ポケモンGOにはご用心:女装バイトの罠(TS小説の表紙画像)

ポケモンGOにはご用心
 女装バイトの罠

【内容紹介】女装バイトがきっかけとなって女性化させられる小説。主人公の大学生はポケモンGOを毎日夢中でプレイして配信開始40日後にはレベル30に到達するが、四六時中ポケモンGOのことばかりを考えている自分が虚しくなってきた。虚栄心、人より少しでも上に立ちたいという欲望に執着する自分に嫌気がさしてきたのだった。そんな時に「ポケモンGOをプレイするだけでバイト代がもらえる」という募集広告が目に入って応募する。何百人もの応募者から一次審査を通った約40名を対象とした説明会に行った結果、主人公を含む十名が採用されることになる。それはポケモンGO代行業務を行う会社だと分かった。翌朝、主人公はポケモンGO代行会社から顧客のIDとパスワードを受け取ってポケモンGOのプレイを開始する。甘い話に乗ったバイトを始めたところ、知らず知らずのうちにとんでもない羽目になり、あがいているうちに益々深みに入っていく大学生……。ポケモンGOをプレイしたことのない方にも楽しめる小説。

第一章 ポケモンGOの憂うつ

アルバイト募集
 一日中ポケモンGOで遊んでお金がもらえる!
 ポケモンGO代行の仕事です。
 正社員への登用の道もあります。
 十八歳以上の健康な方に限る。
 応募するにはこちらをクリック!


 夏休みが残り少なくなってイライラしていた九月三日の朝、スマホでググっていたらこんな広告が目に飛び込んだ。ポケモンGOのアップデートのニュースを見て、どのポケモンを相棒に選ぶのが良いのかを調べようとしていたところだった。確かポケモン、相棒、選択というキーワードで検索した時だったと思う。

 ポケモンGOをすれば給料をもらえるとは夢のような話だ。僕は夏休みには沢山バイトをして冬のスキーシーズンのために貯金をしようと思っていたのに、結局殆どバイトをせずに時間ばかりが過ぎてしまっていた。

 僕にとってポケモンGOは諸悪の根源だった。七月二十二日、日本での配信が開始された日にスマホにインストールしたが、それ以来ポケモンGOに没頭するようになった。そもそもポケモンGOは歩くことが主眼のゲームであり、毎日長距離を歩けば身体にいいしダイエットもできると思って開始した。しかしトレーナー・レベルが上がってくると、もっとレベルを上げたいという欲望に憑りつかれた。

 朝七時にアパートを出ていくつかの公園を歩き回り、夕方クタクタになって帰宅する。風呂に入ってテレビでも見て寝ようと思うのだが、もう一、二時間歩けば次のレベルまでアップできるかもしれないと思うと居ても立っても居られなくなって夜八時に再び家を出る。結局午後十一時に疲労困憊して帰宅しシャワーを浴びて寝るだけなのだが、ベッドに横になる時に翌朝六時半に目覚まし時計をセットする自分が恨めしかった。

 そんな毎日が続いたが、トレーナー・レベルが三十になった瞬間、その場で「三十になったぞ!」と大声で叫んでしまった。公園で僕の周りにいた人たちは僕が三十歳になったと叫んでいるのだと誤解したかもしれない。でも僕は年齢より若く見えると友達から言われているので、周囲の人は僕が嘘をついているか頭がおかしいと思ったに違いない。いずれにしても公園で突然「三十になったぞ」と叫ぶ人が正常の域に入るとは思わないだろう。

 その日の夜、僕はとても虚しくなった。
「この先には何があるのだろう?」

 レベル三十になるまでに必要な累積ポイントは二百万だった。次のレベル三十一に上がるには更に五十万ポイントが必要だ。五十万ポイントとはポケモンを開始した人がレベル二十三になるのに必要なポイントよりも多い。ネットで見ると殆どの人がレベル二十一から二十三あたりでポケモンがイヤになるという。レベル三十になると、それほどの労苦を重ねてもレベルがひとつ上がるだけなのだ。

 ポケモンGOの最高レベルは四十に設定されている。レベル四十に到達するまでに必要な累積ポイント数は二千万であり、現在の僕の累積ポイントの十倍だ。気が遠くなるような数字だ。僕はそれまでに廃人になるのが確実だと思う。

「もうポケモンは卒業しよう。このままだと僕は気が狂ってしまう」

 そう思い始めた時にバイト募集の広告に出会って救われた気がした。仕事なら無駄とは言えない。ポケモンGOで人より上に行くには体力、気力、根性の三要素が必要だが僕は三要素とも備えているし、ポケモンGOに関する知識経験は誰にも負けない。

 広告の「こちらをクリック」というリンクをクリックすると、「応募フォーム」が表示された。住所、氏名、年齢、職業、性別、身長、体重とポケモンGOのトレーナー・レベルを記入し、上半身の写真を添えて申し込むようになっていた。僕はスマホで自写した写真をアップロードして送信ボタンを押した。

 送信ボタンを押した瞬間、ここ数日間心の中に鬱積していた重い焦燥感が風に吹き飛ばされたように消え去った。久しぶりに目覚まし時計をセットせずにベッドに横たわり重荷から解放された気分でぐっすりと眠った。

