混浴露天風呂で出会った美しい人(TS小説の表紙画像)

混浴露天風呂で出会った美しい人

【内容紹介】男性がOLとして仕事させられるTS小説。大学卒業を目前に控えた主人公は友人と湯西川温泉に行き、薬研の湯で野天雪見風呂を楽しむ。長身の美女が薬研の湯に入ってきて、主人公は心を打たれるが言葉を交わすこともなく幻の美女は夕闇の雪の中へと立ち去る。サラリーマンになった主人公は取引先の会社で幻の美女と再会する。

第一章 幻の美女

 これほど大量の雪を食べたのは初めてだった。
 真っ白で混じり気のない純粋な雪に出会うことは滅多にない。木の枝に乗った雪を指ですくって口に入れると、かき氷よりもずっとふわふわしていて、口の中でさあっと解ける。加糖練乳か、イチゴ味のシロップを持ってくればよかった……。
 僕は潔癖症ではないが、どちらかと言えば清潔好きで、細菌に汚染された恐れがある食品を加熱消毒せずには食べない主義だ。普通の雪は、空気中に漂う埃を絡めながら空から舞い降り、道路、塀、木の枝に積もるとその上に埃が降って来るから、とても口に入れる気にはなれない。
 湯西川温泉の町はずれにあるホテルから温泉街までの道路の端の樹々の枝や塀に積もっている雪は、僕の清潔さの基準を完全にクリアするほど無垢に見えた。周囲の真っ白な山肌が紺碧の空に映えている。
 卒論の提出を済ませ、後期試験も無事終わってほっとした二月五日の日曜日、僕は高校時代からの親友の有村と新宿にある工学院大学前のバス停に集合して、ホテルの送迎バスではるばる湯西川温泉にやってきた。三月二十日の卒業式を経て四月に社会人になるまでの二ヶ月足らずの、学生として最後の充電期間が始まったばかりだった。
 三時にチェックインし、四時ごろホテルを出て温泉街まで徒歩二十分ほどの雪道を歩いた。目指すは温泉街の橋のたもとにある薬研やげんの湯という露天風呂だった。僕たちの宿泊するホテルには立派な露天風呂があるが、湯西川温泉街には橋から見渡せる無料の野天岩風呂があるとの情報をネットで得ていたのでトライしてみたかったのだ。
 県道から湯西川温泉街への分岐路を左に入ると、踏み固められた雪が道路の中央までを覆っていた。スマホの地図を頼りに坂道を滑らないように注意して歩き、湯西川を跨ぐ橋に差し掛かった。
「あそこだ。橋から丸見えだ!」
 橋の斜め下方の河岸を有村が指さした。それは大きな岩の窪みにある湯だまりだった。
「橋を渡ってすぐ左から降りられそうだぞ」
 道と言えるほどの道はついていないが、木に掴まりながら降りることは出来そうだった。
「雪があんなに積もっている場所を降りるのは危険だよ。それに、橋の上から丸見えじゃないか。お湯が透明だから、岩風呂の底まで見えるぞ」
 とんでもない、という感じで有村が言った。
「殆ど人通りは無いし、見られても減るものじゃないよ。雪の中をはるばる辺境まで来たんだから入って行こうよ」
「桜山君がどうしても入りたいなら入ればいい。俺はここで見物している」
「じゃあ、僕のαR4を預ってくれ。僕が雪の中の岩風呂に入る様子を沢山写しておいてほしい。このカメラなら暗くなっても鮮明に写るから。言っとくけど、勝手に自分のスマホで撮ってSNSに流すんじゃないぞ」
「桜山君のフリチン画像をSNSに流すほど悪趣味じゃないよ」
 有村は僕の冗談に気分を害した様子だった。
 橋を渡ってすぐの石段を下って右に曲がり、雪で覆われた岩の上を這うように進んだ。岩風呂の横の平らな雪の上にショルダーバッグを置いて、靴と靴下を脱ぎ、その上にコート、セーター、ズボン、下着を重ねて置いた。タオルを首に巻き、橋に背中を向けて湯船に足を踏み入れる。岩風呂の底がヌメっていて滑りそうになる。腰を低くして、雪面に手をついて支えながら何とか転ばずに湯船に浸かった。
 熱い。雪が入ってぬるくなっているはずなのに、熱い湯だった。身体が冷えているせいで余計に熱く感じられるのだろう。
 僕は胸まで浸かった状態で身体を橋の方に向けた。午後四時半を過ぎた灰青色の暗い空をバックに有村の顔が見える。僕が手を振ると有村はカメラを僕の方に向けてシャッターを切った。
「アソコが橋の上から丸見えだぞ。手で隠せ!」
 有村が非難がましく叫んでいる。きっと羨ましいのだ。それなら自分も来ればいいのに……。
 透明な湯なので角度のある高い所からだと底まで見えるのかもしれない。でも、もう少しで日没だ。有村に気を遣って、股間の物を挟み込むように両脚を閉じた。
「そんなことをすると女みたいで余計に気持ち悪いぞ」
 気持ちが悪いのなら見なければいい、と悪態をつくのはやめておいた。親友との二泊三日の温泉旅行の初日にケンカを売ることはない。
 母子連れが橋に差し掛かった。母親の視線が一瞬僕の方に向けられ、すぐに橋の反対側の川面へと逸らされた。子供は僕には気づかずに橋を通り過ぎて行った。もう日没だ。河畔の宿の明かりが河面を照らし、暗くなった空に橋を浮かび上がらせる。
 その時、細長いシルエットが橋に差し掛かり、有村の横を通り過ぎた。一旦視界から消えた人影は数十秒後に橋の横の階段から姿を現して、僕の居る岩風呂へと近づいてきた。
 灰色のダウンコートから黒のスキニーパンツの脚が伸びた女性の姿を見て僕は焦った。まさか、この岩風呂に入るつもりなのだろうか! 彼女が靴と靴下を脱ぎ、ダウンコートを脱いでその上に置いたので、僕は湯船の中で身体を回して彼女に背を向けた。彼女が下着を脱いでいる気配が感じられて、僕の鼓動が高まる。股間の物が痛いほど硬くなり、僕はそれを下方へと押しこんで太股をぴたりと寄せて隠した。
 彼女が湯船に浸かったことが気配で分かった。僕はしばらく背中を向けたまま湯に浸かっていたが、そんな態度は彼女に対して失礼ではないかという気がして、ゆっくりと身体を回して彼女の方を向いた。
 視線が合った。軽く微笑んで会釈をすると、面長で冷淡さを感じさせる彫りの深い小顔に微笑が浮かび、会釈が返ってきた。長くて白い首とショートボブの髪のバランスが僕をドキッとさせる。僕より何歳か年上の美しい女性だった。
 辺りはもう暗くなったが、湯船の中に乳房が揺れるのが見える。長身に不釣り合いな小ぶりの乳房だ。
 何か気の利いたことを口に出したかったが、適切な言葉が頭に浮かばなかった。湯西川温泉は初めてですか? 野天風呂はいいですね。混浴風呂にはよく行かれるのですか? ここのお湯は熱めですね……。凡庸な言葉をかけるのは不適切だと思えて、お互いに何もしゃべらないまま時間が過ぎた。僕は目だけで微笑んで彼女の方に顔を向けていた。
 その時、彼女が湯船の中で立ち上がった。おへその下を左手で持ったタオルで覆い、右掌で左乳房を隠した姿が橋を背景に伸び上がった。湯船の外にゆっくりと足を踏み出し、身体の斜め後ろを僕に向けてタオルで身体を拭く。湿りの残る身体に器用に下着を着け、スキニーパンツに足を通す。薄暗い場所で、すらりと均整の取れた身体が河畔の灯火が投げる光に照らし出されている。
 彼女はダウンコートを着るとショルダーバッグを肩に掛けて階段の方へと身体を向けた。
 その瞬間、思い出したかのように彼女が振り向き、優しい笑顔で別れの会釈をした。
 美しい! 雷に打たれた気がした。
 次の瞬間、僕が何も反応を示せないうちに彼女は僕に背を向けて立ち去った。
 僕は呆然として首まで湯船に浸かり大きなため息をついた。現実に起きたのかどうか自分でも確信が持てない、夢のような出来事だった。すらりとした美しい身体を僕に見せつけるために現れ、息を飲んでいる間に悠然と立ち去った……。
 岩風呂から出てタオルで身体を拭いた。火照った身体が冷気に包まれる感覚が新鮮だった。冷えないうちに手際よく下着と服を身に着けてコートを着た。
 階段を登って左に曲がると橋の上に立っている有村が目に入った。有村は岩風呂とは反対の、湯西川の上流方向を向いていた。
「有村君、見たか?」
「見たよ。びっくりした! 俺も桜山君と一緒に入ればよかった」
「オッパイは小さかったけど、相当な美人だった」
「アソコも見えたのか?」
「バカな。暗かったし、タオルで隠していたから見えなかったよ」
「俺が写真を撮っている後ろを通り過ぎたんだけど、すごく背が高かったぞ。百八十近くあったんじゃないかな」
「百八十は言い過ぎだ。僕がお湯に浸かった状態で見上げた感じだと、百七十二、三センチだったと思うよ。女性は数字よりも大きく見えるものだから。ちゃんと写真を撮ってくれたか?」
「桜山君のヌード写真は十枚以上撮ったよ」
「で、彼女と僕が二人で岩風呂に入っている写真は何枚撮ってくれたんだ?」
「まさか、撮るわけないだろう。本人の了解なしに女性の裸を撮影すると犯罪になる」
「一枚も撮らなかったのか? 僕にとって一生に一度の夢のようなハプニングだったのに! 風呂から上がって服を着た後の写真ぐらいは撮ってくれたよね? せめて後姿ぐらいは」
「すまん。ボーっと見送っていたら、あそこの角を左に曲がって行ってしまった」
「しっかりしてくれよ!」
「そんなに気になったのなら風呂の中で自己紹介して電話番号かメールアドレスを聞けばよかったのに。彼女とどんな話をしたんだ?」
「いや、裸の女性と風呂で向き合うのは久しぶりだったから緊張してしまって……」
「手の届く距離に居ながら一言も話せなかったのか! 俺を非難する資格はないじゃないか。ところで今『裸の女性と風呂で向き合うのは久しぶり』と言ったけど、前にも混浴温泉に入ったことがあるのか?」
「家族旅行の思い出の話だ。幼稚園に上がるまでは母さんと女風呂に入っていたから……」
 有村と僕はお互いの至らなさについて呆れながら、雪の夜道をホテルまで歩いた。

