースを脱いで、もう一方のチェックのワンピースを試着することにした。ボディー部分が白と黒のチェックで、黒のドルマンスリーブから七分袖のニットになっている。ハイウェストで、膝上十センチのゆったりしたフレアースカートだ。

「わたしが着るとゆったりしていて、おとなしいお嬢さんっていう感じだったけど、ひろみが着ると全く別な感じに見えるわ。それにしても可愛いフレアーね。自分が着てるとわからなかったけど、座って正面から見るとスカートの中が覗けそうな感じがするのね。だからあの男、スカートの裾ばかり見ていたんだわ」
と利枝が言った。

 ひろみは慌てて座っている足をぴたりと揃えた。

 翌朝、ひろみはチェックの方のワンピースを着た。入念に化粧をしてどきどきしながら師長の長谷川洋子を待った。洋子は私服で九時丁度にやってきた。

「おめかししたな。ガーリーで素敵なワンピースね。似合ってるわよ」

 洋子が言って、ひろみは嬉しくなった。

 洋子とひろみは病院を出て中野坂上の地下鉄の駅まで歩いた。

「昨日はタクシーで行くって言ってたのに」

 ひろみは不満そうに聞いた。

「目黒までタクシーで行くと何分かかるか読めないのよ。交通渋滞にかかると遅れる可能性もあるしね。電車だと確実に三十分以内で行けるわ」
と、洋子が面倒くさそうに説明した。

「僕、こんな格好を人目にさらすのいやなんだよね」

 ひろみが不満そうな声でぶっきらぼうに言った。

「あんた、まずその言葉遣いをなんとかしなさい。こんな格好、なんていうけど、あんたはどこをどうとっても女なんだから、当たり前でしょ。女じゃ無いって言うなら、証拠を見せてよ。大体、美容整形を病院の費用持ちでやってもらう事自体、恵まれすぎてるわよ。一体、ナニサマのつもりなの?」

 洋子があまりにも強い口調で叱責したので、ひろみはたじろいだ。

「ごめんなさい。わたし、もし知ってる人に出会ったらどうしようって、恐いんです。それに、おかまと思われるのもいやだし」

 ひろみは泣きそうな声で言った。

「心配ないわよ。絶対におかまと思う人なんかいないわよ。あんたはどう見ても普通の女よ。ちょっとボインで太めだけど」

 洋子は一転してやさしい声で言った。

 事実、ひろみは予め疑って観察しない限り、どの角度から見ても女であることを疑われるような点は無かった。

 地下鉄丸の内線を新宿で降りて山手線に乗り換えた。ひろみは乗り換えの為に通った新宿駅構内で何度か転びそうになった。五センチほどのヒールのパンプスだが、今まで履きなれた靴と同じ足の運びをすると、前に踏み出す時にどうしてもかかとから斜めに着地してしまい、床が滑らかだと滑ってしまう。

「お願い。もう少しゆっくり歩いてください。わたし、ハイヒールは始めてなの」

 ひろみは弱音を吐いて懇願しなければならなかった。

 ひろみは、すれ違う人が自分に何の注意も払わず、誰もジロジロ見たりしないので、安堵した。特に女性は自分に全く目を止めず、何の関心も示していない事が解った。男性も殆どは自分を無視していたが、何人か自分の顔からつま先まで品定めするように見たり、すれ違いざまに自分の胸とかスカートの裾の辺りに視線を走らせたりする人がいた。

 山崎整形外科医院は目黒駅から歩いて二分もかからず、ひろみと洋子は九時半に到着した。洋子は窓口の看護師とは知り合いらしく、受け付けに時間はかからなかった。外来の診察は十時からだったが、ひろみは朝一番の予約だった。ひろみは放射線検査室に通され、何枚かのエックス線写真を撮られた。次にテレビカメラで前と左右、それに斜め方向から顔写真を撮られた。エックス線写真がライトボックスに張り出された頃、院長が入ってきた。

「君が山下ひろみ君だね。大月先生から事情を聞いているよ」

 山崎院長は優しく言って、ひろみの顔から喉にかけて、両側から両手で押さえるように検診した。

「君は幸運だね。人によっては手を入れにくい頭蓋の形もあるんだが、君の場合は頭蓋が小さいし、手を入れやすい形をしている。どんな感じの顔にしたいのか、女優で言えば誰のような感じをイメージしてるとか、話してみなさい」
と、院長は聞いた。

「わたしはただ、どこから見ても女に見えるように直して頂ければ有り難いんですけど」

 ひろみは控え目に答えた。

「駄目だよ。ここにくる女性達はみんな、はっきりした出来上がりのイメージを描いて来るんだよ。女優やモデルの写真を持ってくる人も多い。おまかせ、っていうのは前例がない」

 院長はあきれたように言った。

「それじゃあ、どんなでもいいですから出来る限り美人にして下さい」
と、ひろみは言って、顎を小さく、鼻をすっきり細く真っ直ぐにして、おでこと頬をいくらか高くすれば女らしい感じになると思う、と自己分析の結果を説明した。

 院長は、先ほどテレビカメラで写したひろみの顔を五十インチのモニターに前と横方向から並べて映し出し、コンピュータのキーボードとマウスを器用にいじって、顎を削り、鼻の形を変えて、額を丸くした。人物画を描くようにタッチを加えていく院長は芸術家のようだった。

「顔の形はこんなところかな」

 院長はスクリーンを見ながら満足げに言って、斜め前から見た手術後の顔を映しだした。ひろみの顔はどちらかというと平坦な顔だったが、スクリーンに映った完成予想は丸いおでこにすらりとした高すぎない鼻で、細く小さな顎の、化粧品の宣伝のモデルのような形の顔だった。

「本当にこんなに変わるんですか。別人みたい」

 ひろみはうっとりとして女子高生のような口調で言った。

 院長がコンピュータのキーをたたくと、ひろみの現在の顔を前と横から見た写真が並べて映し出され、さらにキーをたたくと、削り取る部分が赤で、高くされる部分が青色で表示された。院長はそれをカラープリンタで印刷した。

「さあ、次は目だ。目は心の中や人柄を映し出すし、君が鏡を見る時もお化粧をする時も、一番よく見るポイントだから、どんな目になりたいのか良く考えるんだよ」
と、院長が言って写真集を差し出した。

「わたし、ちょっとたれ目ぎみの一重瞼でしょう。お化粧に時間がかかるんです。くっきりとした二重瞼で、ちょっと目尻がつり上がった、色っぽい感じが良いです。そんな感じの目になったらお化粧が楽でしょうね。写真でいうと、こんな感じかな」

 ひろみは写真のひとつを指さした。

 院長はその写真の下に書いてあるコード番号をコンピュータに入力して、スクリーンに映し出された左右の目をマウスでドラッグして、ひろみの目と置き換えた。出来上がりの写真は、今のひろみとは似ても似つかぬ美人の女だった。

「まあ、大体こんな感じをイメージしてやってみましょう。目なんかは基本的な形が違うので写真の通りにはいかないがね」

 院長は説明した。

「喉仏の方は目立たなくしてあげるから、まかせておきなさい。手術は来週水曜日の午後になる。二晩入院が必要なので着替えを持って午前十時頃来院して下さい」
と院長が言って診察は終わった。

 新宿駅に着いた時、構内の時計は十一時四十五分を指していた。

「お昼を食べていこうか。わたしは二時までに帰ればいいから十分時間があるわ」

 丸の内線の乗り換え口の方に向かって歩きながら洋子は言って、二人はファミリーレストランに入った。洋子はオムライスと、コーヒーとチーズケーキのセットを注文した。ひろみも丁度オムライスが食べたい気がしていたので、同じものを注文した。

「ここのオムライスはおいしいのよ。たまに友達と会うときにはこのファミリーレストランで待ち合わせする事が多いの。わたし、子どもの時からオムライスになにかあこがれのようなものがあるんだけど、主婦ってオムライスを作る機会って意外に少ないのよね。五十の亭主にオムライスなんか出したら手抜きと思われて露骨にいやな顔されるわ」

 ひろみもオムライスは大好きだったので、洋子の気持ちは良く分かった。

「お子さんはいらっしゃらないんですか?」

「わたし晩婚で、三十五の時に結婚してすぐ妊娠したんだけど流産したのよ。それから、なかなか子どもが出来なくって、そうこうしているうちに四十の時に子宮筋腫になって、子宮を取っちゃったの。もともと子どもは好きだから、そりゃあ悲しかったわ。今から思えば養子を取ってでも自分で赤ちゃんを育てれば良かった。でも亭主は中小企業の事務員で、亭主一人の稼ぎじゃ、大変だっただろうけど」

 洋子は淡々と答えた。

「ごめんなさい。そんなこと聞いちゃって。わたしは赤ん坊を欲しいと思ったことないから、実感としてわかりませんけど」

 ひろみは、何だか心から悲しくなった。

「そうね。あなたの方が、急に違う世界に放り出されて、もっと大変よね。でも、あなたは見ていて素直だし考え込まない性格のようだから、きっと適応できるわ。なんといっても若いからどうにでもなるわよ」

