失われたアイデンティティー(TS小説の表紙画像)

失われたアイデンティティー

【内容紹介】主人公の間宮は商社の課長。美人派遣社員の歓迎会の後、酔った彼女をタクシーで家まで送る役割を引き受ける。アパートの玄関のドアの前までのはずが、彼女の誘いに乗って部屋に入りココアを飲むと気が遠くなった。病院のベッドで目が覚めた時、間宮は彼女の体になっていた。迫真のTSサスペンス小説。

第一章 危険な派遣社員

 いつになく浮沈の激しい日だった。

 午前三時にキックオフしたワールドカップのベルギー戦の録画を、五時起きで見た。二対ゼロになって有頂天になっていたら、ベルギーの左からのふわっとしたヘディングがキーパーの頭を超えて入った。間もなく二点目が入り、終了間際に三点目を入れられて負けてしまった。

 もし三点目が入らず延長戦になっていたら、スマホのニュースを電車の中で見て結果を知る羽目になっていたところだった。録画を最後まで見たら会社に遅れるからだ。負けたおかげで私は部下たちに午前三時からリアルタイムで観戦したふりをすることができる。

 そんなことを考える自分はせこいなと思いながら出勤し、パソコンを立ち上げると、部下の花村純子から
「お話したいことがあります。お時間いただけますでしょうか」
という短いメールが入っていた。

 花村純子は短大卒で入社二年目の一般職社員だが、フロアで最も人気がある女性だ。美人ランキングがあるわけではなく私の主観による順位だが、ショートボブがよく似合う小顔でセンスの良い女性で、愛想が良いだけでなくちょっとした会話がウィットに富んでいる。去年の暮れの部の飲み会で隣の課の男性社員から好きなタイプの男性について質問された際に「うちの課長みたいな人」と答えていたのが漏れ聞こえて心が躍った。純子は私に聞こえるのを承知の上でそう言ったのだと思った。計算高いのではなく、わざとそんな手法で気持ちを伝える能力を持つ女性だった。

 会議室管理システムで一時間後の午前十時からの小会議室の予約を入力し、自動通知で純子に知らせた。純子はパソコンの画面から目を上げ、一瞬私に顔を向けて微笑んだ。お互いの意思が通じた瞬間だった。純子からのメールにわざわざ返信するのは無粋だと思ったので返信はしなかった。

 純子は私に何を話したいのだろう? 職務上の不満、他の課員とのトラブル、先輩社員からのハラスメントの訴え……。
 もし「好きです」と告白されたらどうしよう。私のような男性がタイプだと言っていたことだし、二十歳の年齢差は決定的な障害にはならない。しかし不倫はまずい。課長が自分の娘のような年齢の部下と関係を持ったことが露見したら私のサラリーマン生命は危機に晒されるだろう。結構いい関係を保ってきた妻を裏切ることにも良心の呵責を覚える。

 早めに会議室に行き、不安と期待が交錯する胸の内を表情に出さないようにと深呼吸をしていた時に花村純子が入ってきた。

「ベルギー戦は見られました?」
と言いながら純子は私の向かい側の席に座った。

「勿論。昨日の夜は十時に寝て、今朝早起きして見たよ」
 三時に起きて実況を見たと純子は受け取ったかもしれないが、私はそうは言っていないから嘘をついたわけではない。

「私は渋谷のパブリックビューイングに行ったから一睡もしてないんです。惜しかったですよね」

 いぬいのシュートについて解説しようかとも思ったが、サッカーの技術論を振りかざしても、純子なら興味があるフリをして私に合わせてくれるだろうが、好感度にはつながらないと判断した。それよりも、純子が誰とパブリックビューイングに行ったかが気になった。

「いい試合だっただけに悔しいよね。一緒に行った人も悔しがっていただろう?」

「あら、課長。男性じゃないですよ。アッちゃんと二人で行ったんですぅ」
と、純子は私の嫉妬を見抜いたかのように意地悪な微笑を浮かべて答えた。

「ああ、君のところによく来る、経理のアツコさんね」
 私は何気ない表情で平静を装う。

「今日お話ししたかったのはワールドカップの事じゃなくて……」

「あ、そうだったね。気兼ねしないで何でも言ってくれ」

 数秒間の沈黙の後、純子は私の目をじっと見て真剣な口調で語り始めた。
「私、すごく悩んだんですけど、ワールドカップの日本代表から勇気をもらって、課長にお話しする決心がつきました」

 私の心臓は純子の耳に届くほどの音を立てている。純子は私に告白しようとしているのだ。次の言葉を聞くのが怖かった。

「私、会社を辞めます」

「ええっ!」

 自分の耳を疑った。「好きです」ではなく「辞めます」とは!

 絶頂まで引っ張り上げられてドスンと落とされた気持ちだった。まるで今朝のベルギー戦と同じだ。

「結婚するのか……」

「うふふ、寿ことぶきじゃないですぅ。私、彼氏いない歴三ヶ月で、募集中ですよ、課長」

 純子は誘惑の視線で私をあしらった。

「じゃあどうして辞めるんだ? パワハラは無いと思うが、セクハラじゃないだろうな?」

 パワハラは自分も部下も決してしないように気を配っているので自信があったが、セクハラは被害者本人にしか気づきにくい面があるので心配だった。

「鈴木さんのことですか? あのくらい、どうってことないですよ。あ、これ、鈴木さんには内緒ね」

「辞めたい理由を教えて欲しい」

「会社に不満はありません。ていうか、快適過ぎるんです。だから私、冒険したくなったんです。今までとは別なライフスタイルを経験したいというか……。課長もそんな気持ちになったことってありません?」