 部屋に戻ると浴衣に着替えて大浴場に行った。冷えた身体を内湯で温めてから、その足で食堂に行って夕食のバイキングを楽しんだ。二泊三日、食べ放題、飲み放題、新宿からのバス送迎付きで一万四千円という期間限定激安料金だったが、有村と僕は「食事代だけで元を取ろうな」と貧乏くさい話をして、カニや刺身など量の割に高価な料理を選び、腹の膨れるビールを避けて地酒を飲んだ。
「さすが桜山君、コスパ最高のホテルだね。就職してからも毎年一緒に来ような」
「オフシーズンの日、月、火の二泊三日だから超特価で予約できたわけだ。サラリーマンになったら、三連休とか、皆が休みの時にしか来られない。それに、会社には美人のOLがわんさかいて、新入社員の男性に群がって来るらしいから、来年の冬は彼女と一緒に温泉に来るのが目標だな」
「桜山君のオプティミズムには感服するよ。新入社員男性が入れ食い状態になるなんてエロ漫画の読み過ぎじゃないの? そんな幻想を抱いて入社したら、厳しい現実にガックリ来てうつ病になるぞ。桜山君も、もう少し背が高かったら強気になってもいいんだろうけど」
「身長なんて、有村君とそんなに変わらないじゃないか」
「バカ言うな。俺は百七十だから桜山君より十センチ以上高いんだぞ」
「おあいにくさま、僕は百六十三でした。七センチしか違いませんよーだ。いつもシークレットシューズを履いているし、顔が良いから、有村君よりはモテるつもりだけど」
「桜山君は面白いな。高い靴を履いているのを自慢する男と出会ったのは初めてだ。人間の脳って、自分は実際よりも背が高く感じたり、顔が良いからモテるという幻想を抱いたり、自分を相対的に過大評価するようにプログラムされてるんだな。いやあ、実に興味深い」
 いくら親友でも、腹の立つことばかり言うやつだ。僕がモテるのは事実だし、有村なんかに負けるはずがないが、建設的でない議論を吹っかけるのは差し控えた。
 二人とも酔っぱらって部屋に戻り、横になってテレビを見ていたが、九時半ごろになると酔いが覚め、腹もこなれてきたので、一緒に露天風呂に行った。
 内湯で体を温めてから露天風呂へのガラス扉を開ける。熱くなった皮膚が冷気に晒されて気持ちいい。岩風呂の周囲の樹々の枝にこんもりと雪が積もっているのが、外灯の白い光を受けて黒い空間に浮き出ている。
 身体が急激に冷えて、僕たちはヒィーッと声を出しながら湯船に浸かる。雪はとっくに降りやんでいて、後頭部まで湯船に浸けて空を見上げると、岩風呂の周囲の樹木の枝に囲まれた丸くて黒い空間に星がちりばめられているのに気づいた。外灯の光にも、湯気にも負けず、たくさんの星が輝いている。
「やっぱ、空気の透き通り方がハンパじゃないよな」
と、有村らしくない的確な表現が耳に入る。
 僕は湯船の中で立ち上がり、岩風呂の奥の、川べりの方へと歩を進める。有村も一緒に岩風呂の奥まで来て、雪を抱く枝々を通して、その向こうを流れる川からの水音に耳を澄ます。
「ここの雪も美味しそう!」
と僕は手の届く枝の上にこんもりと乗った雪を手ですくって口に入れる。
 それは口の中でさーっと溶けて、雪とはこんなにふわふわしていたんだ、と改めて実感する。
 二、三度雪を食べると急に体が冷えてきて、「さぶーっ」と言いながら湯船の中に首まで浸かる。
「桜山君って子供みたいだな」
と有村は雪を食べずに、呆れたという表情で僕を好意的に傍観している。
「今食べておかないと、社会人になったら雪を食べられなくなるかもしれないよ」
 本気でそう思ったわけではないが、有村にも雪を食べさせたくてそう言った。社会人になったら自由を奪われた人間になってしまうのではないかという漠然とした不安もあった。
 僕たちは「うーん、気持ちいいな」と言いながら星空を見上げる。
 星を繋げていくと、女性の身体を横から見た姿に見えた。
「あの女の人ってきれいだったよね」
「美人というほどだったかなあ? 背が高すぎるし、なんかこう、デカかったよな」
「デカいだなんて失礼な。すらりとして、すごくカッコよかった。あーあ、有村君がちゃんとシャッターを押していたら画像をスマホに落として今晩じっくり見られたのに」
「俺は百六十二、三センチぐらいまでで、オッパイの大きい女がいいな。それにしても世の中はよくできてるよな。百五十センチも無いほどミニな女を好む男もいれば、桜山君みたいに見上げるほどデカい女に憧れるマゾな男もいるんだから」
「僕がマゾだなんて、勝手に決めつけるな!」
と抗議をしたが、自信があったわけではない。僕には加虐的な嗜好が全くないことは明らかだから、人類をサドとマゾに分類したら、僕は後者に属するかもしれないと思う。
 しかし、自分より背の高い女性を好む男性をマゾだと考えるのは間違っている。概して背の高い人間は背の低い異性を好み、背の低い人間は背の高い異性を好むものだ。ナポレオンがマゾだったとは聞いたことがないし、身長が低いほどマゾというのでは理屈が通らない。
「さっき、あの女性を食堂で見かけなかったということは、このホテルの宿泊客ではないということだ。湯西川温泉のどこかの宿に泊まっているんだろうな……」
と僕は彼女のことを思いながらつぶやいた。
「明日、かまくら祭りを見に行くのに、早めに行って橋の上で待っていたら、また通るかもしれないぞ。桜山君がそれほど心残りなら付き合ってやるよ。でも、明日はちゃんとメルアドを交換しろよ」
「有村君、ありがとう。僕、がんばる!」
 さすが親友だと感激した。

