猫にマタタビ:今日からメスになりなさい(TS小説の表紙画像)

猫にマタタビ
今日からメスネコになりなさい

【内容紹介】主人公は高校生男子で、マタタビを食べると身体がネコになり、ネコの視点で第一人称で語る。ネコの視点とネコの感性で異性への性的衝動、性感や愛情などのネコの人生の真実を描く。超自然的な力でネコになるSF的で不思議なドキドキしっぱなしのTS小説。

第一章 猫鼠合戦

 八百屋の息子として生まれたので、僕はおばあちゃん子だった。

 こう言うと何故八百屋だとおばあちゃんっ子になるのかと聞かれるのだが、八百屋にポイントがあるのではなく、父と母が店を切り盛りするのに忙しかったので、幼かった僕の面倒を祖母が見てくれたというだけの話だ。

 祖母には歳の近い妹がいて、毎日のように遊びに来ていた。父と母が「森本のおばちゃん」と呼んでおり、祖母は森本おばちゃんのことをマサコと呼んでいた。森本のおばちゃんは僕が生まれる前にご主人を亡くして娘の家族と一緒に住んでおり、僕に会うのが楽しみで半時間かけて歩いて来ていた。

 祖母と森本のおばちゃんはとても仲良しだが、毎日二人で僕を取り合いしたので、僕はスター気分だった。どちらが僕と昼寝をするかについて二人で話し合った結果、一日おきに交互に担当するというルールになっていたようだ。

 昼寝をしろと言われて、小さいうちは素直に寝たのかもしれないが、小学校に上がろうという時期の元気な男の子にとっては無理な相談だった。実質的に昼寝の時間は祖母または森本のおばちゃんから昔話を聞く時間になった。今から思うと二人のレパートリーは驚くほど豊富で、同じ話を何度も聞かされて飽きたという記憶はない。大きくなってからも僕は国語の成績が良く、特に勉強しなくても現代国語と古典は良い点が取れたのは二人のおばあちゃんのお陰だと思っている。

 祖母と森本のおばちゃんの昔話のレパートリーは重なっている部分とそうでない部分があった。姉妹なのに別な昔話を知っているのは不思議だが、森本のおばちゃんがなくなった時に聞いた話だと、森本のおばちゃんは幼少の頃、親戚の家に預けられていたとのことだった。

 ひとつだけ、明らかに同じ昔話なのに祖母と森本のおばちゃんの話の筋書きが違うものがあった。一部分だけ違うのだが、僕にとってはクライマックスの部分だったので気になっていた。

 それは「猫鼠合戦ねこねずみがっせん」という話だった。猫と鼠は大昔から対立関係にあったが、ある時、猫の総大将が各地から猫を招集して鼠に総攻撃をかけることになった。

 猫軍から弓矢による先制攻撃を仕掛けられて鼠軍は初戦を敗退するが、体勢を立て直してユニークな攻撃をしかける。森本のおばちゃんの話だと、竿の先に大きな菓子袋を吊るして猫に被せて猫の目をくらませ、鼠たちがその上を大きなハリセンでバシバシ叩いてやっつける。

 猫軍は敗走するが、石見銀山から鼠が恐れる砒石ひせきというものを持って来ると鼠軍は一目散に逃げ出す。

 鼠軍の次の反撃は張り子の犬を先頭に立てて反撃し、張り子なのに猫軍は犬が怖くて逃げ出す。結局は大黒天という神様が登場して猫軍と鼠軍の間に和平が成立する。

 森本のおばちゃんの話術のせいも大きかったのだろうが、小学校に入るか入らないかの子供にとって猫鼠合戦ねこねずみがっせんは血沸き肉躍る大戦記で、猫軍と鼠軍の激しい戦いが目の前で繰り広げられているような気がして必死で聞き入った。大きくなって知ったことだが猫軍が石見銀山から持ってきた砒石とはヒ素を含む毒物で殺鼠剤そのものであり、容赦を知らない猫の本性を垣間見た気がする。

 その一方、鼠軍は猫にお菓子の袋を被せてその上からハリセンで叩くという、子供っぽくて冗談のような戦術を取ったわけだ。そんな話では中学生以上の男子を引き込む力は無い。

 ところが、猫鼠合戦の祖母バージョンでは、鼠軍の最初の反撃は菓子袋にハリセンではなく、非常に高度なものだった。それは天然の麻痺剤を使った薬物攻撃だ。猫は生まれつきマタタビという植物の匂いを嗅いだだけでも人事不省(猫事ニャンジ不省と言うべきか)に陥る。鼠はマタタビを屁ともしないので、ふらふらの麻痺状態になった猫たちを見ながら、猫軍の食糧で飲めや歌えの大騒ぎをするほどの大勝利を収める。ただ、殺鼠剤を使った冷酷非情な猫と違って、鼠軍が使ったマタタビの効果は一時的で、しばらくすると猫たちは覚醒して元通りになる。

 猫は化けて出るし、なついているふりをしたかと思うと、こちらが近づくと逃げる。猫の習性はいい意味でも悪い意味でも女性的で、敵に回すと怖いということがよく分かる。それに対して鼠はいたずらをしても素朴であり、僕から見ると男の子っぽくて親しみが湧く。

 話を戻すが、小学校低学年の僕には森本のおばちゃんの猫鼠合戦と、祖母バージョンの猫鼠合戦は同じぐらいエキサイティングだった。僕は祖母に「森本のおばちゃんの話とは少し違うよ」などと指摘したりはしないほど優しくて思いやりのある少年だったので、祖母と森本のおばちゃんは自分たちの猫鼠合戦の勘所が異なることを知らないままあの世に行ったのではないかと思う。

 先に祖母が亡くなり、後を追うようにして森本のおばちゃんも亡くなった。僕が小学校四年の時だった。

 それ以来、高校二年の秋まで、猫鼠合戦は僕の頭の中から消えていた。忘れ去ったのではなく、昔話を思い出すと、大好きな祖母と森本のおばちゃんを亡くした悲しみがぶりかえして授業中でも涙が止まらなくなることが分かっていたので、記憶域の奥深く押し込んでいたのだ。

 

 九月末の月曜日、午前中の現代国語の授業で阿部先生が「マタタビ」という単語を口に出した。久々に聞いたその言葉で、一瞬祖母の顔が頭に浮かんだ。

「『猫に木天蓼マタタビ、お女郎に小判』というのは大好物なものという意味の言い回しである」
と阿部先生が言った。

――えっ? そんなはずはない……。

 僕が祖母から学んだ語彙としては「マタタビ」とは猫に薬物攻撃を加えるために使われる天然の麻痺剤であり、阿部先生は間違ったことを教えているのではないかと思った。しかし手を挙げて「それは違うと思います」と言うのも恥ずかしいので僕は黙っていた。

「早坂君、何か疑問があるなら言ってみなさい」
と阿部先生に当てられて僕は慌てた。

「ど、ど、どうして僕に疑問があると……」

「君ひとりが顔をしかめたからだよ」

 教室中から笑い声が上がった。しまった。僕は思ったことが顔に出やすいタイプなのだ。

「昔話として聞いたことなんですが、猫と鼠が戦争をした際に、鼠がマタタビを使って猫を麻痺状態にしました。だから、マタタビは猫にとって恐ろしい薬物だと思います。大好物というのは何かの間違いじゃないでしょうか?」

「猫鼠合戦の事だね。君はお祖母さんから大事な事を聞き漏らしたようだ。猫はマタタビが大好物なんだよ。マタタビを目の前にすると、ふらふらになると分かっていても食べずにはいられなくなる。まあ、私にとってのお酒のようなものだな。早坂君も授業中にイケないと分かっていてもつい好きな女子をチラチラと見てしまった経験があるだろう」

 取ってつけたような冗談だったが、再びクラスの生徒たちから笑い声が上がった。図星だったので真っ赤になった。その時、僕はひとつのミスをしでかした。僕より一列前で一人置いて右の列に座っている小林結愛の方に目を向けてしまったのだ。結愛こそはイケないと分かっていてもつい目を向けてしまう憧れの女子だった。

 結愛は先生の方を向いたままだったが、結愛の右斜め前の席の風見洋子が丁度僕の方を見たので、僕は風見洋子と視線が合ってしまった。慌てて視線を逸らして阿部先生の方を見たが、阿部先生がニヤリと笑った。