 それは分からないでもない。何もかも捨てて純子と駆け落ちをするとか……。

「会社に勤めながら、アフターファイブや休日に冒険することも可能じゃないか。そうだ、五日間連続の夏休みを取って前後に土日をくっつければ九連休になるぞ」

「九日間が終わったら、元の生活に戻るというのではダメなんです。例えば香港の家庭に住み込みのメイドとして働こうと思ったら、一年は欲しいですよね」

「香港で住み込みのメイドだって? フィリピン人の出稼ぎ女性みたいに? 大事に育てられた日本人のお嬢さんに出来る仕事じゃないと思うよ」

「香港人の奥さんから住み込みの女中として見下されてプライドをズタズタにされて働く……。会社を辞めないとそんな経験ってできないじゃないですか。いえ、これは一つの例えであって、実際に香港に行くつもりはないんですよ。とにかく今までとは違う日常を体験したいんです」

 まるで子供だ……。ナイーヴというか、幼稚と言うか、まだ社会人になり切れていないのだ。子供を相手にする場合、頭ごなしに否定するのは逆効果であり、やんわりと翻意を促すしかないと思った。

「ご両親も心配されるんじゃないかな」

「親には今夜話します。今朝ベルギー戦を見て渋谷で決心した後、まだ家には帰っていませんから。親はどちらかというと私のすることには理解がある方ですから、何たらかんたら言った後でサポートしてくれるはずです」

 こんな娘を持つと親も大変だろうと思った。

「君の気持ちは分かったが、ご両親とか友達とか、よく相談してから最終決断した方がいいと思うよ」

「あ、退職届はさっき勤務システムに入力しておきましたから人事部にはもうコピーが行っています。課長と部長が承認をクリックしたら手続きが完了するはずです。ボーナス月の退職で恐縮ですけど、引継ぎ期間と有休残の消化を考えて七月末退職ということで」

 顔には出さなかったが私の心はポキッと音を立てて折れた。あまりにも冷淡な最後通告だった。

「じゃあ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんがよろしくお願いします」
と言って花村純子は会議室から出て行った。

 私はしばらく立ち上がる気力がなかった。ベルギー戦と同じくらい、いやもっと取り返しがつかない種類の喪失感だった。

 しかし、ぼやぼやしてはいられない。入社二年目の一般職といっても定型業務を引き継ぐには少なくとも一週間はかかるだろう。補充要員の確保が喫緊きっきんの課題だ。私は会議室の電話機から人事課長とアポを取って人事部に出向き、事情を説明して人員補充の要請をした。

「残念ながら現時点で異動させられそうな一般職女性は居ませんね。定年延長の高年男性で良ければ二、三人ほど心当たりがあるんですが……」

「それは勘弁してください。二十歳の女の子の代わりに六十を超えたオジサンが来たら若手男子社員の労働意欲が急低下します。それに営業部門で中高年男性がお茶出しをしたらお客さんが逃げてしまいます」

「そういうことなら当面は派遣でしのいで、来年四月に新卒一般職を補充するしかないでしょうね」

「そうですか。じゃあ、派遣の手配をお願いします。できれば若い美人を」

「間宮さん、一般事務の派遣を依頼する際に『若い美人』という条件は付けられません。人事部の基準によって派遣を手配しますのでお任せいただくことになります。まあ、今回は急ぎということなので多くは期待しないでください」

「部下たちの勤労意欲のためです。何とかよろしくお願いします」
と、もう一押ししておいた。

 

 翌日の午後、人事課長から「派遣社員の件」というタイトルのメールが入った。

「通常は少なくとも一週間のリードタイムが必要ですが、たまたますぐに勤務可能な人材が見つかり、今朝面談を実施した結果適切と判断したので、明日から派遣開始となりました。プロフィールを添付します」

 メールには綾瀬レイナという女性の写真付きのプロフィールが添付されていた。派遣会社のフォームのプロフィールであり、生年月日や学歴など、通常の履歴書に書かれている内容は記載されていなかった。写真は冴えない表情だったが可もなく不可もなく、二十代前半の普通の女性という印象だった。私と部下の男性の勤労意欲が急低下するようなオバサンでなかったことにほっとしたが、身長体重等の記載はないので、現物を見るまでは何とも言えない。まあ、人事部で面談した上で判断したということなら、極端に態度や愛想が悪いということは無いだろう。

 花村純子を呼んで「明日木曜日の朝から派遣社員が来ることになったから引継ぎを始めてくれ」と言ってから、課の全員あてに純子の退職と派遣社員の採用に関するメールを送った。純子ファンだった課長代理の鈴木省一は「本当ですか!」と落胆の呻きを上げたが、他の課員は純子が退職することについて先刻承知の様子だった。

 

 七月五日の木曜日、私は期待に胸を膨らませて出社した。九時半に人事課長が若い女性を連れて部屋に入って来たのを見て、私は息を飲んだ。

 私の左前方の席の鈴木課長代理はポカンと口を開けて虚ろな目を彼女に向けている。彼女が目に入る位置に座っている男性の表情は多かれ少なかれ鈴木と同様だった。彼女は部屋全体の雰囲気を白けさせるような種類の女性だった。二十二、三歳で百六十三センチ程度のスラリとした美人だが、何かアンバランスで場違いな感じがする美しさだった。目の上ギリギリで切りそろえられた重めの前髪が醸し出すはずのキュートさが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されていた。彼女が放つ人を寄せ付けないオーラが私を不安にさせた。

「間宮課長、こちらが派遣の綾瀬レイナさんです」
 人事課長がそう言って彼女を私に引き渡してから「文句ないでしょう?」と言わんばかりにニヤリとした目で私を見て立ち去った。