 翌日は雪が降っていた。フロントの女性に、ホテルから薬研やげんの湯まで歩いて行くのは無理だと言われて、ホテルの送迎バスでかまくら祭りの会場まで行った。かまくら祭りの会場は人もまばらで、憧れの長身女性の姿は見えなかった。
「気を落とすな。四月に入社したら、もっと背が高いOLと巡り合えるさ。お前が入る会社には女子バレーボールチームとか無いのか?」
「あのねえ、背が高けりゃ誰でもいいってことじゃないんだから」
と僕は力なく抗議した。
 東京に帰ってから二、三週間は、毎晩幻の美女のことを思い出しては恍惚とした気分になっていたが、社会人になるころには彼女のことはすっかり頭から消えていた。

第二章 新入社員

 四月になって社会人としての生活が始まった。僕が入社したのは化学品関係を中心に扱う茅場かやば化成品という専門商社で、僕は食品や化粧品の原料を取り扱うファインケミカル課の一員となった。
 佐藤課長という小太りの中年男性が課長で、七年目社員の笹川洋一、二年目社員の松坂健太、その下に新入社員の僕がいて、関口美沙という短大卒三年目の一般職社員を含めると総勢五名の課だった。
 笹川先輩が行くところには金魚のフンのようについていき、OJTで仕事を覚える毎日だった。
 笹川の担当する客先のひとつにシリウス科研という化粧品とヘルスケア製品のメーカーがあり、水天宮駅の近くに本社ビルがあった。うちの会社は国内外の油脂メーカーの代理店をしており、シリウス科研は大口顧客だった。
 笹川は毎月一回の頻度でシリウス科研の購買部を訪問しており、僕は五月の連休明けの訪問の際に初めて同行して笹川のアシスタントとして紹介された。それから一週間ほどして、シリウス科研から新しい乳化剤のサンプルの要求があった。
「その乳化剤でしたら手元にサンプルとパンフレットがございます。お急ぎでしたら、アシスタントの桜山にすぐに届けさせますが」
と笹川が電話でしゃべるのが聞えて、僕は嬉しくなった。単なる使い走りであるにせよ、一人で客先に行くのは初めてだったからだ。
 サンプルとパンフレットをバッグに入れて張り切って会社を出た。茅場町から水天宮までは人形町乗り換えで地下鉄で行くことも不可能ではないが、徒歩十分の距離なので歩いて行った。シリウス科研の受付で「購買の山岸課長様にサンプルをお持ちしました」と言うと、受付の奥にある小部屋のひとつに通された。山岸課長が来るのを緊張して待っていたが、しばらくしてドアをノックして入ってきたのは二十代後半と思われる男性だった。
 僕は椅子から立ち上がって一礼した。
「初めまして、私、茅場化成品の桜山さくらやま菜緒なおと申します。山岸課長にサンプルとパンフレットをお持ちしました」
「ご苦労さまです、私は山岸の部下で篠塚翼しのづかつばさと申します」
とその男性が潤いに満ちた優しい声で言って、僕たちは名刺交換した。
 向かい合って座ると、篠塚が僕を見てハッとした表情を見せた。僕は篠塚のそわそわした様子が気になった。
 どこかで会ったことがあるような気がしたが、誰だか思い出せなかった。
 その時、面長で冷たさを漂わせる彫りの深い小顔に浮かべた篠塚の微笑を見て、僕は雷に打たれた気がした。湯西川温泉の薬研の湯やげんのゆで出会った幻の女性と同じ微笑だった。
 そんなはずはない……。あれは女性で、この人は明らかに男性だ。
「あのう、失礼ですが、篠塚さんには年齢の近いお姉さんか妹さんがいらっしゃいませんか?」
 僕の質問を聞いて篠塚は顔をしかめたが、数秒間の沈黙の後で口を開いた。
「もし姉か妹だったら、私が桜山さんを見て反応するはずがありませんよね」
「じゃあ、あの時の長身の美人は……」
「はい、私です」
 僕は思わず篠塚の胸を見たが、ブルーのストライプのカッターシャツの上に背広ネクタイを着用した上半身に、胸の盛り上がりはうかがえなかった。
「それ以上のことは、こんな場所ではお話しできませんので……」
と篠塚が口ごもった。
「いえ、私は詮索するつもりは……」
「内緒にしていただきたいんです」
「勿論、誰にも言いません」
「内緒にしていただくお礼に、お食事でも」
「気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ。私、口が固いんで」
「シティエアターミナルの手前にスパゲッティの美味しい店があるんです。今日か明日の午後六時半ではいかがですか?」
 スパゲッティ程度なら口止め料をもらったことにはならないだろう。それに、男装しているとはいえ、あの幻の美女から誘われて、断るという手はない。
 僕は篠塚の提案を受諾し、今日の午後六時半にその店で会う約束をして、店の名前と場所をスマホに記録した。

 キツネにつままれた気分だった。薬研の湯で会ったのは女性だった。全裸で、飛びっきりの美女だった。僕はいわゆる「注意力」に自信があるわけではないが、裸で会って性別を見間違えるほど注意力を欠く人間ではない。そして、今面談した篠塚は少なくとも衣服は男性で、声は低くは無かったが男声だったような気もする。確か、髭は生えていないか、非常に薄くて、肌も女性のようだった気もする。僕は驚き、そわそわしていたので、細かく観察する余裕がなかった。
 本当は女性なのに、何か事情があって男性として仕事をしているのだろうか? ひょっとすると今はやりのLGBTのTなのかもしれない。女性の身体で生まれたが自分の中身は男性だと信じ、男性として生活する、というやつだ。だが、もしそうなら薬研の湯で会った時にあれほど女っぽい存在感はなかったはずだ。
 まさか、同じLBGTでも逆のケースではないだろうか? 男性として生まれ、シリウス科研にも男性として就職したが、就職後に手術で女性の身体になった。しかし戸籍の上では男性だから会社側は篠塚が女性の恰好で仕事をすることを認めない。シリウス科研はオーナー企業だから、古い考えを持ったオーナーがLGBTを理解せずに冷遇するということは十分にあり得る。
 しかし、男性を手術によってあれほどの美女に作り替えることができるものだろうか?
 いずれにしても謎だらけの人物と一対一で食事をすることになって、じわじわと興奮が高まってきた。会社に戻って笹川には「山岸課長は不在で、部下の篠塚という人にサンプルとパンフレットを手渡しました」とだけ報告した。

