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異世界への旅立ち:男女入れ替わり物語②

【内容紹介】もしある日突然、男女が逆になった異世界にワープしてしまったとしたら? 男性サラリーマンが秋田の山奥の野天風呂から突然異世界へとワープしてしまうという異世界TSF小説。

第一話 山中の野天風呂

 こんなことを言うと不謹慎だと思われるかもしれないが、ゴールデンウィーク前に新型コロナ肺炎の緊急事態宣言が出たのは僕にとってラッキーだった。

 勤務先の会社では緊急事態宣言に合わせて四月二十五日から当分の間は極力テレワークするようにとの社内通達が出た。何となく休暇を取りやすい雰囲気が感じられたので、僕は思い切って四月二十七日の火曜日からの有給休暇を申請し、五月五日まで九連休を取って東北旅行に行くことにした。

 僕は旅行が趣味で、連休が取得できない場合も頻繁に小旅行に出かけている。金曜の夜に家を出て日曜の夜に帰宅するという二泊三日の旅行だ。基本的にひとり旅の車中泊だから、思い立ったら即実行できる。

 去年の四月に就職祝いとして父が買ってくれた中古のスズキ・エブリイ・ワゴンが僕の愛車だ。エブリイは後部座席を倒してマットを敷くと全長百八十四センチのベッド・スペースが確保できる。敷布団として封筒型の寝袋を敷き、更にその上に置いた寝袋の中に寝ると、身長百七十二センチの僕は自宅のベッドと同様に快適な睡眠が取れる。標高の高い場所や冬場の車中泊の場合は更に寝袋の上に毛布を掛けて寒さを防ぐ。

 アウトドア用の調理器具、ペットボトル入りの飲料水などはエブリイの中に常備しているので、特に準備をしなくてもいつでも出発OKだ。

 テレワークでない通常勤務時の場合、金曜日の夜に会社から帰ってシャワーを浴びてから午後八時ごろに家を出ると、関東甲信越地方の目的地なら夜のうちに到着できる。土、日と遊んで日曜日の夜に帰宅すれば月曜日は通常通り出勤できるので、旅行シーズンには毎週のように二泊三日の旅行を楽しんでいる。

 四月二十六日の月曜日、午後五時半きっかりにテレワークを終えてシャワーを浴び、午後六時半に家を出た。吉野家でねぎラー油牛丼の大盛を食べ、市川北ICで東京外環自動車道に乗って川口JCTから東北自動車道へと進んだ。仙台の手前の菅生すごうパーキングエリアで車中泊をして、明朝盛岡ICを出て国道46号を田沢湖方面へと進むという計画を立てていた。

 長距離トラックはPAでエンジンをアイドリングしたまま仮眠をとる運転手が多いので、僕たち車中泊トラベラーはSA・PAでの車中泊には耳栓が必要な場合もある。基本的に高速道路のSA・PAでの車中泊は避けたいところだがETC割引を得るためには午前零時から午前四時までの深夜時間帯をまたいで高速道路を走行する必要があるのでPAで宿泊するのが経済的だ。

 菅生PAに到着したのは午後十一時だった。トイレに行くために車を出たところ、さすが東北だけあって肌寒かった。東の空に月が出ていた。月ごよみによると翌二十七日の十二時三十三分に満月がピークを迎えることになっているので、ほぼ新円に近い月だった。

 PAのトイレで歯を磨き、エブリイに戻って寝袋にもぐりこんだが、予想以上に寒かったので寝袋の上に毛布をかけた。運転の疲れが出て来てあっという間に眠りに落ちた。

 翌朝の午前六時に朝の光で目が覚めた。車外に出ると空がハッとするほど青かった。十五分ほどで身支度を整えてエブリイを発車させた。一路、東北自動車道を北上し、午前九時に盛岡ICを出てガソリンを満タンにしてから国道46号を田沢湖方面へと車を進めた。