「綾瀬レイナと申します。よろしくお願いいたします」
と、投げやりな雰囲気でその美人はお辞儀をした。裾の部分だけ軽くウェーブがかかったロングヘアが前に揺れる。染めているのか地色なのか判断できない茶色がかった髪だ。

「課長の間宮孝太郎です」
と自己紹介をしてから課員の一人一人を紹介し、私から一番離れた席に座っている花村純子の向かい側の席に綾瀬レイナを座らせた。

 私が席に戻ると課長代理の鈴木がヒソヒソ声で私に聞いた。

「課長、あんな美人をどうやって連れて来たんですか!?」

「まあ、色々あってね」
と私は思わせぶりに答えた。

「歓迎会をやらなきゃ。課長のご都合の悪い日を先に教えてください」

「私の予定は全てオンラインのスケジュラーにインプットしてあるが来週の水曜日以外は特に予定は入っていない。ただ、派遣社員の場合、五時半以降は拘束できないし、飲み会の費用の負担を求めるのも色々問題が……」

「そこらへんは心得てますよ。うまく話しますから僕に任せておいてください」

「くれぐれも無理強いをしないように頼むよ……」

 

 花村純子と綾瀬レイナはうまくやっているようだった。アイドル的な可愛い子がタイプの違った美人と火花を散らさないかと懸念したが、杞憂だった。純子にすれば短期間の付き合いだし、レイナは大人だから大丈夫だろう。

 純子はレイナを他部門の担当者に後任として引き合わせるために社内を回り始めたが、私は内心誇らしい気持ちだった。というのは、純子は他部門の部課長連中にもファンが多く、彼らから私に「アイドルの後任にあんな美人を引っ張って来るとは凄腕ですね!」と言ったたぐいの賛辞が寄せられたからだ。

 五時を回った頃、鈴木課長代理から課の全員あてに綾瀬レイナの歓迎会の案内のメールが送られた。翌日金曜日の午後六時から近くのインド料理店で開催するとのことだった。

「新人女性の歓迎会がインド料理というのは珍しいね」

「綾瀬さんに何が食べたいかと聞いたら、スパイシーなものが好きとのことだったのでインド料理にしました。ちなみに、綾瀬さんからは会費を徴収しないことになっています」

 鈴木は仕事に関しては頭が固い傾向があるのだが、私と違ってこの手の飲み会をアレンジする能力が高いことには感心させられることがある。

 

 金曜日は普段より十分ほど早く出勤した。いつも会社の近くのコーヒーショップで日経新聞の電子版を読んだり海外の金融市場の動きをチェックしてから出勤するのだが、今日はつい早めにコーヒーショップを出てしまった。会社に行けば綾瀬レイナと会えるという気持ちで年甲斐もなくドキドキしている自分に気づいて失笑した。去年花村純子が入社して私の課に配属になった時も会社に来るのが楽しくなったが、その時の気持ちとは違う、焦燥感の混じった憧れを私は感じていた。

 仕事をしていてもつい目を上げてレイナの顔をチラチラと見てしまう。これではいけない、我慢しようと思うほど、私の視線は勝手にレイナに吸い寄せられた。レイナには他の女性には無い特徴があった。それは表情を変えないということだった。昨日は初めての職場だから緊張しているのだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた。表情には余裕があり、ものおじした様子は全くない。きつい目をしているわけではないが、私の見る限り一度も笑わなかった。

 ただ、純子とレイナの席は私から三列離れた末席であり、私はかなり離れた場所から横斜め顔を見ているにすぎないので断言はできない。仕事中は仕事に集中し、オフになれば喜怒哀楽を顔に出す女性も居ないわけではない。見えない所では純子と笑顔で話しているのかもしれないと期待した。

 待ちわびた夕方になり、レイナは五時半に席を立ったが、私は他の男性課員と一緒に六時十分前に席を立ってインド料理店へと向かった。インド料理店に行くと十人掛けのテーブルが予約されており、鈴木の計らいで私はレイナの対面の中央の席に座ることになった。

 黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツに、黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいたレイナは、会社での制服姿と違って、奔放さを匂わせる大人っぽい雰囲気が感じられた。表情にも余裕と隙が見える気がした。

「綾瀬さんは怖いタイプの美人かなと思ったけど、そうでもなさそうだから安心したよ」
と、乾杯の後で鈴木がレイナに言った。やはり鈴木も私と同じように感じているのだ。

「『美人』ではないですけど、怖い女というのは当たっているかもしれませんよ」
と、レイナは虚ろな目を鈴木ではなく私に向けて言った。

 私は反応を返す必要性を感じて苦し紛れにコメントした。

「他部門の部課長連中から電話がかかって来て『アイドル的美少女の後任にあんな美女を採るとは間宮さんもすごいな』と冷やかされたよ」

 レイナから一人置いて奥の席に座っている花村純子が私のコメントに笑顔を返したのが見えてほっとした。大体のところ女の子と飲む時は褒めておけば大失敗はしないものだ。

「私、自分の醜さはよく分かっていますから」
とレイナは、私ではなく鈴木の目を見ながらポツリと言った。

「アハハハ、綾瀬さんが醜いのならこの世の女性は全員がブスということになるよ」
と鈴木が周囲を見回しながら大きな声で言った。その言葉が純子と三十代半ばの総合職の羽田菜緒にかなりの不快感を与えたことを鈴木は気づいていない。

 レイナの「自分の醜さ」という言葉が妙に引っかかった。謙遜なら醜いという表現は使わず「きれいではない」とか「他にずっときれいな人がいる」などと、周囲の女性たちの反感を招かない言い方をするものだ。それ以上に、レイナが本気でそう言ったことが表情で分かった。昨日の朝初めてレイナを見た時に感じたアンバランスさや場違い感と相通じるものがあった。