 ***

 翌朝目が覚めると時計は十時を回っていた。こんなに眠ったのはひと月ぶりだろうか。カーテンの隙間からの陽ざしが眩しい。そう言えば昨夜バイトを申し込んだのだった。あんなウマい話には大勢の応募者が殺到するだろう。いや、ポケGOでお金がもらえると思うようなバカな若者を集めるための詐欺の手口かもしれない。昨夜はある意味で僕は思い詰めていた。だから救いを求めたい気持ちが心のどこかにあって、あんな話に応募したのだ。

 もし雇ってくれれば面白いし、ダメならダメで本当にポケモンGOから足を洗って元の健全な大学生に戻ろう。そうは思っても応募の結果がメールで届いていないだろうかとドキドキしながらスマホを見た。

「ポケモンGOのアルバイト募集にご応募いただきありがとうございました。貴方は厳正なる審査の結果適格者と認められましたのでお知らせいたします。つきましては仕事の内容と報酬等に関する説明会を下記の通り開催し、その上で仕事を開始していただきたいと存じますのでお越しください」

 ヤッター! 思わずガッツポーズをした。そりゃそうだろう。「厳正なる審査」とはどんな審査なのかは知らないが、ポケモンGOのマニアを数百人集めてもレベルが三十を超える人がそう何人も居るはずがない。僕が落とされるはずがないじゃないか。何事も極めることが価値になる時代だ。東京中で数百軒のラーメン屋を回った大学生が「ラーメン評論家」という肩書でテレビに出ているのを見たばかりだ。現時点でポケモンGOのレベルが三十ということは、そのラーメン評論家に劣らないほどの専門性と希少価値を意味するのではないだろうか。僕はある意味で道を究めた人間なのだ。モリモリと自信が湧き上がった。説明会は今日の午後三時に秋葉原駅から徒歩数分の昭和通り沿いのビルで開催されることになっていた。

 ***

 早めにアパートを出て上野駅まで行き、不忍池を回ってから秋葉原の説明会場まで歩いて行こうかと思いついた。不忍池にはミニリュウというポケモンが沢山出現することで知られており、ミニリュウはハクリュウに進化し、更にカイリュウという強いポケモンに進化する。数多くのミニリュウを集めて強いカイリュウを手に入れたかった。不忍池から上野駅を経て中央大通りを秋葉原まで歩くルートはポケストップ(ポケモンを捕まえるのに必要な道具をもらえるスポット)の密集地帯だから効率よくポイントを集められる。

「イヤ、ダメだ!」

 昨夜ポケモンGOから卒業しようと心に決めたばかりなのに、僕は何ということを考えているのだ。頭をブルブルと左右に震って、愚かな考えを頭から追い出した。僕は目を閉じて深呼吸をしてから両手を胸の前で組み、夕暮れの砂浜に一人座禅を組んでいる自分を想像した。十分ほどするとポケモンGOに絡む欲望が覚めてきて、自分を客観的に振り返ることができるようになった気がした。

 僕をポケモンGOに駆り立てたのは、初期においては物珍しさと新しいポケモンと遭遇した時に味わえる興奮だった。ところがレベルが十を超えたあたりから「もっと上のレベルに行きたい」という欲望に憑りつかれた。それは見栄のための出世欲そのものだった。友達と会うと「ポケモンのレベルは幾つになった? 僕はもうすぐ二十だよ」というと、「うわあスゴイな。お前にはとても敵わないよ」という答えが返ってくる。それが何とも言えない快感だった。もう一つの欲望はコレクターとしての所有欲だ。ポケモン図鑑にある百数十のポケモンのうち、何種類のポケモンを捕獲したかを自慢しあうという他愛のないことだが、百を超える頃から必死になって新しいポケモンを追い求めるようになった。

 本当に愚かしいことだった。出世欲、見栄、所有欲。従来僕が価値を認めていなかったことのために必死になる自分。もう二度と後戻りしてはならない。レベル三十一になろうと思うのは止めよう。

 安らかな気持ちで二時にアパートを出た。スマホでポケモンGOを起動せずに外出したのはひと月ぶりだった。充電用の外部電源ユニットを置いて出たのでバッグも軽かった。秋葉原駅の昭和通り口の改札を出てメールに記されていたビルまで歩いて行った。それは昭和通り沿いの一階が飲食店になっている古い雑居ビルで、始めて訪れる人を神経質にさせるのに十分なほど薄暗い階段を四階まで登って行った。

「ポケモンGO説明会場」という掲示はすぐに見つかった。ドアの外に置かれた細長い机で眼鏡をかけた太いオバサンが受付をしていた。

桜里さくらざとですけど」
 僕が名乗るとオバサンは「えーと」と言いながら名簿の中の名前を上から順にチェックして名簿の中段に僕の名前を見つけた。

桜里さくらざと里桜りおですって、クククク」
 名簿にプリントされていた僕の名前を見てオバサンが笑った。物心ついてから、というよりも、漢字が書けるようになってから何百回も笑われて育ってきた。このオバサンが悪いわけじゃない。味付け海苔の会社に触発されて上から読んでも下から読んでも同じ漢字になる名前を選んだ両親が悪いのだ。

「名簿の中に一人だけ女性がいると思っていたら、男性だったのね」
 レオはレオナルドの略であり男性らしい名前の代表だ。英米人はLEOを必ずリオと発音する。リズが女らしいのと同程度にリオは男らしい名前なのだ。このオバサンはデカプリオが女優だとでも思っているのだろうか。