 六時に会社を出てシティエアターミナルまで歩き、十分ほどブラブラしてから丁度六時半に約束の店に行った。
「あのう、篠塚さんの予約の、」
と言いかけると「はい、こちらです」と席に案内してくれた。
 昼間に会社で会った時と同じ恰好の篠塚を見て、内心ガッカリした。仕事中は男装を強いられているが、女性の服に着替えてお化粧でもして来るのではないかと期待していたからだ。
「オフの時間も男装をされてるんですね」
「まあ、ひと言では説明できない程、色々あって……」
「湯西川温泉は大自然の真っただ中って感じで、本当に良かったですね。僕なんか、枝の上に積もっている雪を沢山食べましたけど、口の中でさぁーっと溶ける感じでした」
「えっ、雪を食べたんですか? さすが男の子ですね! 湯西川温泉は確かに田舎にありますけど、大自然の真っただ中というほどじゃないですよ。栗山村の中でも県道二十三号線を真西に走ると、川俣温泉から旧女渕沢温泉に突き当たって、奥鬼怒山中の秘湯まで行けます。まさに大自然の真っただ中の温泉があるんですよ」
「じゃあ、あの時も奥鬼怒まで行かれたんですか?」
「いえいえ、真冬に女渕沢温泉から先に行くのは無謀というものです。さすがの私も夏にしか行かない場所です」
「温泉がお好きなんですね」
「ええ、スッチーの混浴日記というブログをご存知ですか?」
「知ってます、篠塚さんは元スッチーだったんですね! シリウス科研へはいつ転職されたんですか?」
「うふふ、桜山さんは早合点ですね。スッチーの混浴日記というブログにその温泉の記事が出ていたと言おうとしただけです。私は大学時代にシリウス科研でバイトをして、卒業と同時に入社しました」
「最初から今と同じ服装だったんですか?」
「いいえ、バイトは制服でしたけど……」
「やっぱり、OLの姿でバイトされていたんですか!」
「ちょっと! 桜山さんの早合点って面白すぎですよ。会社でも叱られません? 栃木にある研究所でのバイトだったので、白いドクターズコートが制服だったんです。ちなみに、ドクターズコートの下はスカートじゃなくてズボンでしたけど。アハハハ」
「すみません、早合点で叱られることはそんなにはないんですけど、上司から、お前は想像力が豊かだなと言われることはよくあります」
「貝はお好きですか? このお店はリングイーネ・アラ・ボンゴーレが特に美味しいんですよ」
「じゃあ、僕も同じものをお願いします」
 白ワインを五百MLのキャラフェで注文し、乾杯をした。
「桜山さんって、ふんわりしていますね」
「ふんわり、ですか?」
「桜山さんと向かい合ってワインを飲んでいると、まるで異性とデートしているような気持になります」
「『まるで、みたいな』って変じゃありません? 異性ですもの」
「やっぱり、桜山さんの中身は女性だったんですね」
「ま、ま、ま、まさか、篠塚さんは男性なんですか!」
「背広にネクタイのサラリーマンに向かって、その言い方はないでしょう。それも顧客企業の購買部に所属している人間に対して!」
「た、大変失礼いたしました。でも僕、頭が変になりそうです……」
「性別の話はやめませんか。せっかくお知り合いになれたんだから、もっと楽しい話をしましょう」
「でも、薬研の湯で会ったのは僕にとって理想のタイプの美女だったんです。東京に帰ってからも、あの思い出がずっと尾を引いていたのに……」
「告白ですか! ネクタイのサラリーマンどうしがラブラブの話をしていたら周りのお客さんに怪しまれますよ」
「でも……」
「やれやれ、桜山さんのしつこさには参りました。じゃあ、秘密にしておきたかったんですがお話しします。人前では言いたくないから、私のマンションで話しましょう。ここから歩いてすぐですから」
「マンションがこの近くにあるんですか? すごいですね。高かったでしょう?」
「買ったわけじゃないですよ。行く前にひとつだけ約束してください。絶対にその手で私の身体を触ろうとしないこと」
「勿論です。もしご心配なら、マンションでは手錠をかけてもらってもいいですよ」
「桜山さんって本当に面白いことを仰いますね。一緒にいると楽しいです」
「いやあ、それほどでも……」
 もうすぐ篠塚のマンションで真相を知ることが出来ると思い、残りのリングイーネを食べるスピードが速まった。最後にキャラフェのワインの残りを二人のグラスに注いでもう一度乾杯した。一時間ほどの食事で、お酒に弱い僕にとっては危険レベルに近い量を飲んでしまった。少しフラフラしたが何とか立ち上がり、篠塚が勘定を済ませてくれて一緒に店を出た。
 篠塚のマンションは水天宮の手前を清洲橋通りの方に二ブロックほど入った所にあった。管理人室の窓から見える場所で電子キーで解錠してエレベーターエリアに入る。セキュリティーのしっかりしたマンションだ。エレベーターを七階で降りて、右奥の七〇六号室のドアを篠塚がカードキーとパスワードで解錠して部屋に入った。
 玄関で靴を脱ぎ廊下を通ると驚くほど広いLDKに出た。
「すっごーい! 豪華なマンションですね」
 マンションは買ったものではないと篠塚が言っていた。シリウス科研は給料が高いのかもしれないが、二十代で都内にこんなに広くて高級なマンションを借りられるほどの給料をもらえるはずがない。親が大金持ちなのだろうか?
「じゃあ、普段着に着替えてきますから、ソファーに座ってお待ちください」
 酔いが回ってこめかみがドクドクと音を立てている。僕はソファーに座って目を閉じ、少しでも早くアルコールを身体の外に出そうと何度か大きな深呼吸をした。
「お待たせしました」
という声に目を開けると、真っ黒なレースのドレス姿の女性が目に入った。髪は薬研の湯で見たのと同じショートボブだ。これが篠塚なのか……。
「湯西川温泉で会った女とシリウス科研の篠塚翼が同一人物だと信じてもらえました?」
と篠塚は女性らしい口調で言った。
「手で私にタッチしないという約束を忘れないでください。悪いけど、約束通り手錠をさせてもらいます」
と言って僕を立たせた。
「本当に手錠を持っていたんですか……」
 両手首を背中に回すように言われて手錠をかけられた。
「私の中身を見たかったんですよね?」
と言うと篠塚はスカートの裾を持ってめくり上げようとした。
「待って! 女性だということは分りましたから見せていただかなくて結構です。どうして会社では男装しているのかを教えてください」
「怖いですか?」
 篠塚は至近距離まで近づいて両手で僕を強く抱きしめた。ドレスの下のブラジャーの先が僕の肩の下に押し付けられて痛かった。
「私の目を見て」
 見上げると薬研の湯で見たのと同じ面長で冷たさを漂わせる彫りの深い小顔が目の前に迫っていた。
「目を閉じないで」
 篠塚に唇を奪われ、舌を深く挿し込まれた。篠塚の両手が僕のウェストの細い部分を掴み、親指がおへその近辺を愛撫した。僕は後ずさって攻撃を避けようとしたが、壁まで追い詰められた。篠塚は僕を壁に押し付けてキスしながらネクタイを外し、カッターシャツのボタンを外して、アンダーシャツを頭から脱がせた。手錠をしているので服は手首に絡みついたままだ。
 むき出しになった僕の上半身に篠塚の指と唇と舌が自在に動き回る。僕の身体がピクッと反応すると、何回も、何十回も執拗に攻め続ける。
 ああ、この女性は『プロ』なんだろうか? 男の僕が上半身だけでこんなに感じるとは……。
 声を上げながら首を振っても篠塚は許してくれなかった。
「まだ始まったばかりなんだから」
と僕を責め続ける。僕のズボンの真ん中には外から見て分かるほどのシミができていた。
 ついに篠塚は僕のズボンのベルトを外し、チャックを下げてズボンとパンツを一気に引きずりおろした。僕は反対方向を向かせられ、背中に回った篠塚に両肩を押されてベッドルームへと連れて行かれた。篠塚は僕をベッドに押し倒し、僕にアイマスクをさせた。