 白けた沈黙の後、鈴木が花村純子としゃべり始めたのを横目に、私はレイナの先ほどの発言を受け流すつもりで話しかけた。
「美人だと苦労の方が多いかもしれないね。何とも思っていない男や、嫌いなタイプの男から言い寄られたり、ひどい場合はストーカー被害に遭ったり……。次から次へと近寄られるのを断るのに神経をすり減らすんだろうな」

「課長は女性の気持ちが分かるんですね。以前女性だったことがあるんですか?」

 唐突で意外なことを真剣な表情でレイナに言われてうろたえた。

「な、無いよ!」
と答えた後で、そんな質問をまともに受け答えした自分が恥ずかしくなった。

 レイナは私の狼狽を面白がって「うふふ」と笑った。レイナと会って初めて目にした笑顔は嫌味や裏の無い無垢なものに感じられた。私も微笑を返した。レイナとの間にあった壁が、霧が引くように消失した。

 それからレイナは別人のように優しくなった。私以外の課員に対する受け応えにも若干の変化が見られたが、私に対する態度は一味違うと感じた。企業の管理職として、打ち解けにくい新人の心を開けたのは格別な喜びだった。その新人が美人の女性だっただけに、私は女性を扱うテクニックを他の課長連中に自慢したい気がした。

 二時間半があっという間に過ぎた。レイナは自分はそれほど飲んでいないようだったが飲ませ上手で、私はすっかり酔いが回った。飲み会の間、私は殆どレイナだけと話をしていた気がする。課長としては褒められたことでないが、私とレイナの会話には他の課員たちも適宜加わったし、今日はレイナの歓迎会ということで大目に見てくれるだろう。

 勘定は幹事の鈴木に任せて千鳥足でレストランを出た。私の近くに立っていたレイナも脚がふらついているように見えた。

 レストランから最後に出てきた鈴木が「花村ちゃん、カラオケ行こうよ」と純子を誘って軽くいなされた。

「綾瀬さんはかなり飲んだみたいですから、課長にお願いしていいですか?」
と鈴木が私と綾瀬に聞こえるように言った。私が綾瀬を気に入っていると思って気を利かせたのか、それとも若い課員と二次会に行くのに私が邪魔だったからなのかは不明だった。

 最近の世間の風潮だとちょっとしたことでセクハラの嫌疑をかけられかねないので、私は女性を家まで送る役割は御免こうむりたかった。相手が若い美人だとなおさらだった。

 その時、綾瀬が私に身体を寄せてきた。
「すみません、課長。本当に送っていただいてよろしいんですか?」

 私は反射的に「勿論だよ。私は安全な人間だから心配するな」と答え、タクシーを拾ってレイナを乗せた。私も乗ってタクシーのドアが閉まった。

「ええと、綾瀬さんの家は確か東の方だったっけ?」

 レイナは「はい」と答えて、深川の住所をドライバーに告げた。タクシーが走り出すとレイナは私に軽く微笑んでから目を閉じた。レイナと言葉を交わさなくてもいい状況になって私はほっとした。二人きりで何を話せばいいか想像がつかなかったからだ。

 二十分ほど走ってタクシーは薄暗い通りにある集合住宅の前に停車した。その時、レイナが疲れた様子で私に言った。

「すみません、気分が悪いので部屋まで送っていただけないでしょうか」

 断れるはずがなかった。タクシー代を払うとレイナに肩を貸してアパートの玄関を通り、エレベーターまで歩いた。レイナの足取りはしっかりしており、肩を貸さなくても大丈夫そうだったが、レイナは私の肩に手を回したまま歩いた。相手が男なら肩か腰を抱きかかえて支えるところだったが、私は手を下に垂らしたままだった。

 エレベーターを五階で降りて五〇五号室の玄関ドアの前に立った。玄関の鍵は番号入力式の見慣れない電子ロックだった。レイナが四桁の番号を入力するとカチッとと音がして解錠された。

「じゃあ、ここで失礼するよ」
と言って、私はエレベーターへと引き返そうとした。

「待ってください、課長。お願いですから少しだけお話をさせてください。五分間だけで結構です」

 妻以外の女性のアパートに入ったことはなかった。若い女性のアパートで二人っきりになることには、ドキドキするというよりも、戸惑いの方が大きかった。

「お願いします」
ともう一押しされて
「じゃあ、五分間だけ」
と言って部屋に入った。

 左右に小さなキッチンと洗面所がある廊下の向こうにリビングルームがあり、奥にベッドルームがあるようだった。私は部屋に入ると右側のソファーを示されて腰を下ろした。二人掛けのラブチェアーのようなソファーだった。

「すぐにコーヒーをいれますね」
と言ってレイナはキッチンに行った。きびきびとした様子で、足取りもしっかりとしている。家まで送って欲しいのは私の方だと思って苦笑した。

 部屋を見回して殺風景さに驚いた。緑色のカーテン、シンプル過ぎる安物の家具。夏なのに部屋の隅に火鉢が置いてあった。若くて美しい女性が住んでいる部屋とは到底信じられなかった。女物の服や下着などは一切目に入らない。きっとフェミニンなものは一切合切あのベッドルームに押し込まれているのだろう。ベッドルームのドアを見て、あの向こうはどうなっているのだろうと思ってドキドキした。

 レイナはペアーのデザインのマグカップを手に持って戻って来ると、右手に持っていた赤い方のマグカップを私に差し出した。

「コーヒーが切れていたのでココアにしました。ちょっと苦いココアなんですけど」

 マグカップはそんなに熱くはなく、すぐに飲めそうだった。

「どうもありがとう。これを飲んだら失礼するから」

 レイナは私の右側に腰を下ろし、二人でココアを飲んだ。レイナが身体を少し動かすと腰が触れ合って、私の股間のものがムクムクと大きくなったのが感じられた。早く帰らなければ、と思って、残りのココアを飲み干した。