 まず目指すのは雫石しずくいしにある有名な一本桜だ。ガソリンスタンドを出てから二十分で小岩井農場の敷地内に入った。今年は桜の開花が早く満開を過ぎたところだったが、ソメイヨシノの並木道を走っていると、東北に来たのだという喜びがジワジワと湧き上がった。一本桜の駐車場には既に先客が大勢来ていた。雪に彩られた岩木山をバックに立つ一本桜は、テレビや写真で見るよりも遥かに美しかった。

 早々と撮影を終えてエブリイに乗り、田沢湖高原へと車を進めた。今回の東北旅行の最大の目的は、乳頭山にゅうとうさんの山中にある「一本松たっこの湯」と呼ばれる野天の秘湯に入ることだ。

 旅程としては雫石から田沢湖方面の観光をして明日か明後日に一本松たっこの湯を訪れるのが順当なところだが、今週の東北は雨がちであり、天気予報が晴れになっているのは今日だけだった。

 僕は月の満ち欠けには特別な力があると信じており、満月の日に神秘的な秘湯に入りたかった。乳頭山で満月がピークを迎える瞬間は今日正午過ぎの十二時三十三分であり、その瞬間を野湯で迎えようと思って雫石から乳頭山の登山口へと直行した。

 乳頭温泉郷の北東端にある黒湯温泉の駐車場に車を泊め、リュックを背負って乳頭山の登山道に入った。スマホアプリの山岳地図を頼りに先達川せんだちがわ沿いの登山道を進んだ。十分ほど登ると登山道が雪に覆われた部分が多くなり、アイゼンを持ってこなかったことを後悔しながら雪上を進んだ。標高九百メートルを超えたあたりからは雪道とそうでない部分が半々ぐらいになり、不安を感じながら登り続けた。

 先達川の左側の登山道が途切れ、倒木の上を渡渉して更に登って行くと、ほどなく木の板に白ペンキで「一本松」と書かれた道標を見つけた。

――あった! 

 登山道から二十メートルほど入った場所に岩で囲まれた湯だまりがあった。直径が三~五メートルほどの岩風呂だ。これが野天の秘湯「一本松たっこの湯」だ! 登山を開始してから四十分が経過していた。スマホの高度計は九百四十メートルを指している。

 はやる気持ちを抑えながら岩風呂に近づき、湯の中に手を入れた。

――熱い! 

 五十度、いや、六十度近くあるのではないだろうか? こんなに熱い湯には入れない。周囲を見回すと二十メートルほど奥の沢から岩風呂までホースが三本ほど伸びていた。ネットで見たブログには沢から水を引いてきて野湯の温度を下げると書いてあったが、ホースに水は流れていなかった。

 時計を見ると十一時半を過ぎてており、早くしないと満月のピークまでに入湯できないと焦りながら、ホースで水を引こうと悪戦苦闘した。沢の上部の岩の間にホースを差し込んで、そのホースの下端を野湯の下方まで持っていくと水が流れ始め、やっと取水に成功した。

 野湯が入れるほどの温度になったのは正午を十五分ほど過ぎた頃だった。岩の上に服を脱いで全裸になった。

 雪上を流れて来る微風は冷たいが、頭上からの陽射しと、野天風呂からの湯気のせいで寒さは感じない。

 恐らく周囲数百メートルに人は居ない。この大自然の中に居るのは鹿、熊、野兎、そして無数の鳥たち……。有給休暇を取って平日に来たのは正解だった。乳頭山の山開きはひと月ほど先だが、ゴールデンウィークに入ったら雪道を気にしない登山客が毎日何人もこの付近を通るはずだ。

 野湯に足を踏み入れると底から泥が湧きあがって真っ白になる。自宅のユニットバスに入浴剤を数十袋入れてもこれほどの濃さにはならないだろう。野湯を縁取る岩に頭をのせ、首まで浸かって真っ青な空を見上げる。天国に限りなく近い所に居ることを実感する。