 薬研の湯では裸を見せてくれたのに……。もう一度裸を見せて欲しい。
 篠塚がドレスを着たまま指と唇と舌で上半身と太股を責める。でも、肝心な部分には全く触ってくれない。僕はじらされて、「早くして! お願いですから」と篠塚に言う。
「しょうがないなあ」
と言って、篠塚が下着を脱いでいる音がする。ドレスは着たままのようだ。僕の興奮はピークに達した。篠塚は両手で僕の足首を掴み、頭の方に押し上げながら体重をかけて開かせ、覆いかぶさるようにして唇を合わせてきた。
「早くしてください!」
 もう一度僕は懇願した。
「言っとくけど、頼まれたからしてあげるんですよ」
 次の瞬間、僕は天地がひっくり返ったかのような衝撃を受けた。ヌルヌルしたものが僕の肛門に押し当てられ、グイッと入ってきたのだ。
「い、痛いっ!」
 それは一旦ヌルッと抜かれてから、次の瞬間、もっと奥まで入ってきた。何度もその動作が繰り返される。
「痛い、やめて!」
「分かってますよ。その『やめて』が『もっとして』という意味だということは」
 まるで男のような口調だった。いや、篠塚は男なのだ。
 僕が何度懇願しても篠塚の攻撃は続いた。死ぬまで続くのではないかと思うほど、いつまでも続いた。
 このままだとお尻が裂けてしまう。そう思った時、篠塚からうーうーとうめき声が聞こえ始め、最後に男のような声を上げながら篠塚は僕の中で弾けた。
「菜緒の身体は最高!」
と言いながらキスされた。やっとアイマスクを外されたが、篠塚にどんな表情を見せるべきなのか、僕は分らなかった。
 その時、玄関のチャイムが鳴った。
 ピンポーンという音に篠塚は跳ね起きてベッドルームのクローゼットの扉を開け、僕を押し込んだ。リビングまで走って取りに行った僕のズボンとパンツもクローゼットに投げ込むと「絶対に音を立てないで。見つかったら二人とも殺される」と言ってクローゼットの扉を閉め、玄関へと駆けて行った。
「来て下さったんですね」
 コケティッシュな高い声で篠塚が男性を迎え入れている。
 そうか、きっとここは篠塚のパトロンが保有するマンションなのだ。
「お風呂になさいますか? それともおビール?」
「ビールだ」
 男がソファーにどかっと腰を下ろす気配がする。これは身体の大きな男だ。
 篠塚がグラスをガラステーブルに置く音が聞こえる。缶ビールのままで済む相手ではないようだ。
「おつまみはチーズでよろしいですか?」
「いや、おつまみはお前がいい。来なさい」
「あなたったら……」
 男はこれから篠塚をどうするつもりなんだろうか……。
「バシッ」
 平手打ちしたような音と篠塚の悲鳴がほぼ同時に聞こえ、篠塚がドサッと倒れたのが分かった。
「アーッ! 痛い! お許しください!」
 男が篠塚を蹴りつけている。僕はクローゼットから飛び出して篠塚を助けに行こうかと思ったが、先ほどの「見つかったら二人とも殺される」という篠塚の言葉の響きに金縛りされて動けなかった。
「どうしてパンツをはいていないんだ? アソコがベトベトしてるじゃないか!」
「お許しください。あなたのことが恋しくなって、ついベッドの上で自分を慰めていました」
「俺のベッドで俺以外の精液は許さないと言っただろう。邪魔なものは潰してやる」
 篠塚の悲鳴と「お許しください」という懇願の声が聞えた。股間に蹴りを入れているのか、あるいは本気で潰そうとしているのか……。もし僕が飛び出して行ったら、同じ目にあうかもしれない。いや、後ろ手に手錠をされた全裸に近い僕が姿を現したら……。想像するだけでも怖い。
 しばらくすると、男が乱暴する気配は収まり、篠塚のすすり泣きだけが聞えた。
「ここに住んでいる限りは自分がメスだということを忘れるな。今後少しでもオスの真似をしたら切り刻んで豚の餌にするぞ。それが怖いのなら明日にでも病院に行ってちょん切ってこい」
 僕は怖くて身が縮んだ。篠塚が男性としての性機能を保持していることは、先ほど身をもって体験したばかりだ。オスの真似を一切禁止するというのは一度も射精をしてはいけないということだ。この男はそれは無理だということが分かった上で篠塚を虐めているのだ。
 冷房からの冷気がジャバラの扉のスリットからクローゼットに入ってくる。全裸に近い僕の身体はすっかり冷えて来て、怖さと寒さで震えが来た。上下の歯が当たってガチガチと音を立てる。身体が冷えるに従って尿意が高まり、何とか我慢しているがいつまで持つか自信はない。
「来い、つばさ
 男がベッドルームに入って来て服を脱いでいる。篠塚も入って来て男が脱いだ服を畳んでいるのがジャバラの隙間から見える。腰から下しか見えないが、長身の篠塚よりはるかに大きい男だ。篠塚と僕が一緒に立ち向かってもこの男の前ではひとたまりもないだろう。
 全裸になった男は篠塚のドレスを剥ぎ取り、何の前戯もなくベッドの上でのしかかった。ジャバラの隙間からベッドの上は見えない。ギシギシというリズミカルな音と篠塚の喘ぎが、今ベッドの上で何が起きているかを物語っている。僕は生きた心地がしない。数分後、男は大きな叫びを上げながら果てた。
「相変わらず締りはいいな」
と言いながら男がベッドから降りて僕の方に歩いてきた。クローゼットを開ける気だ! 僕は絶体絶命の窮地に立った。
「ガウンはこちらにございます。お出しいたしますからお先にお風呂へ」
と篠塚が言って、男が踵を返してベッドルームから出て行った。
 助かった……。
 男が風呂場のドアを閉めて浴槽にお湯を入れる音が聞こえ始める。
 クローゼットのジャバラの扉が開き、篠塚が唇の前に指を立てて「シーッ」と合図し、手錠を外してくれた。
「さあ、今のうちに出て行って!」
 僕は立ち上がってパンツとズボンをはく。
「クサイ、漏らしたのね!」
 クローゼットの中で恐怖のあまり失禁してしまったことに僕は始めて気がついた。
「いいから早く出て行って!」
 僕は服を着ながら忍び足で玄関に行き、音を立てないようにドアを開いて外に出た。音がしないようにドアを閉めると「助かった」と胸を撫で下ろした。
 ズボンはビショビショで尿の臭いがしている。マンションの玄関のドアを出てから、ネクタイをリビングルームかクローゼットのどちらかに残して来たことに気づいた。
 今頃、篠塚はクローゼットに雑巾がけをしているだろうか? 先客がいたことをあの男に感づかれて虐待されないだろうか? でも、僕には何もできない。篠塚の事が心配だった。
 いや、僕に篠塚を守る義務はないし、気遣う必要もない。僕にとって篠塚はもう憧れの美女ではない。僕を騙してマンションに連れて行き、手錠をかけて、レイプもどきにもてあそんだ悪い男なのだ。僕は元カノとキスをしたことはあるが、それ以上のことは未経験だった。初体験がこんな形で終わってしまった事について僕は篠塚を恨んだ。
 小便臭くてこのままでは電車に乗れない。清洲橋を渡ってトボトボと進み、スマホの地図を見ながら一時間半ほど歩くと、荒川を超えたあたりで、やっとズボンとパンツが乾いて、さほど臭くなくなった。西葛西駅で東西線に乗って帰宅した。
 アパートに着くと風呂の浴槽を熱いお湯で満たして頭までお湯に浸かった。
「ああ、助かった」
と改めて口に出し、今日は本当に危なかったと実感した。
 僕の頭の中は混乱していた。篠塚は男性だと判明した。でも、裸になると、アソコ以外は女性で、しかも美しい女性であり、男に囲われて暮らしている。僕はからかわれただけなのか、それとも篠塚が僕に特別な感情を抱いた結果あんなことになったのかは不明だった。どちらにしても、僕にとっては大災難でしかなかった。
 篠塚を思い浮かべると僕の股間のものは硬く大きく膨らみ、僕の手は無意識のうちに、その上を這っていた。射精に到達した時に頭に浮かんだのは、篠塚のものが僕の中で弾けた時の感覚だった。僕は心からそんな自分に嫌気がさした。