「私の話を少しだけ聞いてくださいね」
とレイナが私の太股に左手を乗せた。

「もう五分以上経ったから……」

「私、死のうと思っていたんです」

「な、なんだって! こんなにきれいなのに、どうして?」

「若い女の子とか、きれいな女の子とか、スタイルがいい女の子とか言って私を褒める人は大勢いましたが、私を一人の人間として正面から見て『きれい』と言ってくれる方は久しぶりでした」

「そ、それは……。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないよ」

「とても勝手な考え方で、課長さんには本当に申し訳ないとは思ったんですけど……」

「ど、どういうこと?」

「私と一緒に死んでください」

 マズイ! 私はソファーから立ち上がろうとした。

 そう思ったが、手足が動かなかった。身体中にしびれを感じて頭が朦朧としてきた。ココアの中に薬物を入れられたのか……。

「課長、ご一緒してくださってありがとうございます」
 レイナが私に唇を重ねた。私はソファーに倒れ、レイナの体重を感じながら意識を失った。

第二章 レイナ

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。規則正しい電子音が遠くに聞こえる。目を開けると薄暗い部屋のベッドの上だった。私は酸素マスクをつけられていて、腕からはカテーテルが伸びている。ここはいわゆる集中治療室なのだろう。よかった、私は死なずに済んだようだ。若くて美人の派遣社員のアパートで心中するという破天荒な最期は私には似合わない。

 でも、妻に何と言い訳をしたら許してもらえるだろうか……。鈴木に要請されてやむなくレイナをタクシーで送ったことは、自宅に鈴木を招待して鈴木の口から言わせるのがいいかもしれない。それにしてもレイナのアパートに足を踏み入れたのは軽率だった。妻から責められるのは目に見えているが、自分が蒔いた種だから仕方ない。

 今回の出来事で身をもって学んだのは「ヤバイ女は怖い」ということだった。レイナは初めて会った時から普通ではなかった。アンバランスで場違いな感じがして不穏なオーラを漂わせていた。それに美人の度合いがハンパではなく、今から思えば不吉な美しさだった。典型的なヤバイ女にノコノコついて行ってアパートの部屋に入った愚行を悔やんだ。

 それにしても、レイナも死なずに済んだのだろうか? レイナが死んで私だけが生き延びるというのは非常にまずい。私がレイナに無理心中をしかけたと疑う人がいるとは思えないし、鈴木や他の課員たちもそんなはずがないと供述してくれると思うが、やはりレイナが自分の口から経緯を白状してくれなければ困る。レイナがありのままを警察に話してくれれば、私が善意の被害者であることが証明されて会社でも問題にはされないだろう。

 しかし、レイナのアパートに足を踏み入れたという点については、人事部から文句を言われるのが必至だ。あんな女を私に押し付けた張本人である人事課長から文句を言われるのは極めて遺憾なことだ。二十年近くクリーンなイメージで通して来た私に、不当な汚点をつけたあの女には本当に腹が立つ。

 憤懣やるかたなかったが、生きているからこそ文句も言えるのだと思うと、怒りは段々消えて行った。年増のブサイクな女について行ったのなら社内で失笑を買うだろうが、あれだけの美人から一緒に旅立つ相手として選ばれたということで、従来の私のイメージとは違う箔が着くかもしれない。そんなことを考えているうちに眠りに落ちた。

 

 目が覚めると朝の光が白いカーテンに差していた。気づかないうちに集中治療室を出て、個室の病室に移されたようだ。軽い頭痛がしたが、昨夜目が覚めた時に感じたけだるさは消えていて、気分は悪くはなかった。

 その時、部屋のドアが開いて四十絡みの看護師が入って来た。看護師は私が目を覚ましたことに気づいて微笑んだ。

「顔色がよくなったわね。お母さんが戻って来たら安心なさるわ」
と言いながら私の手首を握って脈をとった。

 深夜に病院に運ばれたはずなのに、山形の母がどうやって数時間で東京まで来たのだろう? 妻ではなく母が付き添ってくれたのか……。

――あれっ?! 

 看護師に握られた手首が真っ白なことと、その先の手が細くて弱々しいことに気づいてハッとした。私の手はいつの間にこれほど委縮してしまったのだろうか……。不安が心をよぎった。その不安は看護師が体温計を私の脇に挿し込もうとした時に恐怖と化した。

――これは私の身体ではない! 

 看護師の冷たい指が私の胸の柔らかな膨らみに触れた。それは紛れもなく乳房だった。私は自分の手を胸元に挿し入れて入院着を開いた。細くて感性的な手と二つの乳房がある白い胸肌が私の視界に立ちはだかっていた。

「キャーッ」
 自分の喉から洩れた黄色い叫びが恐怖を増幅した。

「どうしたの? どこが痛いの? 胸? 頭?」
と聞きながら看護師がベッドの上の呼び出しスイッチを押した。

 手で顔をまさぐり、フニャフニャした頬の下に長い髪が広がっていることが分かった。恐る恐る手を下腹部から下の方に滑らせて、そこに女の股間があることを確かめた。

 部屋のドアが開いて若い医師が駆け込んできた。

「どうしました?」

 私は何を言っていいか分からず、恐怖の眼差しをその医師に向けた。

「脈をとっている時には平常だったんですが、体温計を脇に挿し込んだら急に興奮した様子になりました」
と看護師が説明した。

「痛みはありますか?」

 私は首を左右に振ることでその質問に答えた。医師を前にして私は徐々に落ち着きを取り戻した。

「私は誰なんですか?」
 私の口から出たのは若い女の声だった。

 医師と看護師が目を見合わせた。

「あなたは綾瀬レイナさんです。練炭自殺を図ったところを発見されて救急車でこの病院に運ばれました。覚えていませんか?」

――まさか……! 