――ああ、これ以上の贅沢があるだろうか……。

 頭の中を空っぽにして、大自然と、周囲の残雪からのオーラと、透明な香りがする空気を身体いっぱいに吸い込む。そして、地球と月の胎動が身体の奥深くに感じられるようになった。もうすぐ満月のピークを迎える……。月の出は六時間後だから、月の現在の位置は岩風呂の湯の底の方向になる。今ごろ地球の裏側の人たちの頭上に満月が輝いているはずだ。

 頭の中に浮かんだ黄白色の満月が段々大きくなる。どうしたのだろう――手足を動かそうとしても思い通りにならなくなった。自分が満月の支配下に置かれていることを実感した。

――気持ちいい……。

 身体が野天風呂の底の泥の中に引き込まれていくが、身動き一つ取れず、抵抗できない。口が湯の中に浸かる。鼻も湯面の中に入り、もうすぐ目も水没するだろう。このままだと泥の中に引き込まれる――それでもいいという気がした。

 その時、僕の体は強大な力で泥の中に引き込まれた。地底にある満月へと自分が吸い込まれていくのが分かった。頭の中が真っ白になった。

第二話 目覚め

 ホーホケキョ。ケキョケキョケキョケキョー。

 うぐいすの声がうるさくて目が覚めた。深みのある蒼い空が木々に縁どられている。僕は岩を枕に野天の湯に浸かったまま眠っていたようだ。

――そうだ、満月の力で泥の中に引き込まれたのだった……。

 しかし僕は溺れもせずにちゃんと生きている。あれは夢だったのだろうか? 空は晴れているが、真上にあったはずの太陽が視界から消えている。岩風呂の横を流れる川の下流の方向の木々の中に隠れたようだ。乳頭山頂方向の山肌は赤みを帯びた光を浴びている。僕はかなり長い間眠っていたようだ。

 体を起こし、近くの岩の上に置いたままだったスマホを手に取って時間を確かめた。午後四時を過ぎたところだった。熱かったはずの野湯は僕ごのみのぬるめの温泉になっていた。沢の水がホースから入り続けていたからだ。もし注水を続けていなかったら居眠りしている間にユデダコになっていたかもしれない。

 ぐずぐずしては居られない。ひとりで登山する場合に最も危険なのは陽が落ちることだ。僕はハンドタオルで体を拭いて、岩の上に置いてあったブリーフをはき、ジーパン、シャツ、ジャンパーを身に着けた。ソックスをはき、登山靴を履いてしっかりと靴ひもを結んだ。

 リュックの横ポケットから生茶なまちゃのボトルを引っぱり出してゴクゴクと飲んでから下山を開始した。来るときはYAMAPヤマップという登山アプリを頼りに雪道を登って来たが、勝手がわかっているので来た道を戻るのは楽だった。倒木の上を渡渉する箇所も、来た時には難所だと感じたが帰り道は何でもなかった。

 それでも、平坦な川沿いの道に出て黒湯温泉の施設が視界に入った時にはホッとした気持ちになった。

 黒湯温泉の裏門を通過して、温泉施設の間の道を駐車場へと向かった。

 木造の古い宿泊所から出てきた小柄なおばあさん二人とすれ違った時に奇妙な違和感を感じた。二人とも身長のわりに肩幅が広すぎる感じがした。

 次の角を曲がった所に立っていた若い三人組の女性も全員がいかつい体格だった。一人は女性としては背が高く僕と同じぐらいの身長だったがガッシリとして強そうな体格だった。残りの二人の女性は平均的な身長だが、やはり男性的な骨格で、しかも寸胴だった。

 どこかの大学の水泳部が卒業年度をまたぐ同窓会か何かをやっているのだろうか? しかし、先ほどすれ違ったおばあさんたちは茶褐色のロングスカート姿だったが、この三人は女子旅ファッションと言うか、女性雑誌から抜け出したような服を着ている。

「お食事の前にお風呂に入りましょうよ」

「そうね、行きましょう」

 彼女たちの低い声を聞いて冷や汗が出た。

――キモッ、こいつらはオカマだ! 