 僕はオバサンの質問を無視して十四番と書かれたバッジを受け取り、ポロシャツのポケットの上にそのバッジを付けた。中央の通路の左右に三人用の長机が七列並んでいて、既に十人ほどが座っていた。僕は他の応募者の様子が見えるようにと前から四列目の左端の席に座った。最後尾の列はスタッフ席らしく、書類やパソコンが置かれていた。

 午後三時に説明会が始まった時にはスタッフ席を含めて四十二席がほぼ満席になっていた。審査を通った人が四十人近くいるということは応募者数はその倍、いや、数百人だったのかもしれない。三年後に就活をする時にもこんな風にスイスイと進めばよいのだが……。

 スタッフを含め全員が男性だった。やはり審査基準はポケモンGOのトレーナーレベルに最重点を置いていたのだろう。ネットを見ていて現時点でレベル二十を超えている人は殆どが男性だからだ。ポケモンGOを楽しむ女性は大勢いるが、そこまでのめり込む女性は少ない。昨夜までの僕のような精神状態に追い込まれないという点において女性の方が正常かつ賢明な価値観を持っているということだろう。

「ただいまよりポケモンGOのアルバイトに関する説明会を開催します」
 最後尾の席のスタッフがよく通る声で言うと会場が静かになった。

 四十前後の背の高い男性が中央の通路を通ってホワイトボードの前に進んだ。

「みなさん、おめでとうございます。責任者の水野と申します。昨夜までに七百五十三名からの応募があり、厳正な審査の結果、四十五名を選んで説明会の招待メールを送った結果、三十九名の参加がありました。厳正な審査と言っても、住所、氏名、年齢、職業、性別、身長、トレーナー・レベルと写真の八項目による審査です。今回は若く、健康な男性だけが審査をパスしました。周囲の応募者を見て気づいたかもしれませんがほぼ全員が高校を出て二年以内の大学生かフリーターとなっています。正社員への登用のチャンスがあると書いた結果、四、五十代の失業者や定年退職者も百人近く応募がありましたが全部落としました、ウッフッフ」
 連られて笑ったのは二、三名だけだった。水野の苦笑には不気味な印象が残った。

「まず、仕事の内容を説明します。今回の仕事はポケモンGOの代行業務です。ご存知の通りポケモンGOを始める時にはメールアドレスとパスワードを登録します。このメールアドレスとパスワードがあれば別のスマホでゲームを進めることができます。世の中には早くポイントを稼いでトレーナー・レベルを上げたいという強い欲望とお金の両方を併せ持つ人たちが大勢存在します。その方々が我社のお客さまなのです」

 なるほど。ポケモンGOに憑りつかれた金持ちが代行業者に金を払って自分の代わりに出歩かせてポケモンを捕獲させ、トレーナー・レベルを上げさせるというわけか!

「皆さんの仕事の内容というのは、お客様のIDでポケモンGOにログインし、出歩いてポケモンを捕獲することによりポイントを獲得するということです。毎朝、本社からその日に代行するお客様のIDとパスワードをメールで皆さんに送ります。午前零時に本社のサーバーからお客様のアカウントにログインしてその日の獲得ポイント数を記録して各人のバイト料を振り込みます。トレーナーレベルによってポイント数あたりのバイト料は異なりますが、例えばレベル十五の場合は二ポイントあたり一円です」

 僕なら八時間で四万ポイントは稼げるだろう。一日八時間のバイトで二万円ということになる。時給二千五百円というのは美人女子大生がキャバ嬢のバイトをすれば稼げるかもしれないが僕には到底あり得ないほど割りの良いバイトだ。頑張って毎日十二時間働けば十日で三十万円になる! 周囲に座っている応募者たちから軽いどよめきが湧き上がった。皆、目を輝かせている。

「但し、今回採用する人数は十名で、四人に一人の狭き門ということになります。これから隣の小会議室で簡単な面接を実施します。四名を一組として五分間の面接です。前列から順に四名ずつ小会議室に入ってください。次の四名は小会議室のドアの前で待機してください。全員の面接が終わって採用者を発表するのは約一時間後になりますが、面接を終えた方はこの部屋でお待ちください」

 水野は中央の通路を通って出て行った。スタッフが前列の端から四人と、その次の四人を小会議室へと誘導した。この順番で行くと僕は十九人目、ということは五組目の面接になる。もっと前の席に座っていたらドキドキしながら面接を待つ時間が短くて済んだのに、と後悔した。

 面接では何を聞かれるのだろうか。ちょうど、就活中の三流大学の四年生が何度面接を受けても落とされるという連ドラを見ているが、面接では、何故その会社に入りたいと思ったかとか、自分を雇うと会社にとってどんなメリットがあるのかという点についてアピールする必要があるようだ。僕がアピールすべきポイントは何だろうか? やはりポケモンGOの実績を強調するしかないだろう。ポケモンGOの代行をする会社ならひと月余りでレベル三十を達成するのにどんな克己心と集中力が必要かは分かっているはずだ。そうだ、もう一つアピールすべき点は健康かつ真面目で誠実であるということだ。小中高校すべてで皆勤賞を取ったことをアピールしよう。

 十分ほどすると最前列の応募者四人が帰って来た。真後ろに座っている四人はスタッフに誘導されて出て行ったばかりだったので、三列目の人たちが「どうでした? 何を聞かれましたか?」と口々に質問した。

「ゴメン。面接の内容は待っている人には話さないようにと言われたので……」

 スタッフが「静かに! 面接の内容についての会話は禁止されています」と大きな声で注意したので会場がシーンとなった。

 数分するとスタッフから声が掛かり小会議室の前まで連れていかれた。丁度面接を終えた四人が部屋から出てきて、待機していた四人が入れ替わりで部屋に入るところだった。出てきた四人は誰もガックリとはしておらず、うれしそうでもなかった。面接される側には成否がはっきりしないようなことを聞かれるのだろうか?