 洋子はひろみを元気づけたかった。

「今は大月病院で大事にかくまってくれているようなものですけど、これから自分がどうなるのか想像もつかないんです。わたし、大学を卒業しても、きっとまともな就職はできないでしょうし、就職できたとしても戸籍の問題で結婚できるはずが無いし、仮に結婚できるにしても男性と一緒になるということ自体、気持ちとして受け入れられません。水商売ぐらいしか雇ってもらえないかも知れませんし、それも若いうちはなんとかなるにしても、年をとったら、上野公園かどこかで一人ぼっちのホームレスになって、野たれ死にすると思います」

 ひろみは、体や顔や服装に起きてしまった変化には慣れつつあったが、自分がこれからどうなるのか全く見通しが立たず、考えるのも恐かった。洋子の包容力の前に思い切って自分の不安をぶつけたい気持ちになったのだった。

「その点に関しては、そのうち気持ちが変わってくると思うわ。あなた、さっき山崎先生にどんな風に整形して欲しいか説明してたでしょ。わたし、あなたの一生懸命な顔を横で見ていて、この娘、かなり男を意識してるな、っておかしくなっちゃったの」

「それはわたしの中の男の意識が、鏡やスクリーンに映った女の顔を品定めしていたんだと思います」

 ひろみは、洋子の言葉を認めたくなかったので、思いつくままに意味の無い言い訳をした。

「そうかな。あなたがお化粧を直す時の顔を見ていると、とても幸せそうで、品定めなんていうレベルじゃないと思うわよ」

 洋子はひろみを冷やかした。

 そういわれて、ひろみは赤くなってしまった。

「今日、新宿駅のコンコースを歩いていて、すれ違う男の人がわたしの胸を見て、そのあと頭のてっぺんからつまさきまで視線を走らせた後、最後に馬鹿にしたような目つきで顔をのぞき込んで行くんです。四、五回そんな目に遭いました。わたし、その度に背筋がぞっとして恐くなって、男の人に見られるだけでも逃げたくなります」
と、ひろみは打ち明けた。ひろみは、そんな事があって、男性全体が恐くなってきていた。

「いいわね、若い娘は。三十半ばを過ぎたら殆どそういう機会は無くなるわ。整形してもっと美人になったら、ますます見られるようになるわよ。うらやましいわ。夜道とか人っ気の無い所を一人で歩く事だけはしないように気を付けるのよ」

 ひろみはますます怖くなった。

 二人はファミリーレストランを出て、デパートの中を通って地下鉄の入り口の方へ歩いていった。ひろみは、先ほどから我慢していた尿意が急に強くなって、今にも漏れそうな気持ちになり、洋子に頼んでトイレのある三階に寄った。トイレの入り口でひろみは立ちすくんでしまった。

「あのう、どっちに入ったら良いんでしょうか」

 洋子はしげしげとひろみの顔を見てあきれて答えた。

「男子トイレに決まってるでしょ。試してみれば」

 ひろみは、今の自分が男子トイレに行ったらどうなるか分かっていたが、病院でも自分の個室にあるトイレ以外は使ったことがなかったので、女子トイレに入ったことは一度も無かった。意を決して女子トイレに入っていくと、昼食後で混んでおり、洗面所の鏡を左にして十数人の列が出来ていた。ひろみは、他の女性達が自分をうさんくさそうに見ないか、気が気でなかったが、その心配は杞憂に終わった。誰もひろみに注意を払わず、鏡に映った自分の髪を直したり、バッグの中のティッシューを探したり、あるいはただ黙って順番を待っていた。十数人も後で順番が来るまで、我慢できるかどうか、ひろみはそちらの方も心配だったが、トイレの個室は合計七つあり、ひろみの順番が来るまで三分とかからなかった。軽いフレアーのミニスカートなのでトイレは楽だった。便器に腰掛けるか掛けないかの内に、水道の蛇口から水が出るように小便が出て、ひろみはほっと一息ついた。隣のボックスからも同じような、水道の蛇口から水をバケツに入れるような音が聞こえてきた。

「女のおしっこはこんな音がするのか! 知らなかった」

 ひろみは服を直しながら独り言をいった。

 手を洗った後、隣の中年女性の真似をして軽くパフをはたいた後、口紅を取り出して丁寧にリップを直した。

「トイレってオアシスみたいな所だわ」

 ひろみはその時からデパートのトイレが好きになった。

 病院の個室に帰り着くと、ひろみはネグリジェに着替えた。利枝からもらった二着のワンピースはどう考えても入院患者が着るには場違いだし、かといって他に部屋着も持っていなかった。何より、病気でないひろみにとって個室で病人のように世話をしてもらうのは後ろめたさを感じ始めており、病人らしい格好をしている方が気兼ねが無かった。

 夕方利枝が顔を出した。ひろみは今日一日のアドベンチャーについて利枝に息も切らさずに話した。

「よかったわね。来週どんな顔が出来上がるか楽しみだわ。それにしても、ひろみ、急に女言葉でしゃべるようになったのね。どうしてなの?」

 昨日までは、男言葉から乱暴な言い回しを取り除いた中途半端な言葉を使っていたひろみが、急に「わたし、なんとかだったわ」とか「そうなの」とか、完全に女の言葉を使って話しているので利枝は驚いていた。

「ホントだ! 自分でも気が付かなかったわ。わたし、今朝出かける時に乱暴な言葉でぶつぶつ言ってたら師長さんにものすごく叱られて、それから一日中こんな言葉を使ってたの。今、全然意識してなかったわ」

 ひろみは、あっけらかんとして説明した。

「あんた、結構調子いい方だものね。心配して損しちゃった」

 ひろみの血液型はB型で、思い悩まず、良くも悪くも適応が早いと人に言われていた。

「そんなこと言わないで。わたしが自殺を考えないで生きていけるのは、利枝のお陰よ」

「わたし、明日からしばらくお見舞いに来れないのよ。幕張メッセで明日から始まる展示会にバイト先の会社が出展してるの。わたしはブースに立つのは好きじゃないから断ったんだけど、どうしても人手が足りないからって頼まれたの。わたし、帰国子女だから外人客でも応対できるでしょ。アメリカの親会社から偉い人も来るから、わたしみたいに見栄えが良くて、しかもお客さんの技術的質問にも答えられるような人にブースに立って欲しいって言われたの」

 利枝は自慢げでは無さそうな言い方をした。

「うふふ、随分自信があるのね」

「本当にそう言われたんだから」
と、利枝は口をふくらませた。

「見栄えが良くて、技術的質問にも答えられるっていう形容詞なら、わたしにも当てはまるわね」

 ひろみは半分本気で言ってみた。

「ひろみはおばさん声だから無理ね。宇宙服みたいなミニスカートでオッパイを突き出してにこにこしておじぎだけするだけのコンパニオンの役目なら勤まるかもね。それに今度のコンベンションは企業相手のイントラネットのコンベンションだから、子ども相手のゲームソフト専門のひろみには技術的にもしんどいわよ、きっと」

 利枝は口の悪い冗談を言ったが、かなり当たっているだけに、ひろみは反論のしようがなかった。

「もう、くやしい、利枝ったら。ところで幕張のコンベンションは三、四日だけでしょう。当分来られないというのはなぜ?」

「親会社のアメリカ人が来ているから、コンベンションの後、大阪と福岡に行って顧客企業向けのミニセミナーとパーティーを開くの。それにも着いて行くように言われてるのよ」

「まあ、良いわね。すごいわ」

「バイト代もたっぷり入るから、帰ったらおごるわね」

「楽しみにしてる」

 利枝が帰って一人になると、ひろみはずっと前から利枝を単なる恋人とか友達という以上に信頼していたことを思い出した。利枝は成績が良いが、ガリ勉ではなく自然と楽に良い点を取っていた。プログラマーとしても単にコーディングができるというのではなく、大きな視野を持った上で、ひろみがハッとするような斬新な構想を描いて、才能の違いを実感させられたことが何度もあった。友達づきあいでも、皆の考えていることの先を読んで、角を立てずに自然と思い通りに導いていくようなリーダーシップがあった。利枝が自分を結婚対象と思っていなかったというのは当たり前で、今のような女同士の親友の関係が、自分にとって利枝と持ち得る最善の選択肢だったかもしれない、とひろみは思った。

 山崎整形での手術の日までの数日間は飛ぶように過ぎた、但し火曜日の午後二時までは。その時ひろみは翌日着ていく予定のピンクのワンピースを着て、入念にお化粧をしてハンドバッグの中味を確かめ、翌日の外出の予行演習をしていた。突然、予期せぬ訪問者が乱入してきた。

「まさか……。あなたなのね?!」

「あ、お母さん」

 ドアを開けて、すごい形相をして立ちすくんでいたのはひろみの母親の山下勝子だった。

「なんて格好をしているの。脱ぎなさい!」

 勝子はどなりつけた。

「ち、違うんだよ。好きでこんな風になったんじゃないんだよ」

 ひろみは勝子に対してとっさに男言葉が出てしまった。

「何言ってんのよ。お化粧までして。先週から電話をしても出ないから、心配になって東京に出てきたんだよ。アパートには居ないし、学校の事務局でこの病院の名前を聞いてやっとたどり着いたのよ。受け付けの看護師が変な顔をするから、どうしたのかなって思って入ってきたらこんな事になってるなんて。一体どういうわけなの? 説明しなさい」