 一見、顔はきれいで身のこなしも女性らしい感じだが、肩幅の広さは隠せない。三人とも肩や腕に筋肉はついていないのにこれほど肩幅が広いということは、女子水泳選手の肩幅の広さとはちょっと違う。生物学的分類上、彼女たちは男性に違いない。

 先ほどの二人のおばあさんもそうなのだろうか……。

 もしニューハーフとかオカマの全国大会か何かが進行中だとすれば、関わりたくないと思った。

 施設の中を小走りで通り抜け、駐車場に出るとエブリイを目指して走った。その間、誰とも目を合わせないように出来る限り目を伏せていたが、女性たちの――というよりは女物の服を着ている人たちの大半が男性的な骨格をしているということを肌身に感じた。

 エブリイの運転席に座るとまずドアをロックした。これでオカマに襲われることはないと思い、ホッとした気持ちで車の外を観察した。駐車場に人はまばらだったが、到着したばかりの車から三、四十代の夫婦が降りてきたのを見て、僕の推測が当たっていたことが分かった。

 スカートをはいている小柄な人は華奢だがゴツゴツした骨格だった。厚化粧をして温泉に来るということは何かの会合があるのだろう。一方、男物のズボンをはいている方の人はスラリとした骨格で、スカートをはかせれば女に見えそうな顔をしていた。

 きっと二人とも男性なのだ。しかし、外観的に男役に向いている方の人が女装をしていて、楽に女役を演じられそうな方の男性が男装をしているとは変な話だ。

 とにかくこんなところに長居は無用だ。僕はエンジンを起動して早々と黒湯温泉の駐車場を後にした。

 田沢湖高原方面へと山道を下ったが、体が冷えてきて尿意が高まった。ついさっき通り過ぎた公衆トイレへと後戻りするのは面倒くさいので、路肩に駐車して木陰で立小便をした。

 運悪く、そこに地元の軽トラックが通りかかった。

「ウヒョーッ、さすが習志野ナンバー! 男の子が立ちションするのかよぉ!」

 運転席の若い男から高い声ではやされた。僕は顔を見られないように背を向けて、単に立っているだけというフリをした。シカトし続けたところ、間もなく軽トラックは走り去った。

――秋田の山の中だからと思って油断していたら、まずいところを見られてしまった。

 エブリイに乗り込んで道を下ると、大きな山小屋風の建物と広い駐車場が見えてきた。今日の入浴場所として選んでおいた田沢湖展望露天施設「アルパこまくさ」だ。野天風呂の一本松たっこの湯は湯の花で真っ白に濁った硫黄泉であり、肌に付着した硫黄化合物や臭いを、洗い場のある温泉施設できれいに流しておきたかった。

 着替えとタオルを入れたビニール袋を手にアルパこまくさの建物の自動ドアを通過した。入浴受付のカウンターには丸顔のおじいさんが座っていた。

「大人ひとり」
と言って五百五十円をトレイに置いた。

 受付のおじいさんは不審そうな目で僕の顔から足までを見てから硬貨をレジにしまい、レシートを差し出した。

「おにいちゃん、どこから?」

 髪形と服装から、おじいさんだと思い込んでいたが、女性の声だった。

「え? ああ、千葉です。船橋市から来ました」

「若い男性のひとり旅か……気を付けて」

「はぁ、ハイ……」

 男がひとり旅をしていて何に気をつけろと言うのだろう? 変なことを言う変なおばあさんだなと思いながら廊下を奥に進むと、脱衣場の入り口があった。

 意外なことに女湯の暖簾は紺の地に「女」と白字で書いてあり、逆に男湯は赤い布に「男」と書かれていた。奇をてらって紛らわしいことをする温泉施設だなと思った。

 男湯の脱衣場で服を脱ぎ終えた時、風呂場から裸の入浴客が戻って来た。僕は思わずアッと声をあげた。その人が長い髪の女性だったからだ。僕は間違って女湯の暖簾をくぐってしまったのだと思って慌ててパンツだけはき、荷物を抱きかかえて出口へと走った。