 小会議室の中で何かしゃべっているのは聞こえるが話の内容までは分からない。時間が過ぎるにつれて鼓動が高くなってきた。こめかみにトクトクという音が聞こえ始めた時、ドアが開いて四人が出てきた。全員が顔をうなだれていた。どうしたんだろう?

「どうぞ、中に入ってください」
 スタッフに促されて小会議室に入った。僕は前から三番目だった。部屋の奥には長机が置かれていて水野を含めて三人の男性が座っていた。三人とも四十代程度で近寄りがたい雰囲気の人たちだった。それ以外の机や椅子は取り去られていて、僕たち四人は面接官たちの前に並んで立たされた。

「一人ずつ一歩前に出て自己紹介してください。持ち時間三十秒で、自分についてアピールしてください。但しポケモンGOに関係する事をしゃべってはいけません。では左端のキミからどうぞ」

 指差されたのは内気そうで色白な男性だった。先陣を切らされるのが気の毒なほどひ弱な感じの人で、恥ずかしいのか、顔が真っ赤になっていた。

「ぼ、ぼ、ぼく、K大学の一年の山際聡志です。アルバイトは初めてなので緊張しています。よろしくお願いします」

 たったそれだけ? 全く自己アピールにはなっていない。気の毒だが競争相手が一人減ったと思った。

「じゃあ質問だけど、キミはどうしてそんなに色白なの?」
 水野が聞くと、山際はもじもじしながら答えた。

「母が色白なので遺伝だと思います。それに、僕、読書が趣味なので日光に当たることが少ないんです」

「なるほど。両手を真上に上げてその場で一回転してください」

 奥の面接官に言われて、山際は手を上げて「こうですか?」と言いながら一回転した。

「はい、けっこうです。じゃあ、次は十四番の名札のキミ」
 水野に指さされて慌てた。僕は次の次のはずなのに一人飛ばして先に指名されたからだ。

「ぼ、僕はN大学1年の桜里リオと申します。ええと、セールスポイントは小学校から高校までずっと皆勤賞を取ったことです。健康で素直なのが特徴です。ええと……」

 しまった。「真面目で誠実」というべきところを「健康で素直」と言ってしまった。ポケモンGOについてしゃべってはだめだと言われたので、予定が狂ってしまったのだ。

「はい、スピーチはそのぐらいでいいよ」

 これでは山際と同レベルではないか……。両隣の応募者の口元がニヤリとなって「勝ったぞ」と言っているような気がした。

「キミの好きな食べ物を二つ言ってくれ」
 水野から予期せぬ質問が出た。

「は、はい……。ええと、母が作ってくれるコロッケと、それから、ええと、イチゴ・シュークリームです」
 面接官三人が一斉にワッハッハと軽く笑ったので僕は耳まで真っ赤になった。イチゴシューが子供っぽいから笑ったのだろうか。いや、「母が作ってくれる」と言ったのがまずかった。この年でマザコンと思われたに違いない。単にコロッケと言うべきだった。

「その場でピョンピョンと飛び跳ねながらゆっくりと一回転して」
 一番奥の面接官に言われて、僕は絶望的な気持ちのまま言われた通りにした。

「はい、けっこうです。じゃあ、次はキミ」
 水野に言われて僕の右の男性がしゃべりはじめた。自己アピールとはこんなふうにするものだとでも言うように胸を張ってしっかりとしゃべっていたが僕の耳には入ってこなかった。「もう終わった」という気持ちと敗北感に包まれた僕にとって、残りの二人が何を言おうと興味はなかった。四人目の応募者が何をしゃべったのかも全く覚えていない。ただ、面接官の前で一回転させられたのは山際と僕だけだった。バカにされたような気がして気が滅入った。

 面接室を出ると急に尿意が高まり、説明会場に戻る前にトイレに立ち寄った。山際も一緒だった。並んで用を足している時に山際が力のない優しい声で僕に言った。

「面接ってイヤだよね。思ってもいなかったことを急に聞かれるとドキドキして何も言えなくなっちゃう」

「そうだよね。僕はポケGOのことを言おうと思って準備していたのに、ポケGOのことはしゃべるなと言われて調子が狂っちゃった」
 山際に言い訳しても何にもならないのだが……。

「ポケモンGOってそんなに面白いの?」

「面白すぎて弊害が大きいよ。僕はレベル三十だけど、山際君はいくつ?」

「僕は時々やるだけだけど、レベル七だよ」

「たった七なの?」

 しまった。「たった」は余計だった。見下すつもりはなかったのに……。しかし山際の優しい笑顔は少しも崩れなかった。

「うん、そうだよ。桜里君はレベル三十ということは僕より二十三も上なんだ。すごいね」

 山際の「すごいね」はレベル三十のすごさが全く分かっていない「すごいね」だった。七を四倍して二を足すと三十だと思っているのではないだろうか? レベル七になるのに必要な累積ポイントは約二万に過ぎない。僕のレベル三十は二百万だから百倍苦労しないと到達できないのだ。