 私の頭は極度に混乱していた。私はレイナと入れ替わってしまったのか! でも、どうやって? 自分の中身は間宮孝太郎だと訴えようかと思ったが、そんなことを言い出しても狂人扱いされるだけだと思いとどまった。レイナは私に筋弛緩剤とか睡眠薬のたぐいの薬物を入れたココアを飲ませてから、練炭に着火して私と心中しようとしたのだろう。

――私の身体はどうなったのだろう? もし死んでしまったら、私は帰る身体が無くなる……。

 焦りと恐怖で口元が震えた。

「練炭自殺なんて覚えていません。それで……私は一人で倒れていたんですか?」
 自分の身体の安否を確認するためにそう質問した。

「中年の男性も一緒でした。心中を図ったんですね?」

「その男性はどうなったんですか? 生きているんですか?」

「まだICUです。バイタルは安定しているので今日一般病室に移ることになるでしょう。まだ意識は取り戻していません」

「そうですか……」

「思い出しましたか?」

「いいえ、全然。自分が誰かも思い出せないし、そんな男性の記憶もありません」
と私はしらを切った。医師は怪訝そうな顔をしていた。心中の相手について記憶がないはずがないし、記憶がないなら何故その男の容態を気遣うのかと疑っているのだと思った。

「綾瀬さんの身体は順調に回復しているようですから、いずれ記憶も戻るでしょう。焦らずに静養してください」

 医師はそう言って看護師に何やら薬剤名を告げてから立ち去った。精神安定剤でも飲ませようとしているのだろう。私の状況は精神安定剤では改善しないのに。

「後でお薬を持って来るわね。無理に思い出そうとしなくていいのよ。こんを詰めないように、楽しい事を考えて。何かあったらこのボタンを押してね」

 楽しい事とは何だろう? レイナなら、流行の服を着るとか、女友達とショコラティエに行くとか、彼氏とデートをする事を想像すればいいのだろうか? 今の私は元の身体を取り戻す以外に「楽しい事」など想像もつかない。

 それにしても入れ替わりなどというSF小説のようなことが実際に自分の身に起きたことが、まだ信じられなかった。十年ほど前に舘ひろし演じるサラリーマンが、自分の娘と入れ替わるテレビドラマを見たのを思い出した。新垣結衣が娘の女子高生の役で、二人が一緒に電車に乗っている時に事故に遭って、目が覚めたら父と娘の人格が入れ替わっているという話だった。あれは事故の衝撃で二人の身体が重なり合ったことで人格転移が起きたのだが、私の場合は一酸化炭素中毒が人格転移を引き起こしたことになる。そう言えばレイナにキスされた。身体の濃厚な接触が人格転移の引き金を引いたのだろうか……。

 ということは、元の身体に戻るためには、薬物入りのココアを飲んで練炭に火をつけてからキスをして身体を重ね合う必要があるのかもしれない。それは相当大変な作業だし、下手をすれば二人とも本当に死んでしまう可能性がある。ギリギリのタイミングで部屋の空気を入れ替えて救急車を呼んでくれる協力者が必要だ。妻の妙子なら信頼できる。待てよ、妙子は私とレイナの関係を疑って、引き受けたふりをしながら心中を遂げさせる形で復讐をするかもしれない……。そうだ、レイナの母親に頼むのが安全だ。

 その時、病室のドアが開いて私より少し年上の女性が入って来た。きっとこの人がレイナの母親なのだろうと直感した。目元がレイナに似ていて、少し疲れた感じの美しい女性だった。手にはペットボトルらしいものが入ったビニール袋を提げている。

「目が覚めたのね。よかった。夜中に警察から電話があった時にはどうなるかと思ったわよ」

「警察から?」

「もし無理心中だったら殺人未遂事件になるんだって。レイナが目を覚ましたら事情聴取に来ると警察の人が言っていた。レイナ、何があったの? 相手の男性はF通商の課長だそうじゃないの。F通商はレイナが一昨日から派遣されている会社よね。そこの上司なの? 派遣先の上司からいきなり一緒に死んでくれと言われるはずがないわ。レイナの方からその人を道連れにして心中を図ったんじゃないでしょうね?」

 母親の勘は概ね正しかった。レイナが無理心中を図ったのだ。これは、私に対する殺人未遂なのだ。レイナは重罪に問われるべきだ。しかし、逮捕されるレイナとは、私の人格が乗り移ったこの身体だ。私としては無理心中させられそうになった上に、自分が犯人として逮捕されるのでは踏んだり蹴ったりだ! 