 ところが、赤い暖簾には確かに「男」と書かれていた。

――男湯と女湯を間違えたのは僕ではなくあの女の人の方だ! 紛らわしい表示をするからこんなことになるのだ。

 僕は憤慨して暖簾の前で立ち止まった。

「どうされましたか?」

 後ろから穏やかな男声で聞かれて、振り返ると先ほど風呂場から上がって来た長い髪の人だった。ところが、彼女の胸には乳房が無かった。

――この人は男性だったのか……。

「ここは……男風呂ですよね?」

「うふふふ、男風呂で間違いないですよ」

 僕はホッと胸をなでおろし、元の脱衣かごまで戻って荷物を置いてパンツを脱いだ。

「ガーリッシュなファッションがお好きなんですね」

とその女っぽい男性客から聞かれたが、なぜこの僕をガーリッシュと言うのか意図が理解できなかった。

「ガーリッシュ?」

「女の人のようなショートヘアですし、服もレディースなんですね」

 ガーリッシュという形容詞は若い女の子のファッションにしか使わない言葉だし、ヘアスタイルや服装を女の子っぽいと言われたことは一度も無かったので腹が立った。

「ハア? 髪はメンズのウルフのつもりだし、服も男物ですけど」

「気を悪くされたのならゴメンナサイ。とてもお似合いですよ」

「まあ……ありがとうございます」

 その客は言葉遣いも仕草も非常にフェミニンだった。服を着ていたら――そして声を出さなければ――女性としてパスするだろう。まさに黒湯のオカマ集団と同じ雰囲気だった。

「あのう、この地区でLGBT関係の集会か何かが開催されているんですか?」

「LGBT……ですか? 私は今日主人と二人で埼玉から来たばかりなので、秋田の行事についてはよく存じません」

「ご主人は女湯に入っていると?」

 僕の言葉を質問とは受け取らなかったようだった。

「あら、もうこんな時間だわ! 早く着がえないと主人に叱られる」
と言って、その客は脱衣かごから女物の下着を出して身に着けミディ丈の花柄のスカートに足を通した。

――キモッ! 

 僕はタオルをひっつかんで風呂場へと逃げ込んだ。

 天上が高くて広い風呂場は左半分が洗い場、右半分が大きな内湯になっていた。先客は誰もおらず、広々とした場所を独り占めできる。

 モヤモヤした気持ちのまま洗い場に座ってシャンプーをした。

 登山道を下りてから見かけた人の大半が異性装をしていた。男に見えた人は声が高くて骨格が華奢であり、この温泉の受付に座っていた人を含めて男装した女性である可能性が高い。それに、男湯の暖簾が赤で女湯の暖簾が紺というのも冗談にしては趣味が悪い。田沢湖高原から乳頭郷は変ながある人が集まる地域なのだろうか? ネットで下調べをした際には、そんな情報は全く書かれていなかったのだが……。

 アルパこまくさには建物正面の広い駐車場と、道を隔てた広い駐車場があり、僕は道を隔てた方の駐車場にエブリイを移動して車中泊をする計画を立てていたが、こんな地域で寝ていたら夜中にオカマ集団に襲われるかもしれないと心配になった。人気ひとけが多い田沢湖畔までは車で二十分ほどであり、田沢湖畔にも車中泊に適した公共駐車場があるということを事前に調べて知っていた。今夜の車中泊はそこに変更した方が良さそうだ。

 ボディーソープをタオルにつけて体を洗い、シャワーで流すと内湯はスルーして露天風呂に向かった。

 コロナの時期でなければ二十人は入れそうな露天風呂には人っ子一人居なかった。露天風呂の奥の左側は塀で覆われているが、右半分は開いていて田沢湖が一望できた。

――うわぁーっ、贅沢! 