「ハッハァ、そう言うことだったのか! 先生は言いふらしたりしないから安心しろ」

 誤解だ! 阿部先生は僕が風見洋子と視線を交わしたのを目撃して、二人の仲を勘違いしたに違いない。他の生徒たちは阿部先生が何のことを言っているのか理解していないようだ。多分、またつまらない冗談を言っているという程度に思っているのだろう。

 勿論、僕はその場で阿部先生に「誤解です」などと言って墓穴を掘るつもりはなかった。

 風見洋子とは四月に初めて同じクラスになったが、特に美人でもなく、不愛想で口数も少なそうだし、共通の友達も居ないので全く接点が無かった。洋子は女子の中では一番背が高く、僕は男子の低い方から三番目だから体育の時間にも近くに来ることがない。僕は全く彼女に興味が無いし、彼女の方から僕に興味があるはずが無かった。

 僕に落ち度があるわけではなかったが、元々僕がマタタビという言葉を聞いて表情を変えなければ起きなかったことであり、もし洋子が阿部先生からあらぬ疑いをかけられて迷惑だと感じていたら申し訳ないと思った。ただ、風見洋子自身は「巻き込まれた」と意識していない可能性も高いので、僕の方から謝るのも不自然だと思い、僕は単に黙っていることにした。

 

 その日の昼休みの終わり頃、僕が席に戻った直後に風見洋子が僕の席の横を通りかかり、小さな白い紙片を僕の机の上に置いて行った。

「あ、落とし物!」
と声を掛けようとしたが遅かった。

 その紙片の裏側を見て心臓が止まりそうになった。

「今日午後四時に春日神社の千年杉まで来て」

 まずいことになった。阿部先生の言葉を聞いて、僕が洋子に憧れていると勘違いして、洋子の方から逆に僕にこくろうとしているのだ! それは非常にまずい。洋子と僕が噂になれば、小林結愛も僕が好きなのは洋子だと勘違いして、ただでさえ可能性が低い恋が絶望的になる。洋子はブサイクではないが、僕のタイプではなく、身長的に見て僕とは全然釣り合わない。

 いや、待てよ。洋子が僕を好きになるはずがない。きっと、阿部先生からあんなことを言われたのを非常に迷惑だと感じていて、僕の方から阿部先生に誤解を解きに行くようにと要求するために僕を誘い出したのだ。そうだ、そういうことに違いない。

 午後の授業が終わり、HRの後、風見洋子が鞄を持って立ち上がり教室から出て行くのが目に入った。僕も鞄を持って、トイレに走っていくフリをして教室を出て、遠回りの道を通って春日神社まで速足で歩いたり時々走ったりして行った。

 千年杉は春日神社のやしろの裏側にあり、神社に拝みに来る人でもわざわざ裏側に回らない限り目に付かない。密会をするには最適な場所だった。

 まだ風見洋子は到着していなかった。僕は遠回りをして来たが、小走りで来たので、スカートをはいた女子が歩くよりは早く着いたわけだ。

「早坂君、来てくれてありがとう!」
と洋子は僕が抱いていたイメージよりも愛想よく言った。

「いや、僕はどうせ暇だから」

「四月に同じクラスになってから、話しかけようと思っていたんだけど、タイミングがつかめなくて、今日になっちゃった」

――これはまずいぞ。この話の流れだと洋子から僕への告白になりそうだ。

「阿部先生が言っていたことは気にしないでくれ。あれは阿部先生の誤解だから」

「阿部先生なんて関係ない話なんだけど」

「えっ、違うの? じゃあ、何の話?」

「早坂君は気づいてるんじゃないかと思うけど……私、ネコなの」

「ネ、ネコ?!」

 予期しなかった単語を聞いて混乱した。女子から「私はネコ」と聞いて動物のネコを連想するのは小学生までだ。洋子は自分がレズビアンだと言っているのだ。ネコが何を意味するかぐらいは知っている。レズビアンにはタチとネコがあり、ネコが受身の方だ。しかし、僕に興味が無いと伝えるにはレズビアンと言うだけで十分なのに、どうしてネコとまで言うのだろうか……。

 とにかく洋子は僕には興味が無いと伝えるために呼び出したのだ。

「分かった。女どうしの方がいいんだね。じゃあ、僕は諦めるよ」
という返事が意識しないうちに僕の口から出ていた。

 こんな場合に「僕が風見さんを好きというのは誤解だ」などと言うよりも「僕は好きだったけど、風見さんが女どうしの方が良いなら僕は身を引く」と答える方が遥かに男らしい。僕は自分から咄嗟に出たヒロイズムを褒めてあげたかった。

「くくく、面白すぎる。本気で誤解してるんじゃないわよね?」

 洋子は可笑しくて仕方がないという様子だった。

「タチの恋人がいるんじゃなかったの?」

 洋子は突然その場にしゃがみこんだ。スカートの裾が地面に着いたことを気にする様子もなかった。僕たちから数メートル離れた所に猫が三匹ほどウロウロしていたが、洋子は猫の方を向いて「ニャーン、ニャーン」と呼びかけた。

 僕は洋子の繊細な一面を始めて見た気がした。猫に突然ニャーンと話しかけるというのは、素朴で優しい人でなければできることではない。洋子は図体もデカいし女らしくないぶっきらぼうな同級生だと思っていたが、洋子の仕草に好感を覚えた。

 驚いたことに猫のうちの一匹が優美な足取りで洋子の所に歩いて来た。僕は猫の雌雄を一瞬で見分ける能力は無いが、間違いなくメスだと直感した。人間でいえばファッションモデルのような色っぽくてカッコいい歩き方だ。まるで洋子を誘惑しようとしているかのように……。

 その猫が洋子のスカートに身体をこすりつけるようにして、洋子はその猫の首筋を撫でた。

「ニャーン、ニャニャーン」

「ニャー」

「ニャー、ニャーン」

 洋子と猫は本気で会話をしているような感じだった。僕もその猫に触りたくなって洋子の隣にしゃがみこんだ。でも、猫は僕には全く興味を示さず、迷惑そうな素振りだった。

「早坂君、やしろの右側に水道の蛇口があるのが見える?」

「うん、見えるよ」

「今、この子に、他の猫二匹を誘ってあの水道の蛇口の所に行くようにと言ったのよ」

「ネコ語で?」

「そうよ」

「風見さんって面白い人なんだね」
と僕が言い終わらないうちに、その猫は二匹の仲間の所へと駆けて行き、何やらニャニャニャーンと話をしたかと思うと、三匹が一緒に先ほど洋子が指さした水道の蛇口の所へと歩いて行った。僕はあっけに取られてそれを見ていた。

「あの子は喉が渇いている様子だったから、私が水道から水を出してあげると約束したのよ。栓を開けにいかなくちゃ」
 洋子が水度の蛇口へと歩いて行ったので僕も二歩遅れて付いて行った。

 洋子が水道の栓を回してチョロチョロと水を出し、三匹の猫たちは蛇口の下にできた小さな水たまりから水を飲んだり、その周囲で遊んでいた。

 洋子が水道の栓を閉めて近くにしゃがむと猫たちが寄ってきて洋子にじゃれついた。僕がその横に座って間もなく、猫たちは名残惜しそうな素振りを見せながらやしろの反対側へと歩き去った。

「三匹とも風見さんのことが大好きだったみたい。みんなメス猫なのに、僕の方なんか振り向きもしなかったよ」

「やっぱり早坂君はパッと見て三匹ともメスだと分かったのね」

「雰囲気でそう思ったんだけど、三匹ともメスなの?」

「そうよ。私はメス猫にはモテるの。早坂君は私があの子たちと話すのを聞いていて意味は解らなかったの?」

「解るわけないよ。風見さんは本当にネコと会話ができるの?」

「見てたでしょ」

「見ていなかったら、とても信じられなかっただろうな」

「早坂君もネコと会話が出来るようになるわ」

「まさか!」

「だって、早坂君もネコだから」

「僕がネコ?!」

「私たちの高校でネコは私と早坂君の二人だけよ。そうかもしれない人は見れば分かるのよ。入学した時に早坂君もネコかもしれないなと思ったけど、今日初めて教えてあげることができたわ。よかった!」