 自分が逮捕されないためには、私がレイナを巻き添えにして無理心中を図ったことにした方がマシだ。でもそれでは私が犯罪者になってしまう……。

「私、何も覚えていないんです。実は、あなたが誰かも分かりません。状況から判断すると綾瀬レイナのお母さんなんでしょうけど」

「バカなことを言わないで!」

「本当なんです。自分が綾瀬レイナだということは看護師さんから聞いて知りました」

 レイナの母親は何か頭の中で考えを巡らせているようだったが、数秒後にニヤッと微笑んで私に言った。

「いいわ。それで通しなさい。『全く記憶がございません』で押し通すのよ」

「えっ?」

「やっぱり、レイナがやったのよね。相手の男性はまだ意識が無いそうよ。もし目が覚めてレイナがやったと訴えられたらアウトだけど……。とにかくレイナは少なくとも当面は知らぬ存ぜぬで通すのが最善の策だと思うわ」

「でも、自分の部屋に男性を連れ込んで心中未遂になったということは、仕掛けたのが男性ではなくこの私であることを示す状況証拠のようなものですよね……。警察が私を疑うことは避けられないんじゃないでしょうか?」

「本当はどこまで覚えているの? あなたが倒れていたのは別の男性のアパートよ」

「綾瀬レイナのアパートじゃなかったんですか?」

「レイナはずっと自宅に住んでいるのよ」

「そうだったんですか……。じゃあ、一体、レイナは誰のアパートで見つかったんですか?」

「河野宗太という名前の男性だけど、友達じゃないの?」

「過去の記憶はゼロなんです。どうしてわざわざ男友達のアパートで別の男性と心中しようとしたんでしょうか……」

「やっぱり、部屋を覚えているのね?」

「い、いえ……。目が覚めるまでの過去については全く記憶がありません」

「いいわ、それでいいのよ。でもレイナ、私に敬語で話すのだけはやめてくれない?」

 レイナの母親は記憶喪失を信じていない。それに自分の娘が無理心中を仕掛けたと推測している。そんな行動に走りそうな娘を野放しにした親に腹が立つ。

「あのう、お願いがあるんですけど。一緒に倒れていた男性が意識を取り戻したかどうか、時々聞きに行っていただけませんか。気になりますので」

「敬語でしゃべるのをやめると約束したら頼みを聞いてあげる」

 タメ口の女言葉を話せるかどうか自信が無かったが、私は決心して答えた。

「分かったわ、お母さん。タメ口でしゃべることにする」

 レイナの母親は私から最近の交友関係とか、昔付き合っていた男友達の近況などを聞き出そうとして私に色々質問をした。母親としてはレイナが精神的に不安定な今なら普段話さないことでも話すのではないかと期待しているようだ。

 私も最近のレイナの状況について母親から参考になる情報を得たかった。心中をするにはそれなりの事情があるはずであり、さきほどの母親の言葉からも、レイナが他人を道連れに心中しても不思議ではないと感じていたことが推測された。レイナは私が外観や雰囲気が好ましい男だったから死出しいでの旅の伴侶に選んだのだろうが、伴侶を伴わずに自殺できないほどの寂しさに打ちひしがれていたのだろうか? 

 レイナの母親と私との会話は表面的で疑心暗鬼なものに終始した。残念ながら私たちの間に信頼感は存在せず、レイナの母親が知りたい情報を私は本当に持ち合わせていなかったからだ。

 しばらくするとトイレに行きたくなった。もぞもぞしながらレイナの母親に相談したところ「子供じゃないんだからトイレぐらい自分で行きなさい」と笑われた。私は勇気を出してベッドを降り、輸液のバッグを吊るしたポールを転がしながら部屋のトイレへと歩いて行った。

 もう頭痛は消えていた。レイナの母親を見て平均より少し背が高い女性だと認識していたが、立って見ると私より二、三センチ低かった。意識して見回すと普段とは明らかに視界が違う。私は自分の身体が随分小さくなったことを自覚した。

 恐る恐るパンツを下げて便器に腰かけた。見下ろして、あるべきものが無いのは当然とはいえ当惑した。尿はあっけなく出て、期待外れなほどあっけなく終わった。多分、私は性的な興奮状態にはなかったのだが、その液体が狭い尿道を通る際に感じるはずの快感に近い感触が皆無だったのは驚きだった。私はこれまでウォッシュレットにビデのボタンがあることをうっすらと認識していたが押したことはなかった。実際に押してみてそれが有用な機能であることを実感した。

 

 刑事が事情聴取に来たのは午後四時ごろだった。三十代の警部補と二十代の女性の巡査部長が病室に来て、私はベッドの背を電動で起こして聴取に応じた。女性から聴取するのは女の刑事が適任と思っているのか、女性の巡査部長が私に質問した。

「具合はいかがですか? 記憶は戻りました?」

 その質問によって、既に医師か看護師から聴取したうえで私に会いに来たことが分かった。

「身体は大丈夫だと思います。でも、何も覚えていません。自分の名前も分からなかったし、そこにいる女性が私の母だということもその人から聞いて初めて知りました」

「あなたは間宮さんと練炭自殺をするつもりで現場に行ったんですか?」
と女性の刑事が質問した。

「相手の男性は間宮さんというお名前なんですか? 私は間宮さんという人も、その現場とやらも全く覚えていません。母から聞いたんですけど、その男性は私が一昨日から派遣社員として働き始めた会社の社員だそうですね。どうして私は会ったばかりの男性と二人っきりでその部屋に行ったのでしょう? 言葉巧みに連れて行かれたのでしょうか? 私はそんな軽い女じゃありません……。と言いたいところですが、自分がどんな人間だったのかさえ、全く記憶が無いんです」

 私は女優として通用するほど完璧な演技ができたと思った。二人の刑事は「こりゃダメだ」という表情で顔を見合わせた。

 母が口を挟んだ。

「この子が倒れていた部屋にバッグがなかったでしょうか? 黒っぽいポーチを少し大きくしたようなショルダーバッグなんですけど」

「現場で回収したものは署で保管しています。取りに来ていただければお渡しします」
と男性の警部補が言った。

「何か思い出したらお知らせください」
と、刑事たちは私に名刺を渡して立ち去った。

 最近、近くの文字が見えにくくなって名刺を目から遠ざけて見る癖がついていたのだが、刑事からもらった名刺に微小な文字で記されたメールアドレスがくっきりと見えることに感動した。しかも、名刺をすぐ目の前まで近づけても完全に焦点が合う。それはまるで夢のようだった。この視力があれば小さい文字で書かれた書類を読むのも楽だし、スマホも大画面でなくても大丈夫だ。四・七インチのiPhoneをカッターシャツの胸ポケットに入れれば軽装で済む。間宮孝太郎の身体に戻る時にこの視力を持って行けたらどんなにいいだろうと思った。