 ひろみは自分に起きた信じられないような出来事の一部始終を泣きながら話した。つい数分前まで幸せな気持ちになっていたが、母親の顔を見ていると自分に起きてしまった事の重大さが改めて思い起こされて、涙が止まらなくなった。

 ひろみは十年ぶりで母親の膝に顔をうずめて泣いた。勝子も事情を聞いてひろみを責めても始まらないと悟った。

「さあ、顔を上げて。お化粧が流れてまだらになったわよ。服を脱いで見せてごらん」

 勝子は一転して優しい声で少女をなだめるように言った。ひろみはワンピースを脱ぎ、スリップと、ブラジャーを外して二つのきれいな乳房を露わにした。茶色のパンストと、ガードルと、ショーツも脱いで、若くてみずみずしい肢体を勝子に見せた。勝子はひろみをベッドに横たわらせ、股を広げさせて指で陰部を撫で、膣を両手の指で広げて確かに陥没があることを確認した上で中指をゆっくりと奥まで差し込み、その後クリトリスを上下左右に揺するように触った。

「わたしのと同じだわ。これじゃあ元の身体に戻すことは不可能ね」

 勝子はひろみの太股を右の掌でポンとたたくと気が変わったようにすっきりした表情で立ち上がった。

「さあ、顔を洗ってお化粧を直しなさい」

 ひろみは泣きじゃくりながら、ベッドに座ってコールドクリームを使った。

 その時院長がひろみの個室に入ってきた。ひろみは慌ててネグリジェを着た。

「院長の大月です。山下さんのお母様でいらっしゃいますか」

 院長は深々と頭を下げて言った。

「なんとお詫びを申し上げたら良いのか。私どもの手違いで取り返しのつかない事になってしまいました。すぐにでもお伺いしてお詫びすべき所でしたが、ご本人も誰にも面会したくない様子でしたし、中途半端な段階よりもちゃんと新しい身体への移行が完了してからお知らせする方が良いのではないかと思ったのです」

 院長はひろみの母親の目を見て、一言一言噛みしめるように言った。院長が心から詫びていることが言葉の端々に感じられた。もしも五分前に院長が現れていたら勝子は院長に殴りかかっていたかもしれなかったが、ひろみの身体を見て勝子の気持は変わっていた。今更何を言っても始まらない。これからどうするかが問題だ。ひろみは顔や体型は勝子とは全く似ていなかったが、気持ちの転換の早い点は勝子譲りかも知れなかった。

「ひろみから事情は聞きました。身体を見て元通りにならない事は良く解ったので、後はどうしたらこの子が苦しまずに普通の生活が送れるようになるのか、そのことを考えて下さい」

 勝子はしっかりとした声で発言した。

「はい。まず明日の整形手術で、外観的には全く不自然な点はなくなると思います。今後女性ホルモンの投与を続けますと、数ヶ月のうちに、体脂肪の分布も徐々に変化して、ウェストは細く、臀部に脂肪がついて女性的な体型に変わってきます。皮膚は薄くみずみずしく、髪の毛は細くなります。ただ声の高さだけは殆ど変わりません。ひろみさんの場合男性としてはやや高めの声だったので、発声を工夫するだけでも何とかなりますし、現に最近女らしい言葉遣いをするようになってからは不自然さは無くなりました。でも、鈴の鳴るような高い声にするには手術が必要です。声帯の手術方法に関しましては、文献だけでなく色々問い合わせて鋭意調査中ですが、これが決め手というような効果的かつ安全な手術方法はまだ確立していないようです。成功例もあるようですが、危険を伴いますので、慎重に考えたいと思います。声帯の一部を切除せずに縫合する事によって低い音域を出しにくくする形なら、安全な手術方法があるようです。その場合声のピッチはそれほど高くなりませんが、声の高い部分を使いやすくすることで女性らしい声にできるのです。ひろみさんの場合、それで十分ではないかと思います。日本に限らず各国に問い合わせして最善の方法を研究中ですので、あせらずにお待ち下さい。どんなにお金がかかっても最良の処置をさせていただくつもりです」

 院長の説明を聞いて、勝子もひろみも気持ちが落ちついてきた。

「女でもひろみより声の低い人はいくらでもいるし、ひろみも高い声でしゃべる訓練をすれば十分このままでやっていけます。絶対に安全だと判るまで手術はしないで下さい」
と、勝子はきっぱりと言った。

「子どもを生むことは出来ないんですね」

 勝子は念の為に聞いた。

「子宮が無いので、それは不可能です。もっとも、オーストラリアの動物実験で受精卵を雄の腹部で培養した例はありますが、現実的には不可能と考えた方が良いでしょう。ご本人の希望次第ですが、養子を取って赤ちゃんを育てるのが現実的だと思います」
と、院長は答えた。

「戸籍を変えないと女として結婚できませんが、ひろみの場合本人の意向に反して事故で性転換されてしまったという事で、救済措置として戸籍を変えてもらう事はできるのでしょうか」
と、勝子は聞いた。これはひろみもずっと気になっていた質問だった。

「その点については弁護士に相談中です。おそらく本人の意向に反してそうなったとか、正攻法を取るとうまく行かないか、非常に時間がかかる恐れがあるようです。生まれつき両性具有で、男として育てられたところが、成人して本人の意思で女性として生きる事を望んだので、半陰陽を矯正する形成手術を受けた、というような話にするのが最も早いかも知れません。勿論その場合には医師として記録を改ざんし、虚偽の証言をする事になり、最悪露見した場合、犯罪行為になりますが、私としては覚悟はできています。DNA鑑定も検体のすり替え等、何でもして切り抜けます。当病院の記録も真性半陰陽の矯正手術として書類を作成してありますし、事実を知っている人間も限定されており、完全に口封じをしてあります。いずれにしても、後々問題にならないような最善の方法を検討しますのでお時間を下さい」

 院長は表情を変えずに、しかし優しい表情を崩さずに説明した。

「そこまで責任を感じて真面目にひろみの為を思っていろいろ考えていただいていることが解って安心しました」

 勝子は院長を責めるべき立場にあったが、話を聞いているうちに、相手が自分と同じぐらいひろみの将来のことを考えていることが分かったので、むしろ指導を乞うような気持ちになっていた。

「損害賠償についても色々考えました。死亡保険金並の金額、例えば一億円とかの一時金をお支払いする事も可能です。でも、お金をもらったからと言って、ひろみさんが幸せになれるわけはありませんし、ご実家に戻っても性が変わっていては色々近所、親戚もつまらぬ事を言うでしょうし、心は安まらないと思います。そこで考えたのですが、ひろみさんをうちに養女としてお迎えしたいのですが如何でしょうか。私たち夫婦は子宝に恵まれず、将来の楽しみもありません。ひろみさんを娘として責任を持って社会復帰させ、本人さえ良ければ医師の資格を持った婿を取って、大月病院を継いでくれてもいいし、もしその気がなければどこにでも嫁に行ってもらっても結構です。その方が私たちとしてはひろみさんが幸せになるまで責任を持って見届けられますし、大した額ではありませんが遺産を継いでくれる人もできて安心です。タイミングとしては山下ひろみとして性別を女性に変更して、その後で大月ひろみになってもらうのが、戸籍もきれいになると思います。健康なまま入院しているのはひろみさんも苦痛でしょうから、そろそろ私の自宅にひろみさんの部屋を用意しようと思いますが、如何でしょうか」
と、院長は、ここ数日の間に妻と相談した結果として提案した。

「願ってもないお話だと思いますが、私の一存で決められることではありませんので、主人に相談してからお返事させて下さい」

 思いがけない話の展開に驚いたのは、ひろみの方だった。

「勿論、ひろみさんは好きな時にご実家に帰ってもらって結構ですし、ご両親には生みの親として何時までも親孝行してもらえれば、と思います」

 ここまで言われると、勝子の心の中では話は決まったも同然だった。

「養女にお出しする場合なら、母親としては家で何ヶ月かでも特訓して女としての最低限のたしなみを学ばせてからにさせて頂きます」
と、勝子はきっぱりと言って、右手をひろみの肩に置いた。

「お母さん、特訓て何の事?」

 ひろみは慌てて聞いた。

「立ち居振る舞い、言葉遣いから始まって、料理裁縫、掃除洗濯、着付けに到るまで、女なら当然身につけているべき事を教えるのよ。あんたは小さいときから末っ子で甘やかされてきたから何でもいい加減なのよ。徹底的に直さないと人様のお宅に出したりできないわ」

 勝子の気持ちの切り替えの見事さのお陰で自分の心も落ちついてきたひろみだったが、新たな難問を出されて、あたふたした。

「まあまあ、お母様、私どもも決して甘やかしたりはしません。ひろみさんも、大学を予定通りに卒業する為にも東京を離れるわけにはいきませんし、ご実家での特訓は不要かと思います」