 それよりも、山際のようなポケモンGOの超初心者が一次審査を通って説明会に呼ばれたことが不思議だった。七百五十三名の応募者から厳正な審査の結果四十五名が選ばれたと言っていたのはウソだろうか? どんな審査基準だったのだろうか? でももう僕には関係ないことだ。そして山際にも。僕たち二人の敗北者は奇妙な連帯意識を抱きながら説明会場の席に戻った。

 しばらくすると全員の面接が終わった。早く面接結果を発表して僕たちを解放して欲しい。でも、水野が戻って来たのは更に十分ほど待たされた後だった。

「採用が決定した十名の名札の番号を発表します。該当者はこの部屋に残ってください。他の方は帰っていただいて結構です。ご苦労様でした」

 水野はホワイトボードに数字を書き始めた。結果は見るまでもないので、僕はバッグを肩にかけて帰ろうと立ち上がった。

 ところが、念のためにホワイトボードを一瞥したところ、十四という数字が含まれていたので僕は驚いた。まさか、面接であれほどの醜態をさらした僕を拾ってくれたのだろうか。そうか、やはりレベル三十が決め手になったのだ。僕は思わずその場でピョンピョンと跳ねた。右前方にもう一人ピョンピョンと跳ねている人が目に入った。僕は自分の目を疑った。それは山際だった。レベル七という初心者で面接で完璧にダメだった山際も採用されたのだった。

第二章 アルバイト

「採用手続きをしますので、合格者十人は前の方の席に座ってください」

 スタッフから声がかかり、僕は山際と並んで最前列に座った。

「今から採用に関する書類を配ります。上から順に記入してください。バイト料の振込先の銀行口座を記入する欄がありますが、口座番号を覚えていない人は帰宅後メールで知らせてください」

 手元に配られた「ポケモンGO業務委託契約書」という題の書類を見ると、最初に受託者、すなわち僕たちバイト応募者の住所、氏名、生年月日、メールアドレス、銀行口座・番号の記入欄があった。

 僕は財布から銀行のキャッシュカードを取り出して口座番号などを転記した。

 その下に「業務委託契約の明細」として、小さめの文字で詳しいことが書かれていた。その明細は裏面まで続き二十項目ほどが堅苦しい用語で書かれていて、最後に署名するようになっている。大学に進学するために上京する前の日に父から「書類にハンコを押すときには必ず内容を全部読め。他人の保証をする書類には絶対にハンコを押してはならない」と言われたことを思い出したので、最初から最後まで真面目に読んだ。特に不自然な内容は見当たらなかった。バイト代は毎週月曜日に前週の分を振り込むと書いてあった。

「ハンコを持っていない人は拇印でも結構です」

 勿論ハンコは持ち歩いていない。スタッフが前列から印肉を回して、各々が書類の末尾に署名した横に拇印を押した。

 スタッフが今日の日付の入った受付印を押しながら書類を回収して部屋から出て行き、数分後に書類の両面コピーを持って戻って来た。自分の分のコピーを渡されて、僕は「ちゃんとした会社だな、よかった」と少しほっとした気持ちになった。

「明朝までにお客様のポケモン・アカウントのログインIDとパスワードをメールします。それから一点だけ重要なことがあります。原則として毎日午後六時までにポケモン捕獲を終えて、その日実施した業務の内容についてお客様に直接面談して報告する義務があります」

 十人からザワメキが湧いた。毎日報告に行く必要があるとは聞かされていなかった。もし遠方なら余計な時間がかかる。それに、六時までしかポケモン捕獲ができないのでは、一日に稼げるポイント数が思っていたよりも少なくなってしまう。

「どこで報告面談をするのですか? 交通費は出るんでしょうか?」
 しっかりとした感じの人が手を上げて質問した。

「もし交通費が出ても例えば相模原まで来いと言われると、下手をすると往復三時間かかりますよね」
と、その隣の人が続けて質問した。

「面談場所はお客様のご自宅その他お客様から指定された場所になります。申し遅れましたが、交通費実費及びお客様のご自宅まで往復する時間について、時給千円で計算した金額が、その都度お客様から現金で支給されます」

 それなら文句はない。他の人たちも納得した表情だった。

「他にも何か問題が起きたり疑問があれば、私あてにLINEでお問い合わせください。明日のポケモンアカウントのIDとパスワードをお知らせするメールに私のLINEのQRコードを貼り付けておきますから友達登録しておいてください。それでは他にご質問が無ければ解散します」

 参加者たちは席を立って帰り始めた。

「桜里君、だったよね。僕たち採用されてラッキーだったね」
 山際から話しかけられた。トイレで話をした時と同じ、力のない優しい声だった。控えめな笑顔を向けられて、ほっとした気持ちになった。僕は山際に不思議な親近感を覚えた。

「そうだね。面接の時には百パーセント落ちたと思ったから、ボードに自分の番号を見つけた時には思わず跳び上がっちゃった。明日からのバイトが楽しみだね」

「楽しみだけど、夕方お客さんに会いに行かなきゃならないと思うと気が重いな」

「そうかな? どうってことないよ。交通費と時給が出るんだよ。それに、どんなお客さんの代行をしているのかが分かればポケモンGOをする時にも何となく励みになるじゃない」