 ウェブサイトで田沢湖展望露天施設とうたっているだけあって、数キロ先に横たわる田沢湖のほぼ全景が見渡せた。今日の僕は遭遇する人には恵まれないが、二カ所の素晴らしい露天風呂を独り占めできたという点では恵まれすぎるほど恵まれていた。

 湯温は熱すぎもぬるすぎもせず、僕は風呂の縁を枕にして空を見上げながら手足を伸ばした。真っ裸で大自然を感じながら湯の中で全身を半無重力状態に置く。それは僕にとって最高に癒される状態で、山を下りてからのキモイ経験など、どうでもいいことのように思えてきた。時間がゆっくりと過ぎて日が沈み、田沢湖は赤い静寂に包まれた。

 ふやけた肌で立ち上がり、絞ったタオルで体を拭いて、脱衣場で紺のジャージーの上下を着た。夕方温泉に入ったらパジャマ替わりのジャージーの上下に着替える。それが僕の車中泊旅行のパターンだった。

 受付には先ほどとは別の女性――おじいさんの恰好をしているが多分女性――が座っていた。

 僕は彼女に会釈をしながら
「いいお湯でした。ありがとうございました」
と挨拶をして受付の横を通り過ぎ、アルパこまくさの玄関を出た。

 目の前の駐車場でエブリイに乗り込み、グーグルマップに保存してあった田沢湖畔の公共駐車場を目的地としてセットし、経由地として田沢湖の手前にあるローソンを追加した。まだ真っ暗にはなっていない道を運転する。満開の桜並木の一本道を運転しながら「やっぱり秋田に来てよかった」としみじみと思った。

 十数分間の運転でローソンに着き、「大きなハンバーグ弁当」と缶ビール、そして明日の朝食用として山崎パンのランチパックとヨーグルトをカゴに入れてレジに持って行った。全部で税込み千円弱になった。僕はスマホに表示させたポンタ・カードを見せてから千円札を差し出した。

 レジに立っていた店員はバイトの高校生と思われる百六十二、三センチの可愛い感じの女の子だった。さすが秋田は美人の産地と言われるだけのことはある。

 その時、千円札をレジに入れようとした彼女の手が止まった。

「アレッ、おもちゃの千円札じゃないですか! こんなのを出したら犯罪ですよ!」

 彼女は笑いながら千円札を僕に突き返した。しかし、どう見ても普段使い慣れている千円札と同じだった。

「どうしておもちゃだと思うんですか?」

「だって、野口英世にヒゲが生えているもの。女性の顔にヒゲが生えているということはおもちゃでしょ!」

――野口英世が女性? この子は何を言っているのだろうか……。

 彼女が顔に似合わず低いオバサン声で話していることにも奇妙な違和感を感じた。もしかしたらこの薄化粧にミニスカートの店員も男性なのだろうか?! 

 彼女と野口英世について議論する気にはなれなかったので、
「じゃあ、ポンタで払います」
と言うと、彼女は代金をポンタから引き落としてレシートをくれた。

 ローソンを出て車に乗り、田沢湖畔の秋川第一駐車場に行った。三十台は駐車できそうな駐車場にはトイレのそばに一台がとまっているだけだった。駐車場に植わっている数本の桜の木は満開だった。二十メートルほど離れた街灯からの光でほのかに照らされる無数のソメイヨシノの花の下にエブリイを駐車した。

 駐車場から道を隔てた向こう側が田沢湖だ。

 人はまばらで、車も殆ど通らない絶好の車中泊ロケーションと言える。僕は運転席に座ったままローソンで買ったばかりの缶ビールで秋田の自然に乾杯して、弁当を食べ始めた。無糖のヨーグルトがハンバーグを高級レストランの味へとグレードアップしてくれる。

――最高だ! 自分のアパートで食べるのと同じ夕食を田沢湖畔で食べる。それが車中泊の醍醐味だ。

 すっかり満腹になった僕は、サイド・ドアを開けてジェットボイルを取り出し、湯を沸かした。ジェットボイルとはキャンピング用の小型湯沸かし器で、二、三分で水を沸騰させることができる。僕にとって、空気の良い所でコーヒーをドリップして飲むのが車中泊の楽しみだった。