 院長が助け船を出したので、ひろみは思わず院長の方に身体を近づけた。

「奥様には、出来の悪い嫁を躾けるつもりで徹底的にしごいて頂くようにお願いしたいと思います」

 勝子はきっぱりと言った。

「わかりました。次回いらっしゃる時は是非私の自宅の方にご主人と一緒にお越し下さい。躾の件も家内と直接じっくり打ち合わせされては如何でしょうか?」

 大変な事になってしまった、と思いながらひろみは聞いていた。

「是非そうさせて頂きます。いつごろがご都合がよろしいでしょう?」

 勝子はハンドバッグから手帳を出した。

「明日の手術の後、山崎整形で二泊入院して、当院に帰った後、やり残したままになっている痔の手術をしますので、退院した後、という事は十日から二週間後ぐらいが良いと思います。一応余裕を見て二週間後の土曜日か日曜日ぐらいということでご予定を立てられて、またお電話下さい。それでは私、回診がありますので今日はこれで失礼します」

 院長はひろみと勝子を残して病室から出て行った。

「誠意のある院長さんで本当に良かったわね。お父さんも反対するはずが無いし、お前もお医者さんのお嬢さんになって一生経済的にも心配なくやっていけるわ。お前はチビで男としては風采も上がらないし、兄さん達と違って頭の方ももうひとつだったから、正直な所、心配してたのよ。あのまま男で行っていたら苦労していたわ。幸運な子だね、お前は」

「ひどいよ、お母さん、今までそんな事言ったことなかったのに」

 ひろみの両親はいわゆるノミの夫婦で、勝子は百六十七センチと大柄だったが、父親は百六十センチに満たなかった。二人の兄は母親似の精悍な顔立ちで百八十センチ前後あった。ひろみは父親に似てしまったのだ。

「お前も女としてなら普通の体格だし、お父さんに似て色も白いから、手術で美人にしてもらえれば儲けものよ。わたしも長年男ばかりの殺風景な家庭を守ってきたけど、娘が出来てほっとしたわ。家族でも男相手じゃ話す内容にも限界があるからね。今度のことはお前にとってもわたしにとっても、すごく幸運だったかもしれないという気がしてきたわ」

 ひろみも当初は勝子の失礼な発言に腹を立てていたが、勝子は本心からそう言っており、冷静に考えれば勝子の言う通りだったので、怒る気持ちは無くなった。

「わたし、もう、頭の中がごちゃごちゃだけど、当面どうなるのか何となく解ってきただけでもほっとした。お母さんの言うとおりにするわ」

 ひろみは、せいせいしたという口調で言った。

「じゃあ早く着替えてお化粧しなさい。明日手術に行くのに孔雀がパーティーに行くような格好で行くと常識のない女と思われるわよ。普段着を買いに行きましょう」

 ひろみはチェックの方のワンピースに着替えて化粧を直した。

 化粧しながら、二着のワンピースに関して利枝が言っていた逸話を勝子に話した。勝子はその話を面白そうに聞いていた。

「お前、時々男言葉が混じるけど、気を付けなさい」

 勝子は以前から、最近の若い女の子が、自分を「ぼく」と呼んだり、男の子のような言葉遣いをすることが流行っているのを苦々しく感じていたが、ひろみのしゃべり方を聞くとカンに触った。

「そんなことないよ。これ、普通だよ。利枝だってこんなしゃべり方だよ」
と、ひろみは反論した。

「お友達がどんなしゃべり方をしようと、どんな言葉がはやろうと、お前はスタートが違うんだから真似しては駄目。常に女の中でも一番女らしい言葉をしゃべって、一瞬でも隙が無いようにしなさい。今度男の子みたいな言葉遣いをしたら承知しないわよ。それに利枝さんに頂いたものはちゃんとお返しするとか、細かいところに気を付けるのよ」

「利枝は返して欲しくないっていってるよ」

「代わりのものを買ってお返しするのよ。当たり前でしょ」

 勝子の心の中で、ひろみは完全に娘に変わっていたので、急にひろみの細かい点での女としての不完全さが気に障るようになっていた。

「お前、耳の中に耳垢が見えてるよ。最低だよ、そんなの。どんなブランドものの服を着ても耳垢なんて見えたらおしまいよ。女はいつも隅から隅まで百パーセント身ぎれいにする事を三度の食事より優先しないと駄目よ」

 勝子のこごとは続いた。

「その座り方は何? スカートの中が見えるでしょ。女は何時でも足はぴったり付けてすわらなきゃ」

「無理よ。ずっと足は広げて座ってきたんだから」

 ひろみは膨れっ面をして反論した。

「自分の意向に反して手術されてしまったとか、甘えた気持ちが残っているからそんな言葉が出るんだよ。今この瞬間からそんな言い訳は許しません。今から自覚して、女として全てにおいて恥じない言動をとりなさい。わかったわね」

 ひろみは、何だか窮屈になってしまったな、と変化を感じながら、一方でほっとした気持ちを抱いていた。男のような言動をするのが不自然な事だとわかっていたし、かといって女言葉をしゃべるのも照れ臭かった。ここまで言い切ってくれれば、割り切って女として振るまえる。気持ちが楽になった。

 ひろみと勝子は夕暮れの新宿に繰り出した。勝子とゆっくりとデパートで服を見て回るのはひろみにとって始めての体験で、心がウキウキした。デパートでセールをしていた下着を三、四着買って、駅前の婦人服の店を見て回るうちに、派手な赤札がかかった店に入って普段着としてゆったりとしたミモレ丈の小さな花柄のスカートと、赤いカーディガンを買った。次の店ではカーキ色のやわらかなジャンパースカートと白と紺色のブラウスを買った。

「ワンピースって、体型がもろに出るし、着こなしは難しいのよ。普段はスカートとブラウスを中心に、組み合わせを考えて重ね着するのがコツね」

 ジュエリーショップに入って、小さなイミテーション・ルビーの装飾リングを買った。五ミリぐらいの小さな白いハートのついたイヤリングも選んだ。

「近頃はピアスの方がはやっているようだから、今はこのイヤリングだけにしとこうね。そのうちピアスになさい」

 バッグは小さめのテレフォンブラックの皮のバッグで、短い金色のチェーンがついたものをバーゲンで買った。靴はヒールのない黒のパンプスと、はやりのデザインのハイヒールのブルーのサンダルを買った。最後に利枝へのお返しにネックレスを買ってリボンのついた包装をしてもらった。

 二人は寿司屋に入って特上の盛り合わせと熱燗を一本注文した。

「わたしの娘の新しい人生に乾杯!」

 勝子は言って杯をぐっとあけた。二人でなんとなくおかしく思って笑いが止まらなくなった。ひろみは、とても幸せな気分になった。勝子はひろみに女らしい箸の持ち方、箸の置き方、徳利の持ち方、注ぎ方まで細かく教えた。ひろみは教えてもらうことが嬉しかった。母親と娘の関係がこんなに親密で心地よいものだとは知らなかった。母親と息子の関係はこんなに核心に触れたウェットな関係では無いし、父親と息子の関係は遥かに異質でドライなものだった。

「女どうしってどうしてこれ程すぐに近寄れるんだろう」

 ひろみは不思議に思うと同時に、男というもの全般に対する優越感を感じ始めていた。

「じゃあ、わたしはお前のアパートに泊まって明日帰るわ。衣類なんかも整理しとくから」

 ひろみを病院まで送って、勝子は去った。

 次の日、ひろみは白のブラウスとジャンパースカートの上に短いカーディガンを着て、踵の低いパンプスで病院を出て、一人で目黒の山崎整形に行った。昨日の勝子の言葉を聞いて、自分の特殊性に関する妙な意識はふっ切れていたので、男の目も気にならなくなっていた。

 ひろみは自分の身長が好きになっていた。男で百六十三センチの身長だと、できるだけ踵の高い靴を選んで、電車の中で立っている時もいつもピンと背筋を伸ばして、少しでも背が高くなるようにしていた。そうしていると、年輩の男性と比べて普通ぐらいの背の高さになれたし、女性と比べると、特に背の高い女性以外よりは背が高かった。踵の低いパンプスを履いて普通にゆったり立っていると、年輩の女性の大半よりは背が高く、同年齢の女性と比較するとほぼ平均ぐらいだ。男性は当然自分より大きく目の高さが違うところにあるが、もう別のカテゴリーの存在だから比較対象に入らない。今の自分はとても居心地がいい身長だった。

 山崎整形での手術は全身麻酔の状態で成功裡に行われた。ひろみは、前回の手術が、結果として劇的な重大さを持ちながら、麻酔で意識が無いうちに何の苦痛もなく、ひろみにとってはあっと言う間に行われてしまったので、手術台に乗ること自体に恐れは感じなかった。事実、麻酔から覚めるとベッドに横たわっていて、前回と同じように左腕の静脈に輸液のパイプが繋がっていた。