 刑事に詰問されるのではないかと身構えていたが杞憂に終わった。レイナが仕掛けた無理心中だとは疑っていないのかもしれない。しかしあの部屋には薬物の入ったココアが付着したマグカップが残っていたはずだ。あれをチェックすればレイナが薬物入りのココアを作って私に飲ませたことは明白ではないだろうか。レイナの母親が言っていたように私の身体が意識を取り戻さず、死亡するか植物状態になればこのままうやむやになって立件されない可能性がある。そうすれば私はこの身体で何事もなく暮らすことが出来る……。この視力は魅力だ。また美人がどれほどちやほやされるのかも体験してみたい気もする。

 しかし、それでは困る! 私は間宮孝太郎としてやり残した事が山ほどある。妻を残して死ぬことはできないし、植物状態になって妻の重荷になるのも絶対にイヤだ。

 

「もう付き添いは不要ね。明日の朝は九時ごろに来るわね」
と言ってレイナの母親は午後六時過ぎに病院を出て自宅に帰った。

 私は輸液の針が静脈に差されたまま一晩を過ごしたが、ぐっすりと眠ることが出来た。

 翌朝、レイナの母親は午前九時半ごろ着替えの下着と靴を持って現れた。

 十時すぎに主治医の回診があり退院の許可が出た。記憶喪失は戻っていなかったが、体力的には完全に回復していたし、レイナの母親が退院を強く希望したので退院が許可された。

「帰宅して日常生活に触れることで記憶が戻りやすくなることが期待できます。しかし、決して無理をせず、少しでも異常を感じたら来院してください」

 私としてはできれば入院を続けて、自分の身体の容態が把握できる場所に居たかった。入院していれば自分の身体に触れることで人格を元通りに戻すチャンスが訪れるかもしれないという期待もあったが、母親の意向に従わざるを得なかった。

 私はレイナの身体が救急車に乗せられた時に着ていた服を着た。レイナが金曜日の歓迎会の時に着ていた服をこの自分が着るのだ。レイナの服をレイナが着るのは当然だが、訳もなくドキドキした。ブラジャーを着け、黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツを着る。そして黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいた。五センチほどの幅広の黒いウェスト部分がくびれを際立たせている。

 鏡に自分の姿を映して、少女のような可憐さに思わず顔を赤らめた。ハイティーンの少女でも似合いそうな服を、中年男に無理心中を仕掛けるほど世慣れた女性が着るというのは、ひどいカムフラージュではないだろうか。私がフラフラと部屋まで着いて行ったのも仕方がないかもしれない……。

 母が家から持って来た履物はサンダルだった。指の付け根と足首を細いベルトで留める真っ赤なハイヒールのサンダルだ。こんな小さなサンダルを履けるのだろうかと思ったが、履いてみると足にピタリとフィットした。立って足元を見ると、足の殆どが露出していて、電車の中で周囲の人に指先を踏まれたら痛いだろうなと心配になった。

 こんなつま先立ちしたような姿勢でちゃんと道路を歩けるのだろうかと不安だったが、普段ビジネスシューズを履いて歩くのと同じように、軽快に歩くことが出来た。大股で歩いてもヒールから斜めに着地することもなく、姿勢を真っすぐに保つコツをこの身体が覚えているようだった。レイナの記憶が全く残っていないのに、ハイヒールのサンダルでの歩き方のコツが脳に残っているというのは不思議なことだ。運動機能は小脳が司っていると学んだことがあるが、大脳の高次の脳機能に関する部分だけが転移したと考えるべきだろうか? 

 私は自分がどれほどの視線を浴びるのかを楽しみにしていた。若い美人が誰からもちやほやされると、さぞ気分がいいだろうと思っていた。私も男として人並み以上のルックスだと自負しており、四十を越えてからも街頭ですれちがう女性からチラッと興味の視線を感じることがあって、それが快感だった。綾瀬レイナなら異性からの賞賛の視線を感じる頻度が私よりずっと多いはずだと思った。

 ところが、そんな私の期待は無惨に打ち砕かれた。確かに賞賛の「チラッ」は感じたが、露骨で食い入るような凝視を受ける苦痛の方がはるかに大きかった。顔や目を見られるのはまだましで、首筋、胸、ウェスト、腰、足に到るまで品定めするように凝視されたり、シークレットゾーンを透視するかのようにスカートの真ん中をじっと見られると背筋がぞっとするほど不気味だった。そんな視線を向ける男性はさほど多くはなく、数十人に一人程度かもしれないが、東京の街を歩いていると、ずっと誰かからそんな視線を浴び続けている気がした。視線の主は美醜年齢大小を問わずあらゆる層の男性に分布していた。

 男性の私が歩いていてすれ違う女性からチラッと向けられる視線は上向きが殆どだった。すなわち、私より小柄な女性からすれ違いざまにチラッと見上げられる視線が大半であり、そこには憧れ、恥じらい、女らしさが感じられた。ところが、今の私は見下ろされる視線の方が多く、まるで自分より下等な動物に向けるかのような優越、攻撃、侮蔑の漂う視線に感じられた。

 若くて美しい女性として生きることは想像していた以上に大変な事なのかもしれない。一日も早く人格転移が解けて元に戻ることを祈った。


続きを読みたい方はこちらをクリック!