「桜里君ってポジティブ思考ができるんだね。偉いなあ」

 おだてているのではなく心からそう思っていることが声でわかる。他人の良いところを素直に褒めることが出来る人は意外に少ない。僕は癒された気持ちになった。

「ほっとしたらお腹がすいてきた。今日は奮発してダブルクウォーターパウンダー・チーズでも食べて帰ろうかな」

「マクドナルドに行くんだったら、一緒について行ってもいい? 僕もマックを食べたい気がするから」

 一緒に食事をすることについて、こんなに控えめな口調で意向を聞かれたことはない。

「勿論さ。じゃあ、行こうか」

 僕たちは立ち上がって説明会場を後にした。歩きながら気づいたのだが山際と僕は全体的によく似ている。身長と目の高さ、肩の位置はほぼ同じで、二人ともどちらかといえば華奢な体格だった。先ほど抱いた不思議な親近感の理由が分かった気がした。

 僕はダブルクウォーターパウンダー・チーズとミルクを注文し、山際はチキンクリスプと野菜生活を注文した。

「小食なんだね」

「チキンクリスプは三百六十キロカロリーだから一日千八百キロカロリーにコントロールするのに丁度良いんだ。どうしても多めになりがちだから」

「へえ、そうなの? 僕はカロリー計算なんてしたことが無いよ。体重が増え過ぎたら二、三食抜いてお茶で済ませるとかで、すぐに元に戻るもの。続けて二食抜くとちょっとフラフラするけど」

「でも太らないようには努力してるんだね。今日合格した十人の中には太った人は一人もいなかったよね」

「そりゃあ、ポケモンGOで毎日歩いているからさ」

「僕は殆ど歩いていないけど……」

「そうそう、そのことだった。山際君も僕も面接では思うことを言えなくて失敗したじゃない。だから自分が合格していて意外だったけど、レベル三十だから通してくれたのかなと思ったんだ。失礼だけど山際君はポケGOは初心者みたいなのに受かっていたから驚いた。何を基準に面接をしたんだろう?」

「僕にも分からないけど、受かった人はみんな優しい顔をしていたよ。ガリガリしてなくて、いい感じの人が多かった」

「へえ、そうなんだ。山際君が飛び抜けて一番優しい顔だと思うけど、他の人の顔はよく見なかったな」

「アハハ、可笑しいな、僕が一番優しい顔だなんて。僕は桜里君がダントツで優しい感じだと思ったから話しかけたんだよ。誰でも自分の事って気づかないものだね」

「芸能とか水商売じゃないんだから、顔の優しさを審査基準にはしないだろう。ポケGOをするのに顔は関係ないもの」

「でも毎日お客さんに会って報告するんだから、会社としては感じの良い人を採用したいんじゃないかな。それに、予備審査で選ばれたのは十八、九歳の男性だけだよ。今日来ていた三十九人はほぼ全員がジャニーズ系のイケメンだったと思わない?」

「僕、人の顔に関する記憶力は低い方だからよく分からないよ。確かにゴツイ感じの人は一人も居なかった気がする。でもちょっと待って。今の話を冷静に解釈すると、山際君は自分もジャニーズ系のイケメンだと思っているんだね」

「そ、そんな……」
 色白の山際の頬が真っ赤に染まった。ちょっとからかっただけなのに、まるで少女みたいに反応されると僕の方が戸惑ってしまう。

「桜里君をイメージして言ったんだ。自分がイケメンだと思ったことは一度もないよ。女の子からも相手にされないし」

「女子にモテないという点では僕も負けないぞ。今日はモテない男どうし知り合えてよかったね」
 僕は自分がモテないとは思っていなかったが、話のノリでそう言った。

 LINEのふるふるでお互いを友達追加して別れた。

 ***

 ピピピッ、ピピピッ。目覚まし時計が鳴っている。そうだ、今日からポケGOの仕事が始まるから六時半にセットして寝たのだった。カーテンを開けるとどんよりと曇っていた。絶好のポケモン日和だ。ポケモンGOは長距離を歩くから快晴だとバテてしまうし、雨が降って傘をさすと手元がおぼつかず命中率が落ちる。曇り日が最高なのだ。

 スマホでメールを開くと「今日のお客様について」という受信があった。早速ポケモンGOを起動して「サインアウト」をクリックし、メールに書かれていたIDとパスワードを入力した。

 saori278488という名前のトレーナーで現在のレベルは五となっている。名前から推測すると昭和二十七年八月四日生まれのサオリさんという女性である可能性が高い。ということは六十四歳だから自虐的に「ババア」という意味でsaori278488という名前にしたのだろう。よし、夕方までにレベル十まで高めて報告に行ってサオリさんを驚かせてやろう。最後に「しあわせたまご」を使って大量に進化させればレベル十一か十二まで持っていけるかもしれない。

「お客様との報告面談のロケーションについては正午ごろメールでお知らせします」と書かれていた。場所が分かっていれば午後六時ごろにその近辺に行くような徒歩ルートを考えて「仕事」を開始できるのに、と思った。どこに行くにも便利な秋葉原駅周辺でお昼を迎え、報告面談の場所をチェックしてから午後の行動計画を立てることにしよう。