「僕がネコだという証拠はあるの? 風見さんがそう思ってるだけなんじゃない?」

「間違いないわよ。私の目には早坂君のネコの姿が見えるもの」

「でも……」

「私の家に来たら納得できるはず」

 半信半疑だったが、僕は風見洋子という人物が好きになり始めていた。女子として好きになったというのではなく、話が独創的で面白いし、人間味が感じられるし、何となく信用できそうな気がしたからだ。

 高校生になってから女子の家に行くのは初めてだった。気軽に言葉を交わせる女子は何人か居たが、一対一で自宅を訪問し合えるほどの女友達は居なかった。洋子の家に行ってお母さんが出てきたらどんな挨拶をすれば良いのだろうかと考えながら付いて行った。

 ところが、到着したのは郵便局の手前にある二階建ての古い木造建築で、単身者用と思われる狭そうなアパートだった。

「一人暮らしなの?」
と僕は恐る恐る質問した。

「高一の秋に父が本社に転勤になって家族は埼玉に引っ越したのよ。私は高校を卒業するまで一人暮らしをすることになったの」

 一人暮らしの女子のアパートの部屋に上がったことが親にバレたら非常にまずい。先生に知られたら停学処分にならないだろうか……。ビクビクしていたが、僕の方から悪いことをしなければ何も起きないはずだし、万一バレても言い訳できるだろうと思った。一人暮らしの女子のアパートを見てみたいと言う冒険心の方が強かった。

「そんなに心配しなくても襲ったりしないわよ」
と洋子に言われて我に返った。そうだ、僕がネコであると証明してもらうためにやってきたのであって、キスをしたり戯れるために来たのではない。

 洋子がアパートの部屋のドアを開けるまで、ピンクのカーテンにパステルカラーの家具、ベッドには縫いぐるみがゴロゴロしている部屋を想像していたが、完全に期待外れだった。そこには何もなかった。木製の勉強机とシンプルな木製のベッド、カーテンはグレーで、女子とは思えないブルー系統の配色の部屋だった。まだ僕の部屋の方がファンシーだ。

「スカートをジャージーに履き替えるから待っていてね。私は見られても構わないんだけど、気になるのなら窓の外の方を向いていてもいいわよ」

 僕は慌てて窓際に行き、彼女に背を向けた。

「制服のスカートは帰ったらすぐに脱がないとシワになったりテカるのよね。女子って本当に面倒。何とかしてほしいわ」

「僕にそんなことを言われても……」

「もうこっち向いて大丈夫よ」

 彼女はスカート専用らしいハンガーに自分が脱いだスカートを吊るす作業に余念が無かった。今まで気付かなかったが、巨大なスカートだなと思った。僕が着たら床の上を引きずりそうだ……と言うのは大げさだが、長身女子のスカートの大きさに圧倒された。

「僕の中身がネコだということをどうやって証明するつもりなの?」

「中身がネコとは言っていないわ。早坂君はネコであり、同時に人間でもあるのよ。ネコの姿にもなれるし、今のままの人間の姿にもなれる」

「人間の知識や思考力をネコが持っていたら、それは化け猫だよね」

「うーん、ちょっと違うのよね。ネコになった状態では、ネコの小さい頭脳を使ってネコとして思考しているから、人間ほどの思考力や知識は無いわ。でも、私が人間として持っていた思考パターンというか思考の流れや知識の一部はネコになってもある程度は受け継いでいるから、他のネコより賢いのは間違いない」

「風見さんはネコに変身してネコの姿で他のネコと遊んだりしたこともあるの?」

「勿論よ。さっき神社で会った三匹のメスは私の友達よ。友達以上の関係と言った方がいいかしら」

 洋子が意味深な含み笑いをしたので、少し嫌気がさした。僕が今日洋子のことをレズビアンのネコ役と勘違いしたことを取り上げて、自分はタチだと冗談を言っているのだ。でも僕はひるまずに返した。

「じゃあ、三匹ともレズビアンのネコなんだ。ネコにもLGBTがあるのかな」

「かなり違うんだけど……まあ、早坂君もすぐに分かるようになるわ」

「僕をネコに変身させてくれたら風見さんの言うことを信じるけど」

「いきなりそこまで行くのは早坂君のためによくないと思うわ。とりあえず早坂君がネコだということを実感させてあげる。そこに座って」

 洋子が床の上のミニテーブルを指さした。僕はテーブルの前に正座した。洋子は冷蔵庫から何やら小さな木の実を一個だけ白い小皿に載せてミニテーブルの上に置いた。

 それはオレンジ色に熟した二、三センチの楕円形の実だった。未体験の刺激臭が鼻腔から頭の芯まで侵入してきて、何とも言えない気持ちになった。食べたくてたまらない気がして手を伸ばすと、洋子に手首を掴まれた。

「まだダメ、見るだけよ」

 待ったをかけられると却って食べたくてたまらない気持ちが高まる。頭がクラクラして、空を飛んでいるような気分になってきた。

 その時、洋子がミニテーブルから小皿を取って冷蔵庫の中に戻してしまった。

「持って行かないで……」
 手がくうを掴んでミニテーブルに着地した。ミニテーブルに両手をついて上半身を支えながら俯き、
「食べたい……」
とつぶやいている自分を意識した。

「また今度食べさせてあげるから」
と洋子が言う声が遠くに聞こえる。

「今食べたい……お願い!」
と洋子を見上げて僕はのけ反った。
「ギャッ!」

 灰色に輝く巨大なネコが目の前にいた。正確に言えばブルーのジャージーを着た洋子の顔がネコになっていた。

 ネコのお化けに襲われると感じてアパートから逃げ出そうとした。実際には身体がまだフラフラしていて足が言うことを聞かず、必死で玄関へと這って行った。化け猫が追って来る! 

 背後から化け猫に飛びかかられた。床にうつ伏せになった僕に化け猫が乗りかぶさる。振り払おうとしても身体が思い通りに動かなかった。

 化け猫の手が僕の首筋を掴んだ。
「もうダメだ、ヤラレル!」
 そう思った瞬間、身体からすーっと力が抜けて気持ち良くなった。

「助けて」
と言う僕に化け猫が洋子の声で言った。

「落ち着いて。何もしないから」

 洋子が化け猫に身体を乗っ取られたのではなく、この化け猫の実体が洋子だったのだ。洋子なら僕に危害を加えるつもりはないだろうと思った。

 まもなく、ふらふら感から覚めて意識がしっかりしてきた。化け猫が僕の背中から身体を起こし、僕は化け猫の方を振り向いた。洋子の顔に戻っていた。

「何が見えたの?」
と洋子が微笑みを浮かべて僕に聞いた。

「風見さんの顔が灰色のネコの顔に変わったから、化け猫に襲われると思った……」

「ほらね。やっぱり今日は食べなくてよかった。もし食べていたら妄想状態を通り越してショック症状が出ていたかもしれない。早坂君はマタタビの匂いに対する感受性が他のネコより強いみたいね」

「マタタビ?!」

「そうよ、あれがマタタビの実よ」

猫鼠合戦ねこねずみがっせんの時に猫軍がどんな状況に陥ったのかよく分かった。でも、人間にもあんなに強い麻痺作用があるんだね。山の中でマタタビの実が沢山なっている木の近くに行ったら発狂するか、その場で動けなくなって死んじゃう危険性があるよ。でも、そんな事故の話は聞いたことがない」

「マタタビは人間には殆ど効かない。早坂君はネコだから効いたのよ。それにマタタビの匂いによる麻痺状態は一過性なの。匂いを取り除けば数分から十数分後には元通りになるし、そのまま匂いのある状況に置かれていてもある程度時間が経つと慣れてきて普通に行動できるようになる。だから山中でマタタビのつるの下で倒れても、そのまま死んでしまったりはしないわ」

「あれっ、変だなあ……」
 僕はあることに気付いた。
「風見さんもネコなんだよね。どうして風見さんは僕みたいにふらふらにならなかったの?」

「結構いい気持にはなったわよ。マタタビの効果は人によって……ネコによって違うの。シャム猫よりペルシャ猫が効くとか決まってるんじゃなくて、個体差の方が大きいみたい。ちなみに私の血統はロシアンブルーで、早坂君は雑種だけど」