 エブリイの横の土の上で、ジェットボイルから白い蒸気が立ち始めた時、犬を散歩させている夫婦が駐車場に通りかかった。

「おねえちゃん、この駐車場は火器禁止だよ」
と声をかけられた。たしかに中性的なジャージー姿ではあるが、オカマ密集地から逃げてきた僕がおねえちゃん呼ばわりされるとは皮肉なことだった。

「そうだったんですか。すみません、すぐ消します」
と言ってジェットボイルのガスの栓を閉じた。

「その声は――おにいちゃんだったのか! そんな恰好をしているから女性かと思ったよ」

「このジャージーは男物なんですけど……」

「おにいちゃんのように背が高い男性が、その髪型でそんな服を着ていたら胸が小さい女性に見えるよ」

 さっきからしゃべっている背が高い人は男装をしているが声は女性のように高かった。その時、スカートをはいている小柄な奥さんが口を開いて明らかな男声でこう言った。

「まあ、女の人みたいな恰好をする方が襲われる危険性が低いのかもしれないわね。でも、おにいさんのような若い男の子の一人旅は危険がいっぱいだから気をつけてね」

――この夫婦も男女が逆だ!

 背筋が寒くなった。乳頭温泉郷、田沢湖高原だけでなく田沢湖畔までがLGBT集会の参加者で占拠されているとは考えにくい。何かが変だ。このあたり一帯は何かが根本的に狂っている。

 しかし今朝、雫石では一人もオカマを見かけず、男も女も正常だった。ここから雫石の道の駅までは車で半時間で行けるはずだから、ビールを飲んでいなければ道の駅まで引き返したいところだった。

――待てよ……。今朝黒湯温泉の駐車場に着いた時には横を通りかかった二人組の若い女性がキャッキャと言っていた。朝は何も異常は無かったのだ! 変な人だらけになったのは秘湯から登山道を下りてきてからだ。

 ひょっとしたら狂っているのは彼らではなく僕の方ではないのだろうかという不安が頭をもたげた。女はスカートで男がズボンと思っているのは僕だけで、実際の世界は以前から逆だったとしたら……。考えるだけでも恐ろしい。

 トイレまで歩いて行って用を足した。僕には確かにおチ〇〇ンがついていて、立ちションをしている。自分が間違いなく男だと分かってホッとした。しかし、先ほどの夫婦の常識によれば男とはスカートをはいて育ってきた人間だということになる。

――そうだ。ネットで調べれば分かるじゃないか! 

 スマホに向かってグーグル音声検索をかけた。

「男性 スカート 田沢湖」とインプットしたところ、検索結果のトップにはスカートの画像がいくつか表示された。クリックするとスカートの販売ページに飛び、そこにはスカートをはいているモデルの画像が並んでいた。彫りの深い顔をした美しいモデルばかりだったが、日本人女性の体格とは感じが違うように見える。

「キュートな男の子はレースのスカートが似合う」
という題名でベージュのレースのスカートが紹介されていた。

 怖れていた通りだった。男がスカートをはくのが当然という前提で書かれている!

 念のために「女性 スカート 田沢湖」のキーワードで検索したところ、トップに表示されたのは、
「田沢湖の消防士、スカート内盗撮で停職六カ月」
という記事だった。消防士の女性が、観光客の男性のスカートの中を盗撮して捕まったという内容だった。

 僕の頭が狂ったか、もしくは奇妙な世界に迷い込んでしまったかのいずれかだと考えるべきだ。

 後部座席の寝袋にもぐりこんで全部のドアをロックした。こんな時には眠るに限る。きっと明日目が覚めたら何もかも元通りになっているだろう。何も考えないようにして目を閉じるとすぐに眠りに落ちたようだった。


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