 トーストと低脂肪乳で朝食を済ませて七時半にアパートを出た。秋葉原までは十二キロだから歩くと二、三時間かかる。誤解を避けるために言っておくが、僕の平均歩行速度は信号待ちを考慮しても時速五・八キロメートルだから、ただ歩いていくだけなら秋葉原駅には二時間ちょいで行ける。ポケモンGOをしながら歩くと、時速は郊外でも八割、都心だと半分以下になる。アパートを出たところで二匹続けてポッポが出現し、僕は勿論一発で仕留め、グッドスロー・ボーナスを含めると合計二百七十ポイントを獲得した。ポッポを進化させる際に得られるポイントを考慮すると、約五百ポイントを獲得したことになる。昨日の説明会で聞いたバイト料の目安は二万ポイントで一万円だから、僕は既に二百五十円を手にしたことになる。

 ということは電車代を節約して秋葉原駅まで歩くよりも、電車に乗ってできるだけ早くポケモン密集地域に到達する方が、収入的にもベターなのだ。僕は歩く方向を変えて駅に向かった。有楽町までJRに乗って日比谷公園に行き、何週かした後で銀座、日本橋、三越前、神田を通って秋葉原の中央大通りに行くというルートにしよう。月曜日の午前中だから日比谷公園の人口密度は低い。日比谷公園には適度にポケストップが配置されていて、身体が軽いうちに歩き回れば遭遇するポケモンに見合う量のモンスターボールを入手できるので、効率よくポイントを重ねることが出来る。銀座を抜けるときには歩行速度が落ちるが、ボールやズリの実を補充しながら秋葉原に行って、ポケモン狩りの本番に臨めば良い。

 通勤時間帯の電車は満員で、直立姿勢を保つのも一苦労だった。僕はバックパックを胸側に掛けてひたすら混雑に耐えた。僕も三年半後に卒業して就職したら毎朝こんな苦労をして通勤することになるのだろうか。考えるだけでも気が滅入る。大人にはなりたくない。神様に一生十八歳のままで居させてくださいと祈っても叶えられるはずがない。ポケモンGOの代行を職業にできないだろうか? このバイトなら一日二万円五千円は軽い。ひと月あたり二十日働いて月収五十万円だから楽々食べていける。女子が結婚相手を選ぶ際の希望条件である年収一千万には届かないが、大学を出たばかりで年収六百万なら、女子も良しとするのではないだろうか。でも三年半後にポケモンGOがどうなっているのかは予測がつかない。

 そんなことを考えているうちに有楽町駅に着き、改札に向かって歩きながらポケモンを起動させた。

 ポケモンGOの欠点としてソフトウェアの完成度が低い段階で市場投入したということがある。低スペックのスマホだとクリックしてから起動するまでに数十秒もかかるし、起動後にカメラやGPSが絡むソフトウェアを使うと、ポケモンGOの再起動が必要となる場合もある。電車に乗る際にポケモンGOを終了させないと速度制限ペナルティーの警告が出る。つまり、ポケモンGOをする時には、メール、SNS、写真撮影、検索などをすることが面倒になるのだ。不便極まりないのにポケモンGOを起動させてしまう。それほどの魔力を持つポケモンGOが憎くなることがある。

 思い通りにならないから益々好きになるという点では恋愛と共通点がある。僕の限られた恋愛経験を振り返ってみると、会話やメールで快く返事してくれる女子よりも、仲は良くても思うように返事をくれず約束をドタキャンしてくる女子を好きになってしまった時が一番重症だった。

 交番の近くの出入り口から日比谷公園に入った。出社前のサラリーマンがスマホを見ながら歩いている。すれ違う人のスマホをちらっと覗くと、ポケモンGOの画面が殆どだった。ポケモンGOをしている人の男女比は昼間都内の路上で見るよりも圧倒的に男性が多いようだ。出社前の時間帯は女性の方が化粧などで忙しいからだろうか。

 九時を回ると日比谷公園のポケモンGO人口は急低下し、ポケストップ周辺が歩きにくいほど混雑することもなくなって、僕は快適にポケモン狩りをすることができた。同じ場所で十人がポケモンGOをしていても、ポケモンは十人各々のスマホ上に出現する。一匹のポケモンが現れると十人で取り合うわけではない。だから同じポケストップの周辺でポケモンをしている人たちに対して敵意を抱くことはない。また誰かがルアー・モジュールというポケモンをおびき寄せる道具を使うと、周囲の人たちも同じように恩恵にあずかれる。このようにポケモンGOは(ジム・バトルを例外として)平和と友愛を目指すゲームなのだ。ポケモンGOを捕獲した時に「一匹やっつけた」と言う人がいるが、あれは間違っている。ポケモンにボールを投げて捕獲し自分のものにするだけであって、絶対にやっつけたり殺したりはしない。捕獲したポケモンが不要になったら「博士に送る」という操作をして送り返し、替わりにアメをもらう。送り返したポケモンは再び世界のどこかにテレポートさせられて別のプレーヤーに捕獲され大事にされることになる。

 日比谷公園の中には約四十のポケストップがある。お堀に近い交番の横から入り、桜門の手前を左折して、中央の通りを日比谷図書館の手前で左に曲がり、日比谷通り沿いに元の出入り口の手前まで戻るのが最も効率的な周回ルートだ。僕は一時間ほど公園内を自由に歩き回ってその周回ルートを確立し、お昼前までに周回ルートを約二十周することができた。ポケストップに五百回ほど立ち寄ったので、それだけでも約三万ポイントを稼いだことになる。