 洋子から雑種と一刀両断にされてバカにされた気分になった。

「どうして僕が雑種だと分かるんだよ!」

「見えるのよ。神社でははっきり見えなかったけど、マタタビの匂いを嗅いで見えるようになった。私の知覚が鋭敏になったのと、早坂君のネコとしての存在が活性化されたのと、二つが重なったからだと思う。明るい薄茶色の模様の白っぽいネコだった。毛の一本一本まで鮮明に見えたけど、惚れ惚れするほどしなやかで美しいネコだわ」

 絶賛に近いレベルの褒め言葉をもらってうれしくないはずがなかった。男が美しいネコだと言われて喜ぶのも変なのだが……。

「化け猫になった風見さんは灰色の無地というか、模様の無い単色だったけど、不思議な感じに輝く灰色だったよ」

「でも、顔だけがネコで首から下は人間だったのよね?」

「うん、多分、ジャージーを着たネコじゃなくて、人間の身体だったと思うけど」

 そう言った後で、洋子には僕のネコとしての裸が見えるのだと気付いて恥ずかしくなった。

「マタタビの実は、いつ食べさせてくれるの?」

「一日以上開けた方がいい。明日以降ならいつでもいいけど」

「じゃあ明日にして。腐るといけないから」

「前に進む覚悟はできているの? 食べたら多分トリップするから、後戻りできなくなるわよ」

「トリップって何?」

「ネコになることよ。今日は幻視というか、お互いの中にあるネコの姿を見ただけだけど、食べたら高い可能性でネコに変身する。早坂君はマタタビの匂いに対する感受性が非常に高い部類のようだから、食べたらまず確実に変身できるはず」

「ネコに変身するって、実際にこの身体が小さくなってネコの姿になるってこと? 後戻りできないとは一生ネコとして生きて行かなきゃならないの? それはまずいよ。お父さんやお母さんも心配するし……」

「変身しても数時間で元の姿に戻るから心配しなくていいけど、一旦ネコになって、数時間とはいえネコとして生きることで、ネコとしての自我が確立するのよ。言葉では説明しにくいんだけど、こんな風に人間の十七歳の少女として話しながら、自分は同時に一歳のロシアンブルーでもあるんだという意識が私を支配しているの。もう元の私じゃなくなった」

「一歳と言えば赤ちゃんじゃないか」

「ネコは生まれて半年から一年後には子作りできる身体になる。早坂君も私も生後十一、二ヶ月というところかな。日本のネコの平均寿命は十四歳で、長生きすれば二十歳まで生きられる」

 子作りできる身体と言われて少し気まずい思いがした。明日、メスネコになった洋子とこの部屋で裸を突き合わせることになるわけだ。子作りできる身体のオスネコとして……。

「人間でも大人になるってことは自我が成熟して以前とは違う自分になるんだから、トリップしてネコの自我を身に着ければ、その分、自分が豊かになるとも考えられるんじゃないかな。だから僕は躊躇しない。是非トリップを経験したい」

「分かったわ。じゃあ、明日学校が終わったら直接このアパートに来て」

「うん、じゃあまた明日」

 玄関で靴を履いていると、背後から洋子が左手を僕の肩に乗せて右手で僕の首筋を掴み、覆いかぶさるようにして身体を押し当てた。「うーんっ」とうめき声が出そうになるほど気持ちよかった。さきほど化け猫に首筋を掴まれた時と同じ快感だった。首を掴まれて気持ちがよくなるのは自分がネコであるというもう一つの証拠かもしれない。それにしても洋子の距離感の取り方には当惑した。これではまるでキス以上の関係を持った彼氏と彼女の関係じゃないか……。ほんの二時間前に神社で落ち合うまで言葉も交わしたことが無かった洋子からこんなボディータッチをされることには当惑したが、結構レベルの高い彼女ができたことがうれしかった。

 その夜、風呂に入りながら「僕はネコだったのか」と改めて実感した。冷静に考えると、僕がネコである証拠と言えるのは、マタタビの匂いで麻痺症状になったこと、化け猫になった洋子を見たこと、首筋を掴まれて気持ちよかったことの三点だけであり、それだけで自分がネコであると結論付けるのは飛躍が過ぎる。もう一つ、洋子が神社でネコと意思疎通したように見えたことも判断根拠として付け加えてもいいかもしれない。科学的には不十分な材料しかなく、洋子に騙されていると疑うのが普通なのかもしれないが、自分がネコであるのは間違いないと本能的に感じていた。

第二章 アイ・アム・ア・キャット

 翌日の朝、学校に行くと、洋子の姿を見つけて横から近づき「おはよう」と声を掛けた。ところが洋子はニコリともせず、一瞬僕に冷たい視線を向けただけで、何も言わずに立ち去った。

 女子の中でクラス一背が高い洋子から、
「どうして私があんたなんかに声を掛けられなきゃならないのよ」
とでも言うような目で見下ろされてショックだった。

 昨日洋子のアパートで何か失礼な事をしただろうか? 頭を巡らせたが彼女を傷つけた心当たりは全くなかった。今日、こんな状況で洋子のアパートに行っても大丈夫だろうか? 追い返されるかもしれないし、そうでなくても、あんな洋子と一対一で向き合うのはつらい。トリップどころの騒ぎではないかもしれない。

 暗い気持ちのまま一時間目の世界史の授業が終わり、休み時間にひとりでトボトボとトイレに行った。用を足してトイレを出て教室に向かおうとしたら、突然背後から誰かがぶつかってきて肩を手で掴まれた。

「おはよう、今日は楽しみね」
 洋子だった。背中から覆いかぶさるように身体を密着させられて、僕は当惑した。

「誰かに見られたらまずいよ」
と僕は彼女から身体を離した。

「大丈夫よ、周囲に誰も居ないことは本能的に確認できてる。ネコだもの」

「今朝僕がおはようと言ったのに返事してくれなかったから怒ってるのかと思った」

「まさか。昨日は楽しかったし、今朝は最高の気分だったわ。好きな相手ほどそっけなくしちゃうのよね、ネコだから」

 いきなり好きな相手と言われてドキドキして頬が熱くなるのを感じた。確かにネコはじゃれついて来たかと思えばとたんにそっけなくなったりして人間の心を弄ぶ。まるで美人の女性が男を手玉に取るような振る舞いをするのがネコの特徴だと聞いたことがある。僕もトリップを経験してネコとしての自我が強くなれば、今日の洋子のような行動傾向が出るのかもしれない。しかし、それでは男としては好感が得られない。

「誰も見ていなくてよかったけど、背中から覆いかぶさられるとドキッとして心臓に悪いから……」

 昨日もアパートの玄関で同じことをされたが、いくらなんでも学校で後ろから女子に抱き着かれるのはまずい。

「確かに、先生に見られて二人で職員室に呼ばれたら説明に窮するわよね。まずいから気をつけるわ。でも本能的にああなっちゃうのよね、オスネコだからかな」

 洋子から初めてオスネコと呼ばれて狼狽うろたえた。友達の姿が目に入ったので洋子とは離れて教室へと歩いた。

 

 昼休みに自分がネコだと思い知らされる出来事があった。

 中庭の廊下を歩いていたら、建物の影から犬が飛び出して来たのだ。以前にも校内で見かけたことがある茶色い小型犬だったが、犬は僕を見るとワンワンと吠えた。足がすくみ、頭の中が得体のしれない恐怖と闘争心で一杯になって髪の毛が頭のてっぺんから襟足に掛けてフワーッと立ったのが分かった。ネコの毛が逆立つと言うのはこれなんだなと実感した。こんな小さな犬なら例え飛びかかられても怖くもなんともないことは理屈では分かっているのに、犬に吠えられて身体全体が反応している。僕がネコ化したのは間違いない。洋子と出会って、ちょっとしたマタタビ体験をしただけでこれほどネコ化したのだから、トリップを体験したら自分がどこまで変わるのかが怖い。少しでも冷静になって人間として振る舞おうと思い、目を閉じて心を落ち着けた。数秒後に目を開けた時には犬はどこかに居なくなっており、恐怖心はあっという間に消え去った。

 それにしても、犬が通りかかるたびに足がすくんで髪の毛が逆立つのでは生活に支障が出る。後で洋子に対処方法を教えてもらわねばと思った。

 