 顔中が火照るような感じがしたが、顔から喉にかけて包帯が巻かれていた。前回と違って個室ではなくカーテンで仕切られた六人部屋の真ん中のベッドで、周囲のベッドには他の入院患者や付添人が居た。付添人を含めて全員女性なので、ひろみはほっとした。

 翌々日、包帯が解かれ、検査と患部の消毒が行われた。大月病院から師長の洋子が来てくれていて、同席していた。

「先日の打ち合わせの通りのイメージで、手術は成功でした。数日すれば腫れも引くし、来週抜糸して二、三ヶ月経てば、縫合の後もわからなくなるでしょう。本来、額の縫合部分以外の包帯は不要ですが、今日大月病院に移動する際の保護のため、包帯をしておきます」

 看護師が包帯に取りかかる前にひろみは鏡に映った自分の新しい顔を数秒間見る機会があった。ひどい顔だった。顔中至る所が腫れ上がって所々が赤くなっていた。手術前の自分の顔とどの点がどう違うというような比較はできなかった。全く似つかない顔で、女以外ではあり得ない、豚みたいな顔だと思った。

「とても醜い、太った田舎のおばさんの顔だ」

 ひろみは、そう思って、言葉を失った。

「喉仏さえ取れば不便は無かったのに……。欲を言うにしても、顎を小さくするだけで十分だったのに……。自分は十分きれいで自分の顔が好きだったのに、欲張った為にこんな醜い顔になってしまった。ばちが当たったんだ……」

 ひろみは呆然として、しばらくして涙が出てきたが、涙は包帯にしみこんだので、誰にも気づかれなかった。

 洋子とひろみはタクシーで大月病院に帰った。自分の個室に帰ると、昔からの自分の家に帰ったようで泣きたいくらいうれしかった。ひろみは急いでネグリジェに着代えると、まだ昼前なのにベッドに入って眠りについた。

 午後、院長がひろみの病室に来た。

「どうだね、新しい顔は気に入ったかね」

「腫れ上がってひどい顔なんです。包帯は当分取らないで下さい。だれにもこんな顔見られたくないの。お願いです」

 ひろみが目に涙をためて真剣に頼んだので、院長はひろみの我侭を許すことにした。

「わかったよ。でも、若いから腫れなんて後二、三日で引くさ。心配する必要は全く無いんだよ」

「もし母から電話があったら、来ないように行っておいて下さい」

「困った娘だね」

 院長は笑いながら病室から出ていった。

 翌日、痔の手術が行われた。手術は成功だった。ひろみの腕には再び輸液の針が刺され、ひろみは重病人のように一日中ベッドに横たわっていた。

 二、三日すると顔の腫れもすっかり引いたが、院長のはからいで更に三日間、顔の整形手術の日から数えると一週間の間、頭から喉にかけて毎日新しい包帯が取り替えられた。一週間目の日に抜糸が行われた。山崎整形のカルテに基づいて、大月院長がひろみの個室のベッドの上で抜糸を行った。

「いくら我侭娘でも、もう包帯を巻いてあげるわけにはいかないよ。これで完治だ。明後日の木曜日の午後に痔の抜糸をするが、君の体はその時点で直すべき部分が無くなる。日曜日にご両親が私の自宅に来られるから、君もそれまでに家に移りなさい。土曜の夕方にでも家内を迎えによこそう。それまでの間、最後の入院生活を楽しみなさい。先日のお母様のプランの通りにやるとすれば、厳しい躾の毎日が始まりそうだからね」

 院長は悪戯っぽく笑った。

「それにしても、美人になったね。わたしもこんな魅力的な若い女性が毎日家にいるようになると思うとドキドキするよ。家内がやきもちを妬くかもしれないな」

「お世辞を言ってくれてありがとう」

 ひとりになって、ひろみは洗面所に行って鏡を見た。腫れはすっかり引いて、すっきりした顔になっていた。ひろみが二十一年間慣れ親しんだ顔と比べて顔の下半分が極端に小さくなり、額が恥ずかしいくらい丸くて広く、目はくっきりとした二重瞼で目尻は長く、つり上がっていた。頬骨も高く、鼻も細くつんとしている。

「ちょっと生意気な、冷たい感じの女だ」

 ひろみは久しぶりに男の目で、冷静に鏡の中の顔を評価した。ひろみが手本にしていた、雑誌の「きれいになりたい」に出てくるモデルの顔と良く似た傾向の顔だった。自分が今までに見たどんな女性の顔と比べても少なくとも同じぐらい女性的で、たとえどんなに精巧な扮装をしても男性に化けることは不可能と思われた。ひろみは女性として、鏡の中の顔は結構美人だが、好きな顔とは言い切れない気がしていた。

「この顔に馴染むのはちょっと時間がかかりそうだわ。でも、お化粧しなくても見られるタイプの顔だから楽かな」

 ひろみは今度の整形手術の後の精神的苦痛の結果、化粧する事自体の歓びを失っていた。それに、この顔は入院患者でいる限り化粧する必要が無い顔だと思った。ひろみは久しぶりにブラをつけて、先日山崎整形に行ったときと同じ、白のブラウスとロングのゆったりしたジャンパースカートと短い赤いカーディガンに着替えて、白いソックスにスリッパを履いて外来の食堂にコーヒーを飲みに行った。食堂の入口の鏡に映った自分の姿は、カジュアルに装った若い女性で、ショートカットと豊かな胸が奇妙なバランスを保った、男から見ると立ち入りがたいような女っぽさを感じさせる顔つきをしていた。今まで鏡を見るときは女であることを疑われる点は無いか、いつも恐る恐る観察する癖がついていたが、ひろみは鏡を見ながら自分で自分がおかしくなった。

 病室に帰る手前の廊下で、ひろみは自分の病室から出て来たばかりの利枝に出会った。ひろみはにっこりと微笑みかけたが、利枝はかすかに微笑んで会釈をしてすれちがってしまった。

「ちょっと利枝、何してるのよ」

 ひろみは利枝の背中に呼びかけた。

「えっ。まさか、ひろみ、あなたなの?!」

 利枝は目を丸くしてひろみに駆け寄り、ひろみの両肩に手を置いて、ひろみの顔をまじまじと見た。

「そんなに変わっちゃったかしら?」

 ひろみは自分でも分かっていながら、やや自慢げに言って、二人して病室に入った。

「そりゃあ顔は全然違うし、今でも同一人物とは信じられないわ。目の感じが全く違うでしょ。それに、見たこともない服を着てるんだもの。自分で買いに行ったの?」

「家に連絡してなかったので、母が心配して見に来て、それで何もかもばれちゃったの」

「それでどうだったの? お母さんは腰を抜かさなかった? 怒ってたでしょ」

「始めは怒ったけど、わたしが冷静に説明するとすっかり解ってくれて、一緒に洋服を買いに行って、その後お寿司を食べながら乾杯したの。そうそう、利枝にワンピースとかのお礼にといって母がプレゼントを買ってくれたのよ」

 ひろみはネックレスの入った包みを渡した。

「見た感じよりはずっと安いから心配しないでね」

「わあ。どうもありがとう。それにしても、物わかりがいいお母さんね。うちの母なら取り乱して寝込んでしまうわ。ひろみも冷静に説得できるなんて、さすがね。見直しちゃう」

 ひろみは、利枝が自分の言葉通りに信じてくれたので、ちょっと後ろめたい気もしたが、そのままの説明にしておこうと思った。

「それに、少しシャクだけど、すごく美人になったわね。前と違って目の感じがきつくなったし、つんとした感じの鼻になったから、何時も微笑みを絶やさないようにしなさい。そうしないと同姓に敵をつくるわよ、この顔」

 ひろみは自分の感じていた、自分の顔の嫌いな点をずばり指摘されたので、一瞬表情が暗くなってしまった。

「わたしは一生ひろみの一番の親友で、ひろみの中身はわかっているから、そんな心配はないのよ。もし腹を立てていたらごめんね。あくまでひろみの為の助言と思って聞いてね。いわゆる男好きのする顔っていうのかしら、同性から見ると、あなたの顔は回りの男の関心を取ってしまうように思われて、敵意を持たれ易いかもしれないから、なおさら何時も優しくにっこりしていた方が良いと思うわ」

 利枝は静かな口調で心から言った。

「ありがとう、できるかどうか解らないけど気をつけるわ」

「今、ノーメークでしょ。派手な顔だからお化粧の手間が省けて便利ね」

「もう、利枝はいつも口が悪いんだから。でも、抜糸したばかりだからお化粧はできないの」

 ひろみは快活に言って、利枝と目を見合わせて嬉しそうに笑った。

「ところで幕張のコンベンションと地方巡業はどうだったの」

「その話をしに来たんだから。外でお食事をしながらにしましょう。約束通り、わたしのおごりよ」

 二人は新宿に出て、スパゲッティ専門のレストランに入った。ひろみは「海産物のスープとフェタチーニ」を注文し、利枝も同じものを注文した。

「木曜日に痔の抜糸が済むまでお酒は駄目って言われてるの」

 利枝の注文した白のグラスワインを飲みながらひろみは言った。

「院長先生に知られたら怒られるわ」

「ひと口だけにしときなさい。残りはわたしが飲むから」

 そのままにすると、ひろみがワインを全部飲んでしまうことを利枝は分かっていたので、残りのワインを取り上げた。

「幕張では一日中立ちっぱなしで忙しかったけど、充実してたわ。アメリカの親会社からエリアディレクターが来ていたんだけど、JAVAに関する質問はわたしが自分で殆どこなせたし、わたしが答えられない質問はどちらかというとブラックボックスの部分なのでエリアディレクターも言葉を選んで答えていたみたい。バイト先の会社の人もJAVAに関しては、はっきり言ってわたしより下だし、すっかりエリアディレクターから気に入られちゃった」