第三章 スカウト

 翌日の午後、外線から入った電話を関口美沙が取り「シリウス科研さんからです」と笹川に言った。僕は社名を聞いてギクッとしたが、平静を装った。笹川は昨日僕がサンプルを届けた商品についてシリウス科研の山岸課長と話しているようだった。
「関口さん、シリウス科研からオーダーが入る時は山岸課長から電話があるの?」
「いいえ、神谷さんという女性からよ」
「篠塚さんから電話が入ることはないの?」
「それ、誰?」
「篠塚翼さん。昨日僕がサンプルを届けた時に出てきた人なんだけど」
「そんな女の人は知らないわ」
 そうか、翼は女性の名前でもあるんだ。
 まもなく電話を終えた笹川が僕に言った。
「昨日届けたサンプルで安定性試験を実施して、結果が良ければ採用してくれる可能性が高い。そろそろ山岸課長を飲みに誘っておいた方がいいな。その時には桜山君も一緒に来い」
「あ、はい」
「どうした? 気乗りのしない返事だな」
「いえ、喜んでご一緒します。させてください」
 それから二週間ほどして、笹川から声が掛かった。
「明日の夕方は空いてるか? 山岸課長を食事に誘った。部下を連れて来るそうだ」
「僕はOKですよ。山岸課長の部下って篠塚翼さんですかね?」
「うーん。女性の名前を言っていたけど、忘れちゃった。翼さんと言っていたような気もしないでもないが……」
 鼓動が高まるのを感じた。篠塚に会いたいという気持ちは無い。もう一生会わない方が望ましいと思っていた。しかし、シリウス科研と取引がある以上、篠塚が出てくれば会わないわけにはいかない。明日、どんな顔をして篠塚の前の席に座ったらいいのだろう……。
「どこか予約する必要がありますね」
「先方が予約してくれることになった。シリウス科研の近くにイタリアンのワインとパスタの店があるそうだ」
 あのスパゲッティ店のことだ……。篠塚が予約したのだろう。きっと、僕が一緒に来ることを分かった上で、同じ店を予約したのだ。
 翌日、五時半過ぎに笹川と会社を出てタクシーで約束の店に向かった。店の入り口で「シリウス科研の山岸さんの予約なんですが」と言うと、あの夜に篠塚と座ったのと同じ席に案内された。
 緊張して待っていたが、六時に山岸が連れて入ってきたのは女性だった。初対面の僕はその女性と名刺交換をした。かみえつと書かれていた。これが美沙が言っていた、オーダーをしてくる女性なのか……。篠塚が来ないことが分かって僕は緊張から解放された。
 赤ワインのグラスを合わせて乾杯をした後、僕は対面に座っている神谷に聞いた。
「篠塚さんはお元気ですか?」
 その瞬間、神谷の表情が急に変わって、山岸と目を見合わせた。
「篠塚をご存じなんですか?」
と山岸が僕を問い詰めるように聞いた。
「サンプルをお届けした時に山岸課長がご不在で篠塚さんにお渡ししたんですが」
「ああ、それだけですか。篠塚なら他の部署に異動しました」
「そうですか。元々研究所から来られたんですよね?」
「さあ、どうでしたかねえ。篠塚にご用があるわけじゃないんですね?」
「特に用はございません」
 笹川がテーブルの下で僕の脚を蹴った。篠塚に関する会話をやめろという合図であることはピンときた。理由は分らないが、すべきではない質問をしてしまったようだった。そうでなければ山岸が急に刺々しい口調になるはずがない。部下が社内で異動した場合、上司がその話題に触れられたくないということは、少なくとも栄転でなかったのは確かだ。篠塚はスキャンダルを起こしたのだろうか? 
 そんなことは僕が心配すべきことではない。お陰で、今後僕が篠塚と顔を合わせる可能性は殆ど無くなった。ほっとする一方で、ガッカリした気持ちが心のどこかに残っていた。
 その後は和なごやかなムードで食事とワインと会話が進んだ。篠塚翼とはどんな人物で、そのセクシュアリティは社内でどのように認識されていたのか、神谷悦子なら答えられるはずだが、僕は再び篠塚の名前を口にするほど愚かではなかった。
 山岸と笹川の共通の趣味がゴルフであることが分かり、話が盛り上がった。僕はポケモンGOの話で神谷悦子の興味を引くことができて、そこそこに会話がつながった。
「神谷さんは発注関係を担当されているんですか?」
「発注もやりますが、自分の担当商品も持っています。主に、海外の業者との交渉を担当しています」
「そうだったんですか。発注のお電話はいつも神谷さんからかかってくると、うちの関口美沙から聞いたので、一般職のOLの方かと思っていました。失礼しました」
「シリウス科研の従業員は殆どが総合職で、男女同権が進んだ会社です。それに、基本的に派遣社員や契約社員は使わず、全員が正社員というのが社長方針なんです」
「すごく進歩的な会社ですね。でも、一階の受付の女性とか、会議ブースでお茶を出してくれる女性は、モデル系の美人ぞろいでピンクの制服を着ていましたけど、あの人たちも総合職なんですか?」
「さすが桜山さん、見るところは見ていますね! 実は全員を正社員採用にしたのは二年前からです。以前は、受付嬢は専門の派遣会社を使っていたし、うちの業界だと展示会に必要なキャンペーンガールとか、社内の補助職にも派遣社員か契約社員を多用していました。二年前から、その種のIQよりAQが重要な職種はAQの観点で人材を採用して正社員化するようになったんです。うちの会社では一般職とは呼ばずに、おだて気味に特別職と呼んでいます」
「AQって、どういう意味ですか?」
「あ、すみません。社内用語を使ってしまって。Appearance Quality すなわち顔とかスタイルなど外観レベルのことです。社内の補助職の評価基準に顔とスタイルを含めるというのは、男女同権と言いながら男性のエゴですよね、アハハハ」
「じゃあ、シリウス科研さんでは、お茶を出してくれるのは全員が美人と言うわけですか! 一年前にそれを知っていたら僕もシリウス科研さんに就活に行ったのに。いや、僕では採用されるのは無理ですよね」
「未婚の男性にとってそれが望ましいかどうかは分かりませんよ。桜山さんは、外観だけで選んだ低IQの女性と結婚したいと思われます?」
「勿論、賢い女性であることが大前提です」
と、本心とは逆の答えをした。人間の賢さとか頭の良さと筆記試験の成績は別問題だ。外観で選べば、少なくとも美人の妻を持つことができるが、学歴で選べば、結婚してみたら賢くもなく美人でもない妻だった、という最悪の事態になる可能性がある。
「特別職は全員がモデル系の美女なんですか?」
「モデル系とは限りません。社内の補助職には小柄な可愛い系も多いし、役員秘書にはどこのお店から引き抜いてきたのかと役員の良心を疑うような人もいます。あ、これは人前では言えないことでした。まあ、総合職の女性とは人種が別ですから」
 神谷悦子が特別職社員を見下しているのは確かだった。女性が自分よりきれいな人に対抗心を抱くのは理解できないでもないが、神谷は僕と同じぐらいの身長でスタイルもよく、僕から見て整った顔をしているのに、どうして特別職の女性をそれほど敵視するのか分からない。
 会食は二時間半ほどで終わり、レストランの前で山岸たちと別れた。笹川は「良い接待だったな」と上機嫌だった。僕も山岸課長や神谷悦子とざっくばらんに話が出来る関係になれてよかったと思った。
 その日を境に篠塚は僕と無関係な人物となった。僕の頭から篠塚に起因するトラウマと性的記憶を完全に消し去ることは不可能だが、時が過ぎるにつれて、本当に起きたのかどうかも定かではない夢想のような記憶へと変化していった。