 その日は短縮授業だったので、午後二時過ぎに洋子のアパートの前に着いた。周囲に人が居ないことを確かめて階段を上がり、部屋のドアをノックした。

 洋子はジャージーに着替えて僕を待っていた。

「遅かったわね。明るいうちにトリップから戻りたいから、早くマタタビを食べましょう」

「ということは、ネコに変身する時間は三、四時間程度ということなんだね。手を洗ってうがいをしてくるから待っていて」

「どうせ手を地面につけて歩くのに……」
とブツブツ言っている洋子を尻目に、トイレを借りて、石鹸で手を洗い、うがいをした。

 ミニテーブルの上にはマタタビの実を二つ載せた白い小皿と牛乳の入ったガラスコップが置いてあった。部屋全体がふわーっとしたかぐわしい空気に包まれている。

「ミルクまで出してくれてありがとう。丁度喉が渇いていたんだ」

「牛乳を飲んでからマタタビを食べると効果が薄れるのよ。早坂君の場合、マタタビ感受性が高そうだから、徐々に慣らさないとショック症状が現れるといけない。ネコの姿になるのと同時にアナフィラキシーショックであの世に行くのは嫌でしょう?」

「ヒェー、野良猫として死んだら親が悲しむよ」

「ご両親から見ればただの野良猫の死骸よ。早坂君は神隠しに遭ったように居なくなるだけ」

「考えるだけでも寂しいよ」

「人による……ネコによるけど、一個のマタタビを食べると五、六時間から半日ほど変身した状態が続くのよ。ミルクを飲めば効果が半減するから、多分明るいうちに人間に戻ると思う」

「へえ、結構大ざっぱなんだね」

「さあ、ミルクを飲んで。そしてマタタビをゆっくり噛んで食べるのよ」

「皮はかないの?」

「ネコは皮を剥いたりしないわ。それに、果皮にも効能成分が含まれているから」

 僕はミルクのコップを手に取ってごくごくと飲み干した。マタタビの実を指でつまんで口に近づけると何とも言えない香りがして、頭がクラクラした。奥歯で噛むと熟れた実から甘酸っぱい果汁と柔らかい果肉がシュワーッと出てきて口の中に広がった。独特な辛みがアクセントになっている。

 これは紛れもなく僕にとって地球上で最高の食物だ。頭の中の天空に青空ができて、その中を天に向かって飛翔している気持ちになる。果皮と種を噛む感触が気持ちいい。キウィのような小さな種が無数に入っていてプチプチした食感だった。

「美味しすぎる! もう一個食べたいなぁ」

 洋子を見ると、ミルクを飲んでいる所だった。僕がマタタビを食べるのを見極めてから自分も食べるつもりだったのだろう。

「野良猫の死骸で終わりたくなかったら今日は一個で我慢しなさい。もしそうなったら私が神社の裏に小さなお墓を作って埋めてあげるけど」
とブラックジョークを言いながら、洋子はマタタビを口に入れて美味しそうに食べた。

「あ、そうだ。もし暗くなるまでに元に戻らなかったらお母さんが心配するかもしれないから、LINEで遅くなるかもしれないと言っておかなきゃ」

 僕は学校の鞄からスマホを取り出そうと手を伸ばした。

 その時、意識が朦朧となり始め、身体がムズムズしてきた。あれよあれよと言う間に手が小さくなり、毛に覆われて、ネコの手になってしまった。遠のく意識の中で、身体全体が縮んでネコになり、下着の中にくるまった状態になったように感じられた。

 目が覚めてアンダーシャツから首を出そうともがいたが手の爪が引っかかった。なんとか下着から抜け出し、カッターシャツの襟首をすり抜けて外に出た。身体全体をブルブルッと振るうと、自分がネコになったことを改めて実感した。

 目の前に洋子の巨大な身体が横たわっている。洋子が長身だから巨大なのではなく、ネコから見ると人間とはかくも大きいのかと今更ながらに感じた。洋子の手が小さくなり始める。見ているうちに毛が生えてきて、同時に身体が萎んで行った。数秒後にはブルーのジャージーの腰のあたりにネコと思われる塊ができた。しばらくして、もごもごし始めたかと思うと、ジャージーの首の穴から銀色に輝くロシアンブルーが姿を現した。見上げるように背が高くて颯爽とした感じだった。

「風見さん、ネコになってもカッコいいね!」
と半分以上本心でお世辞を言おうとしたら、口から出てきたのは、
「ニニャーン」
という高い声だった。

「ニャーン」
と深みのある声で洋子が返事をして優しい視線を僕に向けた。

「ありがとう、早坂君こそ美しい」
という意味でニャーンと言っていることが瞬時に理解できた。テレパシーで意思疎通した感じではなく、声、その響き、視線、身振りなどの組み合わせで洋子の言いたいことが理解できたのだと思う。

「ニャン(さあ、行こう)!」
と洋子が言って僕は後を追った。どこに行くのだろうかと考える間もなく、キッチンの隅の小さな木戸を通って外に出た。木戸と言っても、ネコの身体がやっと通る大きさの四角い穴を、吊るした木で隠しているだけの抜け穴だった。洋子の部屋は二階だが、建物の狭い縁を歩いて隣の家の一階の屋根に飛び移り、屋根を通って塀に飛び移った。塀の途切れる所が裏の通りの道路から一メートルほどの高さになっているのでそこから道路に飛び降りた。

 もし僕だけならとても飛び移ろうとは思わないような高さと幅を洋子は平気でピョンピョンと飛び移った。僕はビクビクしながら洋子の後を追ったが、案ずるよりは産むが易しで、思ったより楽に飛び移ることができた。ネコが身体の割に運動能力が高いことは漠然と意識していたが、これほどだとは思わなかった。ネコになったことに喜びを感じた。

 洋子は時々立ち止まっては頭を高く上げて前途を見定め、再び頭を低くして颯爽と進んで行く。人間の姿の洋子にも似たような印象をそれとなく感じていたが、あくまで「長身の女子高生」の範囲内での印象だった。ネコになって、制約から解放されたかのように伸び伸びと駆け巡る洋子の姿が眩しかった。

 人間としての洋子も僕より背が高く、傍に立つと女子から見下ろされて恥ずかしかったが、十センチの差ということは比率で言うと僅か六パーセントの差に過ぎなかった。ネコの洋子と僕の差はそんなレベルではなく、洋子は僕より遥かに大きい。洋子がロシアンブルーで、僕がたまたま小ぶりな雑種の血統だったのだろう。洋子が立ち止まって背を伸ばして前方を確かめる姿は、僕の倍ぐらいありそうなほど巨大だった。

 人間のカップルで女子が男子より数パーセント背が高いと、男子は周囲からバカにされそうな気もするし、近くから見下ろされると気持ちが萎縮するが、ネコになって洋子がずっと大きくなると、却って気にならなくなった。ネコはオスとメスとどちらの身体が大きいのだろうか? 多分オスだと思うが、そうだとしても、血統が異なるのだから、小型の雑種のオスの僕がメスのロシアンブルーの洋子より小さくても、別に恥じることはない。人種……じゃなくて猫種ニャンしゅの違いなのだから。

 路地を通って商店街に出る。普段なら洋子のアパートから商店街まで来るには、スーパーの角まで行って引き返さねばならないが、ネコは建物と建物の間の二十センチほどしかない隙間を楽に通り抜けられる。ネコって本当に便利だ。

 溝の横を通って商店街を進む。スイスイ歩いていた洋子が突然立ち止まり、僕の方を振り向いて、低く鋭い声を立てた。
「ニャンッ」

 それは、
「気をつけろ」
という警告だった。

 僕が
「ニャー(はい)」
と答えないうちに、巨大なバイクが爆音を上げて目と鼻の先を通り過ぎた。

「ニャニャー、ニャーン」
と洋子が僕を諭した。

「ネコは常に全身を神経にして危険を感じ取るんだ」
と言っていることが一瞬で分かった。

「ニャー(はい)」
と返事をすると、再び洋子は顔を前方に向けて歩き始めた。

 コンビニの前に通りかかった時、二人の女子高生が店から出て来るところだった。うちの高校の制服を着ている。いつもの僕なら同じ高校の女子を見たら嬉しいとは言わなくても悪い気持ちはしないが、今日はとにかく巨大なので見上げる気もしなかった。洋子は足を止めて身体を僕の方に向けて腰を落とした。女子高生が通り過ぎるのを待つつもりなのだろう。