 利枝はここまで一気に話すと、海産物のスープの中からムール貝を取り出して口に入れた。

「大阪と福岡で得意先相手にミニセミナーとパーティーをやって、わたしは雑用係の予定だったのに、エリアディレクターの命令で、開発中のJAVAの新製品の説明役として起用されたり、パーティーも雑用係じゃなくって会社の費用でカクテルドレスの貸衣装を着て、エリアディレクターのエスコートでパーティの主役の一人になったのよ」

「話半分に聞いても相当なものね」

「パーティも含めて全部時間給でバイト代が付いた上に、出張日当ももらえたし、会社のお金でおいしいものを食べられて最高だったわ。エリアディレクターは四十代前半で、背が高くて結構いい男なのよ。外人の男性って女の扱いが上手いし優しいでしょ、ホテルのバーで二人でお酒を飲んでいても何かにつけて気をつけてくれてすっかりいい気持ちだった」

「ま、まさか、そのまま彼の部屋に行ったの?」

「うふふ。まあね。と言うのは嘘で、誘われたけど行かなかった。ひろみなら行ったでしょうね」

「バーカ」

 幕張と地方巡業の合計七日間で、利枝は時間給三千円で計算して出張手当を含めて二十万円のバイト代を稼いだとの事だった。利枝は去年アルバイトとして採用されたが、四月からフレックスタイムの契約社員に格上げされていた。ひと月あたり最低三十時間、都合の良いときに出社すると時間給三千円で計算される。健康保険はつかないが、七月と十二月には所定の月数分のボーナスも支給される。だから利枝はいつも金回りが良かった。

「来年の四月に正社員として入社すると、給与は年俸制になるんだけど、今回エリアディレクターから高い評価をもらったから、年俸も思っていたより高いレベルからスタートできるかもしれないの」

「いいわね。能力を生かせる仕事ができて。うらやましいわ。わたしなんか就職できるかどうかさえも分からないのに」

 ひろみは利枝が心からうらやましかった。

「退院したら就職活動を始めれば良いわ。今のバイト先のゲームソフトの会社はどうなの?」

「あそこは割合封建的だし、プログラマーは男性ばかりで、エッチなゲームが主力だから女の子をセックスの対象として見るような風潮があるの。今思い出すとぞっとするわ。それにわたしバイトを無断で休んだから二度と雇ってもらえないと思う」

「ゲームのプログラムにこだわらなくても、きっとひろみの能力を生かせるような勤め先は見つかるわよ」

 ひろみは大月院長の養女の話について、利枝には言い出せなかったが、翌週から多分大月家に下宿させてもらうことになると言っておいた。

「よかったわね。一人で暮らすより、家庭的な環境で女のたしなみを自然に身につけられるから、とてもいいことだと思うわ」

「女のたしなみってなによ」

「女なんだからどうしなさいとか、しょっちゅう一挙手一投足女だからと言って口出しされること、これすなわち女のたしなみってとこかな。来週から解るから楽しみにしときなさい」

 ひろみは新宿駅で利枝と別れて大月病院に帰った。時計は午後九時を指そうとしていた。

 土曜日の夕方、大月院長の奥さんがひろみの病室を訪れた。

「大月佐和子です。ひろみちゃんね。どうぞよろしく」

 佐和子は明るいグレーのツーピースを普段着のように着こなし、真珠のネックレスを自然なワンポイントとして身に着けていた。四十一歳と聞いていたが、三十代半ばといっても不自然では無いほど若々しかった。佐和子は七、八センチのグレーのハイヒールを履いていて、ぺしゃんこのパンプスを履いたひろみより背が高かった。

「山下ひろみです。どうぞよろしくお願いします」

 ひろみは深々と頭を下げて挨拶をした。

「支度はできているの?」

「はい。荷物といっても、このバッグひとつだけですから。アパートに残っている荷物は月末までに取りに行くか、整理するかしたいと思います」

「じゃあ、行きましょう」

 佐和子とひろみはタクシーを拾った。院長の自宅は荻窪の閑静な一角にあった。傾斜のある角地で、角の部分は石垣で上げ地されている。玄関には蛇腹の柵があり、二台分の駐車場と自転車が置けるスペースの横に、二段の階段があって玄関のドアにつながっていた。百坪の敷地で、家の奥に小さな庭があり道路に面する側は植裁で隠されていた。軽量コンクリート造りの二階建てで、一階は広いダイニングキッチンと和風の客室があり、二階には十五畳の夫婦の寝室と、八畳と十畳の洋室があった。風呂とトイレは一階と二階の両方にあった。

 ひろみは二階の道路に面した側の十畳の洋室に通された。

「ここが今日からあなたの部屋よ」

 窓には白いレースとピンクの厚手のカーテンが二重にかかっており、その下にはスチールの勉強机と、それに並んでマホガニーの五段の本棚が立っていた。入り口のドアの右側にグレーのベッドがあり、赤っぽいピンクのベッドカバーがかかっていて、枕の位置に大きな熊のぬいぐるみが置いてあった。

「うわあ、かわいい。こんなの欲しかったんです。うれしいです」

「二十一歳の女の子にはちょっとおかしいんじゃないかって思ったんだけど、主人が嬉しそうに買ってきてね。あなたが気に入ったことを知ったら主人が喜ぶわ」

 ベッドの左には白い三面鏡があった。

「こんな可愛い部屋に住めるなんて夢みたいです」

 ひろみは心から嬉しくて仕方がなかった。

「主人は医師会の会合で今晩は遅いから、お夕飯は私達二人だけよ。お寿司でも取りましょうか?」

 佐和子は寿司屋の電話番号を空んじていて、特上のちらしを二人前注文した。

「わたし、お茶入れます」

 ひろみは湯を沸かそうとやかんを探した。

「緊張しなくていいのよ。うちは出っぱなしの旦那がひとりいるだけで、大した仕事は無いわ。今まで一人でやっても暇だったのに、今日からあなたが手伝ってくれるんだから、なまけ癖がつきそう。気を遣う必要なんて全く無いのよ、お友達になってね」

 ひろみは母親の思惑がすっかり外れそうなので安心した。佐和子は電気ポットからきゅうすにお湯を入れた。ちらし寿司の配達が来て、二人は仲良く向かい合ってゆっくりと寿司を食べた。ひろみも徐々に話しやすくなって、痔の話から始まって、運命の手術のこと、脱毛の体験、山崎整形のシミュレーション画面のことや、顔の整形手術の後の絶望の話、利枝からもらったワンピースに関するエピソードや、母親が突然部屋に現れて血相を変えた話とか、勝子が院長に頼んだ女の躾の話に到るまで、しゃべりまくった。佐和子もひろみに心を許して、高校時代からの友達の事とか院長との見合いの時の逸話にまで話がはずんだ。

 気がついた時には時計は午後十時二十五分を指していた。

「主人が二次会を終わって帰宅するのが、十二時プラスマイナス十分だから、そろそろお風呂に入った方が良いわね。あなた、先に入りなさい」

 佐和子に促されて、ひろみは二階の浴室に入った。二階の浴室はジャグジになっていて、ひろみが手足を広げて大の字になれるぐらいの広さがあった。洗い場も広く、大理石のタイルになっている。

「豪華な作りだわ。こういうのを本当の贅沢って言うのね」

 ひろみは先日母に言われた通り、耳たぶから足の指一本一本まで丁寧に洗った。シャンプーを落としてリンスを付けているとき、浴室に佐和子が入ってきた。

「どうしようかなって思ったけど、来ちゃった。あなたとは今日から毎日二十四時間、同胞として生活するんだから、裸のお付き合いをしたいの」

「同胞」という言葉を歌劇のように言ったので、ひろみはおかしくなって笑った。

 佐和子はひろみに向かい合って座り、ひろみのシャンプーを手伝った。ひろみはスポンジにボディーソープをたっぷりしみ込ませて、佐和子の背筋を丁寧にこすり、首筋から肩をマッサージするように洗った後、背中と腰をこすった。

「前の方も洗って頂戴」

 佐和子に言われて、ひろみは恥ずかしさを感じながら佐和子の胸を優しく洗った。

「あなたも洗ってあげる」

 佐和子が言って、ひろみの手からスポンジを取り上げた。

「わたし、もう洗い終わったんです」

 佐和子はひろみの制止を振り切って、ひろみの胸を泡でいっぱいにして両手で揉むように洗った。そのまま手をひろみの陰部に走らせてひろみの右斜め後ろから中指で押さえるように洗った。中指の第二関節がクリトリスに何度か当たって、その度にひろみの横腹から乳房にかけての筋肉が縮んで揺れた。