 六月の下旬になって、僕は有名な人材会社からアプローチを受けた。メールを見た時には、どうして中堅商社の新入社員の僕などにスカウトから声がかかるのだろうかと半信半疑だったが、二、三日後に「夕食でもしながらご説明したい」と電話がかかってロイヤルパークホテルに呼び出された。
 スカウトから高級ホテルに呼び出されるとは僕もちょっとしたものだ、と気を良くして会いに行った。
 ロイヤルパークホテルのロビーに行って、あたりをキョロキョロと見回していると身なりの良い男性が近づいてきた。
「桜山菜緒さんですか?」
 金縁の眼鏡をかけた五十絡みの紳士だった。
「はい、そうです」
 紳士は両手で名刺を差し出した。左手首のローレックスにわざとらしさを感じさせないほどの品格を漂わせている。
 名刺にはエグゼクティブ・サーチ部門のディレクターの肩書と浜谷はまたに大悟だいごという名前が記されていた。
「私の大事なクライアントからのご指名で桜山さんにコンタクトさせていただきました。私の部門では年収千二百万円以下の案件は扱わないのですが、桜山さんは例外中の例外です」
「そ、そんな年収の話がどうして僕に!」
「よくお聞きください。大卒一年目の桜山さんに千二百万レベルを提示するとは申し上げていません。桜山さんが勤務されている茅場化成品と、今回のクライアント企業とではこれほどの差があります」
 浜谷はiPadに給与の比較表を表示して僕に見せた。茅場化成品と「A社」について大卒初年度から二十年間の年収が縦の表になっていて、右端には両社の年収の差額が書かれていた。大卒初年度はA社が六万円ほど高いだけだが、五年目では七十万円、十年目では百五十万円にまで差が拡大している。
「うちの会社の給料が高くないということは認識していましたが、これほど違うとはショックです」
「この比較表に記されているのは総合職社員の平均年収です。A社は幹部候補の育成制度が充実しています。ひとたび幹部候補に選ばれたら、生涯年収は茅場化成品の倍になると言っても過言ではありません」
「僕は自分がそんな立派な会社で幹部候補になれると考えるほど楽観的な人間ではありません」
「いいですか? 桜山さんを是非にと指名されたのは、その企業のトップに近い人物なんです。桜山さんはレッドカーペットの前に連れて来られて、一歩を踏み出さないでいられますか?」
 浜谷の言う通りだ。僕は今の勤め先に特に不満は無いし、職場の上司や同僚もいい人たちだが、二十年勤めて、うまく行っても佐藤課長のレベルに到達するだけだ。佐藤課長はそこそこ幸せそうに見えるが、こうやって年収推移表を見せられ、A社より三百万円も低いと知って白けた気持ちになった。A社から幹部候補生含みのスカウトが来るというのは、夢のような話だと改めて実感した。
「本当に僕を指名してきたんですか? 誰か同姓同名の人物と間違ってるんじゃないでしょうか? 桜山菜緒という名前はそんなに珍しくないと思いますから」
「アッハッハ、若いのに奥ゆかしい人ですね。本当かどうかは面会すれば分かりますよ。桜山さん、どうされますか? A社への転職にチャレンジしてみますか、それともこの千載一遇のチャンスをパスされますか?」
「チャレンジします!」
と僕は反射的に答えた。
「そう返事されると思っていました。五階のレストランで専務がお待ちです。さあ、最終役員面接に参りましょう」
 僕は三顧の礼で迎えられる気分になりかけていたが、「面接」という言葉を聞いて、自分の置かれた立場がそんなに甘いものではないことを実感した。去年の就活の採用面接の緊張を思い出して、せっかく社会人になったのに、また面接を受けなきゃならないのかと、気軽にスカウトの話に乗ってしまった事を後悔した。
 でも、今度の面接は一回っきりで、最終役員面接だけだ。なんとか頑張ろうと心に鞭を打って、浜谷についてエレベーターに乗った。
 五階でエレベーターを降り、高級そうな和食レストランに行った。広いフロアーにテーブルがゆったりと配置されている。ビルの中なのに、窓の外には中庭が見える。自分でお金を払って行けるクラスのレストランとは訳が違う。
 和服の女性の案内で中庭の見えるテーブルへと案内された。一人で座ってビールを飲んでいた男性が、僕たちを見て立ち上がった。
 デカい! 僕はまずその男性の大きさに圧倒された。百九十センチには届かないだろうが、わざわざ見上げないと顔が視界に入らないほど背が高い。肩幅も広く、身体全体が巨大だがお腹は出ていない。圧倒的な威圧感と風格を感じさせる、五十代前半の人物だった。
 僕は震える手で名刺を差し出し「茅場化成品の桜山菜緒と申します」と自己紹介した。
 その男性は名刺の代わりに右手を差し出して「梶谷かじたに剛毅ごうきです」と言った。僕は平身低頭しながら握手した。
「そんなに固くならないで、座りましょう、アハハハ」
 丸みを帯びた低い声が頭上から降りて来て、僕は梶谷の正面の席に座り、僕の隣の席に浜谷が座った。
 心臓がドクッドクッと音を立てている。
「浜谷さん、スカウトには成功しましたか?」
「はい、専務。桜山さんは是非御社に入社したいとのご希望です」
「そうですか、それはよかった」
と専務は満足そうに行って、僕と浜谷のグラスにビールを注いでくれた。
「じゃあ、桜山さんの入社を祝って乾杯だ」
「合格なんですか? ありがとうございます!」
と僕は感激して叫んだ。
 専務は笑いながら右手に持ったグラスを僕のグラスにカチンと当てて、ビールを飲みほした。
 僕はその時、まだ社名を聞いていなかったことを思い出した。僕は浜谷の耳に顔を近づけて「あのう、A社って……」と小声で聞いた。
 浜谷はビールを飲もうとしていたがブッと吹き出しそうになるのを我慢しようとしてむせ返り、ゴホンゴホンと咳き込んだ。
「大丈夫ですか、浜谷さん?」
 何とか咳を止めて、浜谷が言った。
「失礼ですが、専務のお名刺を桜山さんにお渡しいただけますか? 私はまだ社名を言ってなかったもので……」
 専務はポカンとした目で浜谷を見ていたが、事情を理解してワッハッハと腹を抱えて笑い出した。
「君、どこの会社だかを知らずに乾杯したのか? いやあ、これは前代未聞だ」
 僕の顔は生まれてから今までで一番真っ赤になった。
「すみません……」
 他に言える言葉が見つからなかった。
 専務はポケットから名刺入れを取り出して一枚を差し出した。僕は両手を差し出して卒業証書をもらう時のような格好で専務の名刺を拝領した。
 その名刺には僕がよく知っている会社の名前が書かれていた。
「シリウス科研!」
「君はうちに出入りしているそうだね」
「はい、山岸課長と神谷悦子さんにはいつもお世話になっております」
「今の会社はすぐにでも辞められるんだな?」
「はい、多分」
「じゃあ、切りのいいところで七月から採用ということにしよう。来週の月曜日が月初めだな」
「そんなに早く! 今日は火曜日ですから、明日の朝会社に退職を申し出て、引継ぎを三日で終わらせなきゃなりません」
「無理だというのかね?」
「い、いえ。私、頑張ります。ダメだと言われたら休んででも月曜日にはお伺いします」
「君、休暇を取って来るんじゃダメなんだよ。ちゃんと円満退職をして来てくれないと!」
「はい、承知しました。槍が降ってもそのようにいたします」
「君の名刺の裏に個人のメールアドレスと電話番号を書いてくれ。人事課から連絡が行くと思うから」
 僕は自分でも信じられないほど緊張していた。
 専務から家族の事やら大学時代の事など色々な質問をされたが、答えながら自分で「またトンチンカンなことを言っている」と何度も思った。お酒は弱いのに、専務から勧められるままにビールを飲んでフラフラになった。
 せっかくのご馳走なのに、何を食べたのかは記憶していない。殆ど手を付けなかったような気もする。
 レストランを出て、一緒にエレベーターで一階に降りると、専務は僕にタクシーチケットを渡して「気をつけて帰りなさい、じゃあ月曜日に待ってるよ」と言って僕の肩をポンと叩いた。
 まだ午後八時半だった。僕はタクシーに乗ると「近場ですみませんけど茅場町駅までお願いします」とドライバーに告げた。家まで乗って帰れというつもりでタクシーチケットをくれたのは分っていたが、この時間帯に七千円もかけてタクシーで帰るというのは僕の良心が許さなかった。