 僕はアパートを出てから洋子を追いかけるのに必死だったが、やっとおしゃべりする時間が出来たと思った。

「ニャニャン(ネコって楽しいね)!」

と言うと、洋子はニャンとも言わず、「ふん」と言った感じでそっぽを向いた。そのクールな仕草を見て、「洋子って本当にカッコいいな」と思った。

 その時、僕を巨大な影が覆った。女子高生の一人が僕の至近距離に来ていた。見上げるとスカートの中の白いパンツが目に飛び込んだので、サッと視線を下げた。いくらネコになったからと言っても女子のスカートの中を覗くのはマナー違反だ。

 女子高生が突然しゃがみこみ、スカートがフワーッと広がりながら降りて来た。僕はそのスカートの中に包み込まれそうになったが、スカートの端が頭を擦っただけだった。

「カワイーッ!」
と言うと、彼女は右手で僕の首筋を掴みながら、慣れた手つきで胸に抱いて立ち上がった。

 僕は本能的に全身の力を抜いて彼女の腕に身を委ねた。僕の前足と後ろ脚は弾力性のある壁に押し当てられている。ブラウスを通してではあるが、スポーツブラに包まれたオッパイに手足を押し当てているのだ。うれしさと、申し訳なさ、そしてちょっぴりだが後ろめたさを感じる。

「可愛いネコちゃんね。お名前は何て言うの?」

「ニャーン」
と愛想よく答えたが、心の中では
「ネコが人間の言葉で自己紹介できるわけがないだろ!」
と思っていた。

「そう、ミーコちゃんと言うのね」
と勝手にメスネコの名前をつけた彼女の顔を見て、僕は雷に打たれた思いだった。

 それは小林結愛だった! 

 何という幸運なのだろうか。ネコになった僕を始めて抱いたのがクラスの憧れの女子だとは! しかも、どんな形であれ、僕は結愛の胸を触っている……。

 胸が一杯になって僕は結愛の腕の中で目を閉じ、胸の暖かさに浸った。

「しょうがないわね。早く行きましょうよ」
ともう一方の女子の声がした。学校で結愛と毎日一緒にお弁当を食べている浜口美弥の声だった。

 結愛はその場にしゃがんで僕をそっと地上に下ろした。

「ニャニャー(もっと抱いて欲しいな)」
という僕の言葉は結愛には届かなかった。

「ミーコちゃん、またね」
と結愛は胸の前で両手を振ると、僕に背を向けて浜口美弥を追いかけた。

 僅か二、三分間の出来事だったが、僕にとっては心躍るアヴァンチュールだった。

 結愛の後姿を見送ってから、洋子が居ないことに気付いた。洋子が僕にどの程度気があるかは不明だが、僕が他の女子に抱かれてボーッとなっているのを見て、いい気持ちがしなかったのだろう。その点は結愛の胸を触りながら心の片隅で気になっていたが、洋子は腹を立ててどこかに行ってしまったのだろうか……。

 僕は洋子のニオイがする方向に歩いて行った。洋子には何か人を……ネコを魅きつける特別な匂いがあるということを、その時初めて意識した。アパートを出てからずっと僕はその匂いに魅せられて洋子について来たのだった。

 洋子はすぐ近くにいるはずだが姿が見えない。周囲を見回しながらゆっくりと進む。路地の角で洋子の気配が強くなったので路地へと入って行くと、数メートル先の物陰に二匹のネコが見えた。一方は洋子で、他方は昨日神社で洋子が話しかけた真っ白いメスネコだった。洋子が白猫の後ろから乗りかかったり、首筋を噛もうとしたりしてじゃれついているが、白猫の方は何か殺気立っている感じがした。

 白猫が先に僕に気付き、
「フギャッ」
と声を上げた。僕は白猫が何を言っているのか理解できなかった。

 白猫が洋子を手で振り払うようにした。洋子は少し身体を離した時に僕に気付いたようだった。洋子は気まずそうな様子で僕の方に歩いて来た。

 白猫は僕を睨んで反対方向へと立ち去ったが、僕と目が合った時に、
「ニャニャーッ」
と低い声で言った。

「この、邪魔者め!」
という意味の悪態だった。

 洋子と友達どうしで遊んでいたところに僕が来て邪魔されたと感じているのだろう。学校でも女子どうしが秘密めいた話をしている所に僕が通りかかったら迷惑そうな顔をされてもおかしくないが、男子に「邪魔者め」などと露骨な悪態をついたりはしない。所詮ネコのメスは細やかな配慮に欠けた粗野で直情的な生き物なのかもしれない。

 洋子は僕と視線を合わせずに僕の横を通り過ぎて路地を商店街へと引き返した。

「ニャニャニーン(洋子はあの白猫とどんな関係なの)?」

 ぶしつけとは思ったが質問した。ただ「どんな関係」という意味がどこまで通じたかは自信が無い。ネコの言葉は理論的な意思疎通には向いていないからだ。

「ニニャ(放っといて)」
と洋子は僕の方を振り向かずに抑揚のない低い声で答えた。その言葉にはあの白猫と同じように僕を邪魔者と見なす響きがあったので、僕の心は傷ついた。こうやって僕をトリップに連れて来たのだから、友達のネコと会ったら僕を紹介するなりして、僕が安心して過ごせるように気を遣って欲しかった。ただ、僕が結愛にじゃれついたのを見て腹が立ったのなら責められないが……。

――アレッ!? もしかして……。

 僕は「ある違和感」に気付いた。昨日初めて洋子と会話した時に「私、ネコなの」と言われて、受身の側のレズと勘違いしたが、もしかしたら洋子は実際にレズなのではないだろうか? 勿論受身ではなくタチの側のレズだ。そう考えると思い当たるフシがあった。昨日と今日、僕は洋子と至近距離で接して来たが、普段他の女子と接した時に感じる柔らかで繊細な女性らしい色気というか、女子が相手なら強弱の差はあれ感じるはずの異性感が感じられなかった気がする。洋子が好きなのは女性であり、僕に対して友達として好感を抱いた可能性はあるが、異性としての興味を感じないのではないだろうか? 

 僕の方は彼女をカッコよくて素敵な女子であり、美しくて身体能力が卓越したメスネコだと感じ、結愛ほどではないにしても異性としての憧れを感じ始めていただけに、やっぱりレズだったのかと思うとがっかりした。

 洋子は僕の気も知らずに悠然と歩いて行き、僕は彼女への不信感をくすぶらせながら数メートル後から匂いを追って歩いた。

 信号のある角を右に曲がった所で
「ワンッ」
と吠えられて我に返った。

 象のように巨大な犬だった。咄嗟に道の左端へと飛びのいたが、足がガクガクして、毛が逆立った。いつでも逃げられるように身体を斜めに構えた。自分の尻尾が真上に直立しているのが分かる。飼い主がロープを引っ張っているから僕には届かないが、もし飼い主が手を緩めたら食い殺されるかもしれない。

 僕は虚勢を張り、斜めに睨みながら距離を保って犬の前を通り過ぎようとしたが思うように足が動かなかった。

「ワンッ!」
ともう一度吠えられて、頭に血が上り、毛が抜けそうなほど逆立ち、尻尾は天を突いた。

「風見さん、助けて!」
という叫びが「ニャーン、ニャーン」と口から出たのは自分でも意外だった。

 その時、銀色に輝くネコが人影から矢のように飛び出して犬の尻尾の側に立ち、尻尾を立てて「ニャーーッ」と犬を威嚇した。その時ほど洋子が頼もしく見えたことはない。犬は僕に尻を向けて洋子に大声で吠えた。今にも飛びかからんばかりの勢いだったが飼い主の手はしっかりとロープを握っていた。仮に手を放しても洋子は確実に身をかわすことが出来るだろうと思った。それほど洋子が強く見えた。

 冷静さを取り戻して観察すると、犬はパッとしない感じの中型犬だった。成猫せいびょうとしては小型な部類の僕から見ると象のように巨大と言って間違いではないが、それは恐怖のなせる業だった。