「はちきれるような若々しい身体ね。手術で作ったとは思えないけれど、もしそうだとしたら天才の芸術作品だわ」

 ひろみは佐和子の手が起こした快い躍動の余韻を体いっぱいに感じながら、言い訳した。

「ホルモンの投与を続けると、体脂肪の分布が腰からお尻に移って、もっと女らしい身体つきになると院長先生がおっしゃってました」

「今のままで女らしすぎるぐらいよ。わたしもあなたみたいな若い身体を持っていたことがあったのかしら」

「奥様、優しいわ。それに、おきれいです。わたし、奥様のこと大好き」

「わたしもひろみのこと大好きよ。でも奥様っていうのはやめて佐和子と呼んで」

「呼び捨てには出来ませんから、佐和子さんって呼ばせて頂きますね」

「夕方始めて会ったとき、目の造りが冷淡な感じだったから少し心配していたの。中身はとても優しい子だとわかって嬉しいわ」

 佐和子とひろみは修学旅行の中学生同志のように、きゃっきゃ言いながら長風呂を楽しんだ。二人はバスタオルを胸に巻いて、リビングルームのソファにゆったり腰を下ろした。

「乾杯しようか、ひろみ」

「何にですか」

「そうね。今日は良い一日だったから、今日に乾杯しましょ」

「いいですね」

 ひろみは冷蔵庫からビールを二缶出して、一缶を佐和子に渡した。

「じゃあ、乾杯」

 二人がビールの缶を手に楽しそうに顔を上に向けた時、ガチャリと鍵を開ける音がして院長が帰ってきた。院長は目の置き場に困りながら言った。

「ただいま。もうとっくに寝てるかと思ったよ。ひろみさんは疲れてるだろうから」

「おかえりなさい。早かったのね。ひろみと一緒にお風呂から出たばかりよ。お風呂になさる?」

 佐和子の言葉をぽかんとした顔で聞いて院長は言った。

「夕方会ったばかりなのに随分仲良くなったんだな。安心したよ」

「素敵な広いお家で、夢みたいです」

「そうか。気に入ってくれて良かった」

 院長は言って、満足げにバスルームに向かった。

 翌朝、ひろみが目を覚ますと時計はもう午前十時を指そうとしていた。ひろみは急いで白いブラウスと小さい花柄のロングスカートとカーディガンに着替えて居間に降りていった。

「あまりにも気持ちよさそうに寝ているので起こすのをやめたんだけど、そろそろご両親がおいでになるから起こしに行こうかなと思っていた所よ」

 佐和子がにっこりして言った。

 ひろみは自分でパンをオーブントースターに入れて、マグカップに一杯ミルクティーを入れた。オーブントースターがチンという音を立てるのと同時に、玄関のチャイムが鳴って、ひろみの両親が来た。

 佐和子がひろみの両親をリビングのソファーに通して初対面の挨拶をしている間に、ひろみは来客用と思われるロイヤルコペンハーゲンのティーカップを四つ取り出し、紅茶を入れてソファーの四人に出した。ひろみは自分のマグカップを持ってソファーの四人に加わった。

「このティーカップ、素敵な色ですね」

 ひろみが、惚れ惚れしたように言った。

「この人が去年医師会のツアーで北欧旅行した時に買ってきたのよ。ひろみも同じティーカップを使えば良かったのに」

「でもわたし、今、紅茶を入れたばかりだったから」

 ひろみはマグカップのミルクティーをすすりながら言った。

「お前、自分の分だけ紅茶を入れたりしたのかい」

 母親の勝子がひろみを諌めた。

「わたし、十分前に起きたばかりなの。あ、パンが焼けたところだったのを忘れていたわ」

 ひろみは舌をぺろりと出して言った。

「なんてことをするんだい。お前は自分の立場がわかっているの? 嫁入りしたのと同じなんだから、一番に起きて掃除洗濯を済ませて院長先生と奥様の起きてこられるのをお迎えするのが当然だよ」

 勝子はひろみを睨んで叱りつけた。

「院長先生、奥様。やはり今日の所はひろみは家に連れて帰らせていただきます。この子は末っ子で甘やかされて育った上に、いい加減な性格で、とてもこのお家にお預けできるような状態ではありません。家で女のいろはを教えて、お茶お花、和裁洋裁、着付けに日本舞踊程度は習いに行かせて、一年ほど経ってからもう一度会っていただいて、その上で引き取っても良いと思われたらそうなすってください。このままでは母親として世間様に恥をさらすことになります」

 ひろみは大変な雲行きに、おろおろした。

 佐和子が助け船を出した。

「ひろみは本当に素直で良い子で、わたし昨日の夕方に始めて会ったばかりなのに、娘と言うよりは妹のような気がしています。急に環境が変わって、今は本人も見た目以上に大変だと思うんです。でも、わたしも何時までもお客さん扱いはしませんから、ご心配なさらないで下さい。びしびし厳しく躾けて、今度里帰りする時にはお母様をびっくりさせて差し上げますわ。ねえ、あなた」

「勿論です。落ちついたらお稽古ごとも和裁洋裁日本舞踊、おっしゃるものに全部通わせましょう。ここはどうか私どもにお任せ頂けませんか?」

 院長が確信を持った口調で言った。

「そうですか……そこまで言って頂いて恐縮致します。でも、今度一回でも家事をなまけたら本当に追い返して下さい」

 勝子は不満そうな目をしながらそう言った。

 ひろみはほっと胸をなで下ろして、
「この場さえ乗り切れば何とかなる」
と思った。

 話が弾んで、あっと言う間に時間が過ぎた。佐和子が前日に手配しておいた寿司の豪華な盛り合わせが配達され、ひろみはお茶を入れたり取り皿を出したり、かいがいしく動き回った。ひろみが佐和子のことを「佐和子さん」と呼んだときに、勝子の逆鱗に触れてまた怪しい雲行きになりかけたが、佐和子の弁明で何とか収まった。院長のことは「パパ」と呼ぶ事が佐和子の提案で決まった。ひろみの父親は相槌を打ったり、聞かれたことに言葉少なく答えていたが、五人の中で一人緊張した表情が拭いきれなかった。時計が四時を回って、ひろみが両親に家の中を案内して回った。二十秒間ほどひろみと父親が廊下で二人になった時、父親の表情がひろみの心の奥を打った。ひろみは突然言いようのない激情に襲われて涙があふれてきた。

「ごめんなさい、お父さん。許して。ごめんなさい」

 ひろみは廊下の床に泣き伏せてしまった。父親は一瞬、ひきつったように立っていたが、スカートの上にぽつんと下を向いたひろみの頭を斜め上から見ているうちに、表情が和らいで、膝を折るとひろみの肩を右手でぽんぽんと軽くたたき、一人でリビングへと降りていった。

 間もなく、ひろみの両親は帰って行った。勝子は玄関のドアの陰でひろみの肩を引き寄せて、ひろみ以外の誰にも聞こえないように言った。

「この場さえ乗り切ったら後は何とかなると思っていたでしょうけど、絶対に駄目よ。一生懸命お仕えして、気に入って頂くのよ。これから将来あなたがどうなるか分からないけれど、あなたにはお二人が頼りなんだからね。頑張るのよ」

 ひろみは
「うん」
とうなずいて、去っていく母を名残惜しそうに見送った。

第二部 広海の場合

第一章 ひろみと広海

「今日が最後の夜なんだ……」

 その日の午後、四人部屋から個室に移された山下広海は、消灯後の病室で最後の夜をひとりで過ごしていた。カーテンの間から入ってくる僅かな月明かりが天井の凹凸を不気味に際立たせ、広海の不安を増幅した。

 同室の高齢男性患者三人に別れを告げて四人部屋を出た時、二度と男子の病室には帰れなくなる自分の運命をひしひしと実感した。

 そんな広海の不安を看護師が察知して言った。

「明日の手術が終わったら個室に戻るけど、数日したらまた四人部屋に移ることになるわ。勿論、四人部屋と言っても別の世界だけど」

 広海は天井の陰影を見ていると焦燥感が高まって、ブルブルっと頭を横に振って目を閉じた。

「とうとうその日が来てしまった。明日の午後、僕は女になるのか……」

 広海が子供の時からずっと望んでいたことが、ついに明日実現する。父母と姉が外出している日に、姉が学校から帰るまでの一時間ほどの間に姉の制服のスカートをはいて自分を慰めた中学一年のころの思い出が頭に浮かんできた。

 中学になって髭がうっすらと生え、声変わりし始めた時、広海は自分の運命に絶望し、この世から消えてしまいたいと思った。毎晩、ベッドの横に跪いて手を組んで神様に祈った。

「どうか僕を早く女の子にしてください」

 どの神様に祈っているのか、広海は特定していなかったが、とにかく全能の神に心からの祈りをささげ続けた。でも、神様が広海の祈りを本気で取り上げてくれることはなかった。