 翌日の朝、僕は八時半に出社し、イントラネットの人事関係書式集から退職届のフォームをダウンロードして印刷した。署名捺印して九時に佐藤課長に差し出した。
「ど、ど、どうしたんだ! どうして辞めるんだ? パワハラか? 課の飲み会かどこかで、飲み過ぎてひどいことを言ってしまったとしたら許してくれ」
「そんなんじゃありません。佐藤課長も、笹川先輩も、松坂先輩も、関口さんも、とてもよくしてくださいました。ずっと一緒に仕事したいのはやまやまなのですが、どうしてもすぐに辞めなきゃならない事情ができてしまったんです」
「どんな事情なんだ? 桜山君の場合女性関係とか、スカウトなどはあり得ないだろうから、実家の問題か? 薬物に手を出して逮捕されたとか、痴漢冤罪に巻き込まれたんじゃないだろうな?」
「違法性は全くなくて百パーセントクリーンです。事情があって今は申し上げられないんですが、言えるようになったらご報告に上がりますので、今日の所はお許しください」
「そうか、人それぞれいろんな事情があるとは思うが……。部長にひと言通しておかなくちゃならないな」
 佐藤課長は僕を部長の前に連れて行き「桜山君がやんごとなき事情で今月いっぱいで退職することになりました」と報告した。
「そうか、残念だな。しかし、今月いっぱいというと、明後日までじゃないか。引継ぎは大丈夫なのか?」
「桜山君の場合、引継ぎは半日もあれば大丈夫でしょう」
「じゃあ、元気で頑張ってくれ」
と部長は言って、あっさりとハンコを押してくれた。
 あっけなさ過ぎた。形だけでも慰留をしてほしかった。僕は部長にとってどうでもよい社員だったのだ……。シリウス科研への転職を決心したのは正解だったかもしれない。
 課長と部長の捺印がある退職届を持って人事部に行った。
「転職? それとも実家に帰るとか?」
と人事課の成瀬洋子に聞かれた。
「事情があってまだ決まっていないんですけど」
「そう、それは大変ね。じゃあ、社会保険事務所には単なる退職として届けておくから、金曜日に健康保険証を持ってきてちょうだい」
「はい、分かりました」
「セクハラはないにしてもパワハラとかじゃないわよね? 円満退職と考えていいのね?」
「はい、百パーセント円満退職で、職場の人たちの事を惜しんで去っていきます。あまり惜しまれてる感じはないみたいですけど……」
「桜山君の場合女性関係とかスカウトじゃないでしょうけど、どうして辞めるの?」
 皆から同じような言い方をされるのが腹立たしい。
「非常に複雑な事情があって今は誰にも言えないんです。言えるようになったら佐藤課長のところにご報告に上がるとお約束しました」
「そう、じゃあまあ、お元気で」
 退職するとはこんなに簡単なことなのかと驚いた。人間の人生とは自分の意思でいとも簡単に変えられるのだ……。
 笹川、松坂、関口は僕と佐藤課長の会話を聞いていたので、退職の理由についてあれこれ質問されることはなかった。僕は笹川のアシスタントをしながらOJTで勉強する立場だったし、メールなどは全て笹川にコピーを流していたので、取り立てて引継ぎをする必要は無かった。
 昼休みにスマホをチェックするとシリウス科研の人事課からメールが届いていた。月曜日の午前九時に出社して人事課に出頭するようにという文を読んで、本当に転職するのだという実感が湧いてきた。
 社会保険関係の手続きのため住民票の写しをスマホ写真で良いので出来るだけ早く送るように、また原本は戸籍抄本などと一緒に入社後速やかに提出せよとのことだった。
 ひとつ意外だったのは草加そうかにある独身寮の住所が書かれていて、引っ越し荷物は独身寮に送るようにとのことだった。部屋には月曜日以降にしか入れないらしい。独身寮に入寮する義務があるとは聞かされていなかったが、言われたことには黙って従う方が無難だと思った。草加とはどこにあるのかピンと来なかったが、グーグルマップで調べたところシリウス技研からは半蔵門線の直通で三十分ほどで行けると分かって、それなら喜んで独身寮に入りたいと思った。
 今の妙典みょうでんのアパートはまあまあ気に入っているが、東西線の通勤ラッシュから逃れられるのは正直なところ嬉しい。満員電車で女性の近くに立つときには両手で吊革にぶら下がることを心がけているが、両手を上にあげていても女性が被害を申し立てれば、痴漢ちかん冤罪えんざいで逮捕されると聞いてからは、満員電車に乗るのが怖くて仕方ない。
 昼休みが終わって笹川に今日は早めに退社させて欲しいと申し出た。
「引っ越しとか色々あって、できれば五時ごろ会社を出たいんですが」
「そうか、俺は別にいいけど」
と笹川が言って、佐藤課長に相談してくれた。
「今すぐ帰宅しろ。引継ぎは不要だから、明日明後日は有給休暇ということでいいよ。じゃあ、元気で暮らせよ」
「そ、そんな、薄情な。もうこれでさようならということですか……」
「アハハハ、今のは冗談だよ。金曜日の夕方に歓送会をやってやるから、その時に出て来い」
「ああ、よかった。金曜日には健康保険証を人事の成瀬さんに返しに来ますから、五時ごろに来させてください」
 僕は机の引き出しに入っている私物をバッグに詰め込んで退社した。一旦アパートに戻ってからコンビニに行き、マイナンバーカードを使って住民票を入手した。スマホで撮影してメールで送ってから、人事課に郵送しておいた。
 妙典駅のヤマト運輸に立ち寄って段ボール箱の「大」を三つ購入し、後で届けてもらうことにした。夜遅くまでかかって部屋の中の荷物を三つの段ボール箱と小型スーツケース一個に詰め込んだ。翌日、独身寮あてに段ボール箱と寝具を発送し、通りかかった廃品回収屋に冷蔵庫とベッドを引き取ってもらった。
 夜、実家の母に電話して、転職することになったと言うと、心配していた。
「入社してたった三ヶ月で辞めるのかい? 少しぐらい嫌なことがあっても我慢しなきゃ」
「僕は今の会社の人たちが好きだし、このまま働いていたかったんだ。でも、今の会社よりずっと大きくて給料も高いし、その会社の専務さんから名指しでスカウトされて、豪華ホテルのレストランで接待されたんだよ。幹部候補生になれるみたいなことをスカウトさんにも言われていたもんで、これはすごいチャンスだと思ってその場で入社を決めたんだ」
「大企業の幹部候補生? 菜緒は何でも楽観的でいい加減だから騙されてるんじゃないの? そもそもどうして菜緒がそんなお偉いさんから名指しされたの?」
「さあ、僕にもそれがよく分からないんだよね。購買部の課長さんが推薦してくれたんじゃないかな。まあ、あっという間に偉くなって故郷に錦を飾るかもしれないから、期待して待っていて」
「俄かには信じられないんだけど」
「草加にある独身寮に移ることになったから住所をメールしとくね」
「草加って、草加せんべいの草加かい?」
「多分そうだよ。半蔵門線直通だから便利なんだ。半蔵門線は東西線ほどには混んでいないから、お母さんが申し込んでくれた痴漢冤罪ヘルプコール特約付きの弁護士費用保険はもう解約してもいいかもしれない」
「ダメよ。菜緒みたいに痴漢する側より痴漢される側に回りそうな子ほど、犯人に仕立て上げられやすいんだから、保険はそのままにしておきなさい」
「自分の息子をニューハーフみたいに言うのはやめてくれる? 今度会う時に僕のイケメン・ビジネスマンぶりを見て驚くぞ」
「はいはい、楽しみにしてるわ」
 母と電話で話をすると、どんな時でも心が温かくなる。僕に何が起きても母だけは僕の味方をしてくれるだろうという、根拠のない確信がある。もし痴漢に仕立て上げられて逮捕されても、母だけは絶対僕を信じてくれる。


続きを読みたい方はこちらをクリック!