 洋子が僕に
「ニニャッ(あっちへ逃げろ)」
と言った。

 僕は洋子が目で示した方へと走り、角を曲がって物陰に身を隠した。

 しばらくすると、気付かないうちに洋子が僕の後ろに立っていて、背後からじゃれついてきた。

「ニャーン」
と僕は心からの感謝と尊敬を示しながら洋子に身体を擦りつけた。

 洋子は僕の背中にしつこくじゃれついた。首筋を噛まれると頭の中が白くなるほど気持ちがよくなって、背中に乗っかかる洋子の暖かさに陶酔しそうだった。

 もし意地悪そうなおばあさんにほうきで追い立てられなかったら、僕は洋子に抱かれるようにして眠っていたかもしれない。

「ニャーッ(帰るぞ)」
という短い言葉で我に返った。

「ニニャ」
と言って洋子は元来た道を小走りで戻り始めた。「もうすぐ時間だ」という意味だった。トリップが終わりに近づいたと言っているのだ。もうすぐ時間だとどうやって知ったのかは分からないが、とにかく洋子のアパートに早く帰らなければならない。もしアパートに辿り着く前に変身が解けたら、僕たちは全裸の男女としての姿を公衆の目に晒すことになる。

 狭い路地を駆け抜け、塀の端に飛び上がって忍者のように塀を走り、屋根を伝って洋子のアパートの猫の出入り口へと突入した。

 僕の身体はまだ火照っていて、敢然として僕を犬から守ってくれた洋子への感謝と憧れで一杯だった。僕は身体を洋子に擦り付けた。

 背筋をジリジリと違和感が這いあがった。
「ニギャン」
「ニャー」
 洋子は「もうすぐだ」と言っている。洋子は僕より先にこのジリジリとした違和感を感じたから、もうすぐ変身が解けることが分かったのだ。

 すると、洋子の身体が膨らみ始めた。見る見るうちに毛がなくなって白くて潤いのある若い女性の肌へと変化した。洋子はあっという間に全裸の十七歳の少女に変身した。

 巨大な洋子が気を失ったまま、僕の目の前に全裸でうつ伏せになっている。洋子が先に人間に変身するということは、僕はネコとして全裸の女子と相対するということだ。僕の心はまだ洋子への感謝と憧れで一杯で、いけないこととは分かっていたが洋子の胸の横へと身体を摺り寄せ、乳房の付け根部分に舌を這わせた。僕の身体が燃えるように熱くなってくるのが感じられた。このままだとネコの僕が人間の洋子を犯すことになりかねないが、僕は自分を抑えられない……。

 でも、心配したことは起きなかった。自分が勃起していることは否が応にも意識していたが、自分の股間を見ようとしても、肝心の物は身体の陰に隠れているのか見えなかった。ネコのものはずっと後ろの方に生えているのだろうか。手を伸ばして触ろうとしたがそれらしきものには行き当たらなかった。ネコの身体は手でそれをもてあそべるようには出来ていないのだ。

 手を股間へ伸ばそうともがいているうちに身体が膨らみ始めた。見る見るうちに腕から毛が消えて手の指が伸びていく。あそこに届きそうだ……。頭が朦朧としてきて、スーッと意識が遠くなった。

 

 気が付くと洋子はジャージーに着替えて、牛乳を飲んでいるところだった。

「早坂君ったらエッチな格好で人間に変身していたわよ。私の部屋で変な事をしないでよね」

 僕は耳まで真っ赤になってトイレに駆け込んだ。

「早坂君の服はここに置いておくわよ」
 洋子が服をドサッと床に置く気配がした。

 トイレを出てパンツをはき、学校の制服に着替えた。地面を四つ足で歩いたから手足が汚れているだろうと思って、まず石鹸で手を洗ったが、不思議なことに全く汚れていないようだった。足の裏を見ると清潔そうだったのでそのまま靴下をはいた。

 僕は洋子に感謝の気持ちを表したかった。
「さっきは助けてくれてありがとう。色々ごめんね」

 結愛にいちゃついたことと、白猫との関係を疑ったことについて謝りたい気持ちがあったが、はっきりとは口に出したくなかったので「色々ごめんね」と言った。

「また誘うから一緒にトリップしようね。あ、もうすぐ暗くなるから帰った方がいいんじゃない?」

「うん、次回を楽しみにしてる」

 今日の冒険旅行のことについて洋子と会話をしたかったが、僕は思いを振り切って家路についた。

 夕暮れの道を歩きながら、自分が洋子と恋に落ちてしまったことを痛感した。

第三章 嫉妬

 トリップの体験は僕に微妙だが揺るぎのない変化を残した。僕の中にネコとしての自覚が生まれたことが最大の変化だった。漠然と「僕はネコ」という程度の自覚ではなく、自分がしなやかでバネのある身体をしていて、白地に薄茶色の模様がある美しいネコであり、平均より小型な雑種のネコだという確かな自覚だ。

 そんな自覚が、従来持っていた人間としての自覚と併存している。説明するのは簡単ではないが、二つの異なる自覚が共存していると言うよりは、違和感なく併存している。それも並列に両立しているのではなく、重なり合いながら自然に併存しているのだ。重なる部分は僕の魂そのものであり、そこから人間としての存在形態での自我と、ネコとしての存在形態での自我が枝分かれしていると言った方がいいかもしれない。

 今の僕の意識の中でネコになった時の自分のイメージは、人間の時の身体のイメージと似ている。僕の身体はしなやかで、バネがあって、やや細身で、平均より小柄で、白っぽくて優しい輝きがある。そして、僕は美しい。それはネコになるまで自覚していなかった点だが、美しいという自覚が生まれただけでもトリップに出た価値があった。

 ネコになった時の洋子とのコミュニケーションはとても新鮮だった。ネコの会話はニャーンとかニャニャーンなどの短い言葉をベースに、声の高低、音色、響き、口調、表情、視線、身体の向きを含む細やかな仕草などの組み合わせにより取り交わされる。複雑な理論的表現は困難だが、情緒や微妙な意向を伝えるには十分だ。いや、微妙な気持ちを表すのには人間の言語より豊かかもしれない。

 ネコとしての自覚が生まれたことでマイナスになったのは犬への恐怖だ。殆どの場合、相手はロープで繋がれているので危害を受ける可能性は低いのだが、頭で分かっていても毛が逆立つほどの恐怖に襲われる。幼少の頃、真っ暗な所に行くと得体のしれないものの存在を感じて恐怖に怯えた記憶があるが、その恐怖が二桁パワーアップした感じだ。

 人間が暗闇に怯えるのは死者の霊、悪霊、幽霊、その他得体のしれない悪いものの存在を感じるからであり、おそらくそれは太古の記憶から来ている。ネコの場合は犬の餌食となった太鼓の記憶から来ているのだろうか。恐怖とは脳を持つ動物が何らかの形で不可避的に持つ特性のひとつだと考えた方が御しやすくなるという気がした。

 僕の母と姉は犬が近くを通ると、見ていて滑稽なほど怖がる。母と姉の犬に対する恐怖が、僕と同じようにネコの素質を隠し持っているからなのかどうかは不明だが、母や姉と似たDNAを持つ僕はネコの自覚を得るまで犬への恐怖は無かった。その点を考えると、女性は男性に比べて太古からの恐怖の記憶が強いと言える。

 しかし、洋子は勇敢だった。オスネコの僕が恐怖で金縛りになっていたのを、メスネコの洋子が敢然と救ってくれた。ということは、メスがオスより太古からの恐怖の記憶に強く支配されているという僕の仮説は間違っているかもしれない。

 

 翌朝、校門を入った所で小林結愛と目が合った。僕は結愛の近くまで行って笑顔で「おはよう」と声を掛けた。昨日腕に抱かれた時に手足で感じた結愛の胸の弾力が鮮やかに蘇った。エッチな意味ではなく、結愛がとても身近な存在に感じられたのだ。

 結愛は戸惑った様子で「おはよう」と答えた。昨日までほとんど言葉を交わしたことがない男子から親し気に挨拶をされたことに当惑しているのだろう。僕はその様子を見て、まずいと思い、彼女から離れた。

 もし自分が抱き上げたネコが僕だったと気づいたら結愛はどう思うだろうか? 僕に親しみを感じるようになるか、或いは胸を触られたことを思い出して平手打ちを食らわすか……。後者の可能性が高い気がするが、昨日までの僕なら結愛に近づくだけでもドキドキしたし、授業中は斜め後ろからチラチラ見るのが精一杯だったのに、ネコの自覚を持った今は余裕を持って結愛と接することができる。不思議なことだ。