 いや、少しは祈りが届いたのかもしれない。広海の身長は両親の期待に反して中学二年ごろで頭打ちになり、高校三年になっても百六十三センチしかなかった。細身でしなやかな、体毛の少ない身体と、母親似の女性的な顔は、神様が可能な範囲で広海の願いに配慮した結果なのかも知れなかった。

 大学の合格発表があった日に広海はひとつの結論に辿り着いた。
「女になりたければ自分の力でなりなさい、というのが神様の答えなんだ」

 静岡出身の広海は東京の大学に進み、アパートでの一人暮らしが始まった。

 広海は一年の春からアルバイトに精を出して、女になるためのお金を貯めた。夏休みも冬休みも実家には少し顔を出した程度で、東京でアルバイトに励んだ。

 二年が始まる前の春休みには帰省したが、二年の夏休みは両親や姉の前に姿を現すことができない身体になってしまっていた。インターネットでインドの医薬品業者から女性ホルモンを購入し、一年の夏から飲み始めていたので、二年の五月にTシャツを着始めるころにはBカップになった胸を隠すことは不可能になっていた。

 髪も肩まで伸び、女性ホルモンで丸みを帯びた広海の身体は、女にしか見えなくなっていた。大規模な私立大学なので広海の性別について正確に認識している学生はごく一握りだった。それ以外の人から見ると、広海はボーイッシュな服装が好きな女子学生と認識されることが多かった。

 親しい友人も、広海はいずれ性転換するのだろうと勝手に推測していた。

 スカートをはかなくても女性に見えるようになってしまったのは、広海にとって非常に不便なことだった。男子トイレに入ろうとすると「ここは男子トイレだよ」と指摘されるか、変態を見るような目つきで顔をしかめられた。かといって女子トイレに入ることは、万一見とがめられると犯罪者扱いされかねないので、とても踏み切れなかった。

 バイト先のファミレスでは女性と思われているのでトイレの心配はない。唯一性別を把握している店長から初日に
「君に男性の格好でフロアに立たれると変態と思われるから」
と言われて女子の制服を渡され、男性であることを他の従業員には隠すようにと命令された。

 大学では出来るだけ水分を取らないようにして、あまりトイレに行かなくて済む体質になってきた。でも、気温が下がる日に薄着で登校してしまった時には、どうしてもトイレが我慢できなくなり、「おい、女子トイレはあっちだよ」という声を背中に受けながら男子トイレの個室に走り込んだこともある。

 夏には二十歳になり、必要な額の貯金もたまったので、以前性転換手術に定評のある女子医大のHPに出ているドクターのエッセイで読んだ大月病院の門をくぐったのだった。

 明日からはトイレで悩む心配はない。女子トイレにしか行けなくなるのだから。

 ベッドの中で、パンツを下にずらし、明日消えてなくなるはずの小片を握った。

「もうオナニーはできなくなるんだ」

 広海が今年射精したのは一回だけだ。アパートの部屋でエッチな漫画を読んでいて、突然股間が固くなった時に、必死でしごき、射精にこぎつけることができた。高校生の頃はすこしエッチな妄想をするだけで簡単に射精できたのだが、女性ホルモンを始めてしばらくすると、固くなってもすぐ萎えてしまうようになり、だんだん射精が困難になった。

 広海はベッドの中で、考えられる限り最もエッチな想像をして、必死で股間を固くしようと努力を繰り返した。広海にとって最もエッチな想像とはある日突然、
「今日から女の子になりなさい」
と言われて女子の制服で学校に行かされ、背の高い男子から腕ずくで抱かれてキスされるというものだった。

 女性ホルモンを始めて、すぐ萎えるようになっても、そのパターンの空想をすると、なんとか射精まで持つことがあった。

 でも、今夜に限っては、そんな最もエッチな空想をしながらしごいても、広海の手の中のものはすぐにフニャフニャになってしまった。明日女性になるという厳然とした事実が頭の中を占拠しており、スカートをはかされて学校に行かされるというシチュエーションは、今となっては妄想ですらなく、なんの興奮ももたらさない当たり前のことなのだ。

 最後の思い出の為に、時々少しだけ固くなりかける小片と必死で格闘したが、一時間余り無駄な努力をつづけた結果、皮膚がヒリヒリしてきて、結局オナニーは諦めるほかなかった。既に広海は男性とは言えない身体になってしまっていた。

 翌朝、手術の日は、六時半に目が覚め、回診の後で看護師に股間を完全に剃毛された。

「この要らないものは午後にはなくなって真っ平になるわよ。よかったわね」

 広海の小さな芋虫を指先でつまみながら看護師が冗談っぽく言った。

「手術の前にメールをチェックしておきたいんですけど、スマホの電池が切れちゃって、ネットにつながったパソコンで使わせてもらえるものはないですか?」

「ええと、隣の部屋のパソコンなら使っていいわよ。あのパソコンならインターネットなら見られるけどメールはどうかな」

「普段はGMAILをスマホで使っているので、パソコンでウェブメールを見るから大丈夫です」

「ああそうなの。じゃあ、こちらにいらっしゃい。この部屋を次の患者さんの為に準備できるから丁度都合がいいわ」
と言って、看護師は広海を隣の部屋に通した。

 手術は二時半からなので、自分が男性でいられるのはあと一時間半しかない。男性としてメールを見るのは、これが最後になるんだなと思うと気が焦った。

 ウェブメールを開くと母からメールが入っていた。

「来週の土曜日に東京で同窓会があるので、金曜日の夜から日曜日まで広海のアパートに泊めてね」

 大月先生から、退院のめどは手術後十日目と聞いていたから、来週の日曜日ごろの退院ということになる。

「ごめん、来週は金曜の夜から部活で合宿に行くからアパートにはいません」
と返信しておいた。

 両親と姉に手術のことは知らせていない。広海が子供のころから抱えていた「病気」については、両親も姉も想像すらしていないだろう。広海は手術して一段楽してから、女性になった姿を両親と姉に見せるために帰省するつもりだった。

 広海の入院中に母にアパートの部屋を勝手に使ってもらうという選択肢もあるが、広海の部屋にはファミレスの制服がかかっている。

 ファミレスの制服はウォッシャブルのワンピースが二着支給されていて、自分で洗濯するようになっていた。

 母が来ることが分かっていれば部屋を片付けておいたのだが、もう間に合わない。母は部屋にファミレスのワンピースが掛かっているのを見たら、驚き、心配するに違いない。広海が着るものとは思わず、同棲している女性の服だと思いこむ可能性が高い。

「でも、女性になって帰省する時には、お母さんの驚きはその程度じゃすまないだろうな……」

 両親には、手術する前に打ち明けておくべきだった、と後悔の気持ちが高まってきた。勿論、両親は「とんでもない」と言って、手術を断固阻止しようとするだろう。膨らんでしまった胸を手術で平らにしろと言い出すかもしれない。そうなると、自分は一生苦しみ続けることになる。やはり、事前に相談するという選択肢はありえなかったのだ。

 母からメールの返信が届いた。

「金曜の晩からいないのね。久しぶりに顔を見たいから木曜日に行くわ。よろしく」

 困った。自分の方からも、木曜日にもいないという返信をしなくちゃならない。でも、母は敏感だから、様子がおかしいことを察知するに違いない。どうしよう。

 焦る気持ちが高まってくるにつれて、両親に秘密で手術を受けることに対する後悔の念が募った。そうだ、せめて「告知」しよう。手術のことを、とにかく事前に知らせておけば少しは罪も軽くなる。

 広海は母あてに「お父さんにも見せてください」と前置きして、長い返信を書いた。病院長をしている父は広海にとって怖い存在であり、こんなことに関して直接相談するのは無理だ。広海は母親へのメールに、子供の時から自分を苦しめてきた「病気」について詳しく説明し、アルバイトをしてお金を貯めて、今日、性転換手術を受けることになったということ、そして退院後できるだけ早く帰省してお詫びします、と結んだ。

 GMAILの送信ボタンを押して、すぐにウェブメールからログアウトした。このメールに対する母の返信は手術後にしか見る勇気がない。

「そうだ、手術の予習をしておこう」

 気を紛らわせようと自分に言い聞かせ、ユーチューブで性転換、去勢、膣形成などのキーワードで検索したところ、実際にメスを入れて手術する動画がいくつかヒットした。

 一番初めに見たのは、去勢手術の様子を記録した五分ほどの動画だった。陰嚢の裏側にメスを入れる生々しい様子を見て、吐き気を催し、同時に恐怖を覚えた。二本目の動画で膣形成のために穴を穿つ光景を見ると、寒気がして、全身がブルブル震えてきた。

「無理だ、こんな風に身体を切り刻まれるなんて耐えられない」

 声には出なかったが、広海の叫びは、全ての理性を押し潰すほどの叫びだった。母親の顔が頭に浮かび、広海は「逃げよう」と思い立った。広海の鞄は個室を出る際に看護師がこの部屋に持ってきていたので、広海は鞄から取り出したジャージに着替え、鞄を持って、廊下に人がいないのを確かめてから、非常口から外に走り出た。


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