 休み時間に廊下で会ったら、僕は臆することなく結愛に微笑みかけられる。結愛の反応が面白くて、三時間目の後の休み時間にはわざと至近距離まで近づいてから微笑んでみた。

 結愛は僕のことを気にし始めたのか、昼休みにトイレを出た所で結愛の方から僕に近づいて来た。

「雨が降りそうね。六時間目は体育なのに」

 今まで一対一で会話を交わすことなど夢のまた夢だった憧れの女子から声を掛けられて、以前の僕ならチャンス到来とばかりに必死で話をしたところだったが、僕は彼女を軽くいなした。六時間目の体育は男女合同ではなく、男子は体育館でバスケだから、そんなことを言われても会話のネタにならない。

「そうかな」
と窓の外の空を見て答えただけで、僕は彼女の顔も見ずに教室へと引き返した。

 すると、五時間目の日本史の時間に意外なことが起きた。僕は真面目に先生の話を聞いていたのだが、結愛が時々僕の方にチラチラと視線を向けることに気付いた。僕が授業中に結愛を見たければ右斜め前に視線を向けるだけで済むが、結愛はわざわざ左斜め後ろに顔を向けなければ僕を見ることができない。後ろの席の友達にはマルわかりだし、先生から見咎められるリスクを冒してまでそんな行動に出るのだから、よほどの衝動を感じているのだろう。

 結愛がそうなった理由を僕はネコとして本能的に知っていた。何度か至近距離まで接近したり身体を摺り寄せた後で疎遠にすると、相手の方から思いを寄せてくることが多い。ネコにとっては相手の興味をひくための基本行動であり、僕は無意識のうちにそれを実践したのだ。

 ただ、結愛が唯一無二の憧れの対象という意識はなくなった。結愛は今も非常に好ましい女子であり、ネコとして抱いて欲しい人間のナンバーワンかもしれない。しかし、ネコの自我を持った今は結愛にドキドキしなくなった。恋に関してネコの方が人間よりも冷静なのだろうか? 動物の方が性欲に強く支配されるはずだから、結愛に対して以前の僕よりクールになるはずがないのだが……。

 一方、洋子の姿が目に入ると、訳もなく不安な気分になったり、お腹の中が熱くなったり、背筋がビリビリする。以前結愛を見た時に湧き上がっていたのとは全く異なる症状だから、憧れの女子が結愛から洋子に代わったということでは無さそうだ。犬に吠えられて身動きできなくなったのを助けられたことをきっかけに僕の自我のネコの部分が洋子に恋するようになったのは確かだ。洋子を見ると急にイライラが高まるのは、オスネコの性感がそういうものだからなのだろうか? 

 ネコには発情期があると雑誌か何かで読んだことがあった。僕が洋子を見た時に湧き上がるイライラ感は発情によるものかもしれない。本来の発情期とはメスの排卵期だが、オスは発情期のメスを前にすると性的衝動を感じる。ということは、メスネコとしての洋子が発情期に差し掛かっており、そんな洋子がオスネコである僕に性的興奮状態を引き起こしているのかもしれない。

 洋子は学校では僕に近づかず、話しかけようとはしなかった。昨日は洋子の方からトイレの前で背後から覆いかぶさるように接触してきたので当惑したが、あの時の感覚を思い出すと胸が熱くなってイライラ感が高まる。そうか……。洋子はわざと疎遠にしているのかもしれない。トリップ中に僕を犬から助けて僕が恋に落ちたことを洋子は知っており、今日一転して疎遠な態度を取ることで自分への思いを高めさせようとしているのだ。それはネコが生まれつき持っている性向であり意識して駆け引きに使っているのではないかもしれない。メスの方がよりその傾向が強いと聞いたことがあるので、洋子の術中に落ちないように注意した方が良さそうだ。

 僕は次のトリップの誘いを待っていたが、その日には洋子から何のサインも送られてこず、僕の方からも声を掛けなかった。

 

 学校が終わると、僕は神社へと歩いて行った。洋子のように人間の状態でネコと会話できるかどうか試してみたかったからだ。神社の周辺には野良猫が沢山うろついているし、人がまばらなので僕がネコと顔を突き合わせてぶつぶつ言っていても大丈夫だ。商店街でネコ相手にニャーニャー言っている所を友達に見られたら非常にまずい。

 賽銭箱の横に座っているネコを見つけて近寄った。ブチのメスネコで雑種猫だった。僕が近づいても悠然と座ったままで、いかにも僕には興味が無いという様子だったが、実際にはこの猫は僕と話したがっていると感じた。

 僕はそのネコの横にしゃがんで、返事してくれなくてもいいという感じで言ってみた。

「ニャニャーン(雨が降りそうで降らないよね)」

 彼女は僕に目を向けずに答えた。

「ニャンニャ(どっちでもいいんだけど)」

 僕のネコ語が通じたことが分かってうれしかった。

「雨は好き?」

「まあまあ好き」

「僕のことが怖くないの?」

「怖くないわよ。ネコでしょ?」

「僕がネコだって分かるの? こんなに大きい人間なんだよ」

「実際は私より小さいじゃないの」

 彼女には人間としての僕の姿とネコとしての姿の両方が見えていると分かった。

「僕のネコとしての姿が見えるの?」

「薄茶色っぽい雑種に見えるけど」

「僕と同じように人間の恰好をしているネコを他に知ってる?」

「時々見かけることがあるわ」

「僕の同級生でロシアンブルーのネコなんだけど」

「知ってるわ。大きくてすらりとしていてすっごくカッコいいロシアンブルーね」

 彼女が洋子に好意を抱いているのは明らかだった。洋子がメスネコを好きなのは洋子の勝手だが、一般的なメスネコから見て洋子がそんなに憧れの目で見られていることを知って驚いた。

「やっぱり、ネコどうしでもそう見えるんだ」

「そりゃそうよ」

 その時、杖を突いたおじいさんが賽銭箱の所にやって来たので僕はやしろの裏側へと回り、ブチのメスネコはどこかに行ってしまった。

 小雨が降り始めたので千年杉の下で雨宿りした。今朝折りたたみ傘を鞄に入れずに家を出たことを後悔しながら立っていると、やしろの横の方から真っ白なネコが歩いて来た。洋子の友達のネコだと一目で分かった。彼女は悠然とした足取りで僕の目を直視しながら歩いて来た。僕が誰だか気付いているのは間違いないと思った。

 彼女は僕から数十センチの距離まで近づいて、もと来た方向に目を向けて座った。僕には全く興味が無いことを誇示するかのような、凛とした姿だった。

 僕は彼女に敬意を表してその場にしゃがみ、挨拶をした。

「ニャニーン(昨日は失礼しました)」

「ニャン(えっ、昨日会ったかしら)?」
と彼女は白々しく答えた。

「僕のロシアンブルーの友達と遊んでいるところを邪魔しちゃって」

「ああ、あんたは人間の女に抱かれていた雑種猫か」

「僕の友達とは前から知り合いなの?」

「知り合い? あんたこそあの人の何なのよ?」

「同級生だけど」

「あの人に手を出さないで」

「手なんか出してないけど」

「私のものに手を出さないで」

「メスどうしで何を言ってるの?」

「ハア? あんたなんか鼠にかじられて死んじまえ!」

 白猫は尻尾を天に向けて毛を逆立て、敵意をむき出しにして僕を見た。

 僕は一瞬たじたじとなったが、嫉妬のような感情が湧き上がって言い返した。

「レズのくせにお前こそ犬に食われて死ねばいい!」
と言うつもりだったが、言葉がもごもごと口に詰まった。ネコ語でレズをどう表現すればいいか言葉や身振りを考え出そうとして右往左往してしまったのだ。

「バーカ、チビの雑種のくせに!」
と彼女は軽蔑の視線を僕に向けて立ち去った。抜けるように白い後姿の美しさに激しい嫉妬を覚えた。

 頭に血が上って、髪の毛が静電気を帯びたように立っているのが分かった。白猫に言い負けたのが悔しかったし、それ以上に彼女の方が洋子と親しいかのようなそぶりを見せられて焦りと苛立ちでムカムカした。

 しばらくすると気持ちがだんだん鎮まってきて、同級生の女子を巡ってメスネコと張り合おうとした自分がバカバカしくなった。しゃれにもならない三角関係だ。

 雨が小降りになったので、家まで走って帰った。


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