 朝アパートを出た時点での計画では日比谷公園から銀座、日本橋、神田を通って秋葉原に移動する予定だったが、そのまま日比谷公園で居続けることにした。銀座を歩けばポケストップの密度は高いが、観光客を含め世界中の老若男女が通りをブラブラしている。日比谷公園の中なら歩きながらポケモンにボールを投げられるが、銀座ではポケモンGOをプレイしながら歩くのは止めた方がよい。老人を突き飛ばしてケガを負わせたり、せっかく爆買いしに来てくれた中国人に反日感情を抱かせるかもしれない。

 もうひとつ怖いのはポケモンGOに夢中になって歩きスマホをする人を狙って意図的に体当たりする人たちだ。体当たりした瞬間に高価なカメラなどを落下させて賠償しろと要求してくる。強気に「僕だけじゃなく、あなたも悪いんだから」と言うと、「両方とも過失があったことを認めたのなら半額負担しろ」と言い返されて数万円を請求される。相手は毎日何十人もを相手に同じカメラを落としては半額を請求するので、とても良い商売になるわけだ。

 この手口は以前ニューヨークで流行した「ボトルマン」と似通っている。酒屋の店員を装った人が観光客に巧妙に体当たりして、手に持っていた酒瓶を落とす。割れた酒瓶を指さして「二百ドルのシャンペインを配達していたんだ。弁償してくれ」と言う。観光客が「あなたにも過失がある」と言って支払いを拒否すると、「両方悪いから折半だ」と言って百ドルを請求する。しかしボトルマンの人数が増えすぎて、同じ観光客が一日に何度もボトルマンにぶつかられるようになり、誰も本気にしなくなって急速にすたれたという話を聞いたことがある。

 日比谷公園で不便なのは昼食だ。コンビニ、マック、牛丼などの店舗が公園内には無いので一旦公園から出なければならない。正午になると日比谷公園のポケストップの周辺にはスマホを手にしたサラリーマンやOLで混雑し始めた。OLといっても日本橋界隈で平日の昼休みにポケモンをしているOLと比べると明らかに服装が地味で年齢も上だ。日比谷公園の周辺の役所に勤務している女性が多いからだろうか。公園内が混んでいる間に僕も昼休みを取ろうと思い立った。内幸町側の交番の横の出入り口からコンビニの袋を持って公園に入ってくる人を何人か見かけたので、そこから出ると、通りを隔ててファミマが見つかった。僕は弁当とお茶を買って日比谷公園に戻り、ベンチに座って弁当を食べた。食事しながらスマホでメールをチェックすると「本日の面談報告のロケーション」という題のメールが入っていた。

「桜里里桜さんの本日の面談報告のロケーションとお客様のお名前をお知らせします。このリンクをクリックして内容をご覧ください」
と書いてあった。

 クリックすると、
「お客様は船橋市三船町3-5-12の柿沼様です。グーグルマップでの緯度と経度は35.705025, 139.984578です。お客様との守秘契約の関係上、この情報をメモすることは禁じられています」
と表示された。

 saori278488というIDから昭和二十七年八月四日生まれと推測したのはハズレだった。2784は船橋の略だったのだ。沙織さんが六十四歳ではなく妙齢の美女である可能性が出てきた。グーグルマップで調べると場所が分かった。総武線の船橋駅から徒歩十分ほどの場所だった。ここからドア・トゥ・ドアで一時間弱だ。

 都内ではないが船橋なら問題はない。弁当を食べてエネルギーレベルを回復した僕は午後のポケモン狩りを開始した。

 さすがの僕も午後四時を過ぎると足が疲れてきた。そろそろ今日の成果の整理にかかろう。僕は「しあわせたまご」を使ってから捕獲したポケモンの「進化」の作業を開始した。しあわせたまごとは、一個使うと三十分間獲得ポイント数が倍になる魔法の道具だ。ポケモンを一匹進化させると五百ポイントを獲得できるが、しあわせたまごを使うと一匹当たり千ポイントになる。今日レベルが九に上がった時と十に上がった時にレベルアップボーナスとしてしあわせたまごを一個ずつ貰っていた。

 進化の作業を終えると、レベル十五に上がっていた。今日僕が獲得したポイントは約八万点だった。ということは、四万円ものバイト料を貰えることになる。

 ホクホクした気持ちで地下鉄日比谷駅まで歩き、西船橋でJRに乗り換えて船橋まで行った。スマホの地図を見ながらゴミゴミとした駅前の歩道を進みパチンコ屋の角を左折して五分ほど歩くと住宅街に差し掛かった。小高い丘に突き当たって左折すると土塀に囲まれた住宅の門があった。グーグルマップに示された目的地はここのはずだ。柿沼と刻印された大理石の表札を確かめてドアホンのボタンを押した。

「はい」と男声が応答した。

「こんにちは。ポケモン代行の桜里と申します」

「どうぞ」と言う返事の後でドアロックを解除するブザーが鳴った。僕はドアノブを回して引っ張り、塀の中へと進んだ。木立の間の道を十メートルほど進むとテレビのサスペンス・ドラマに出てくるような立派なお屋敷の玄関に着いた。こんな金持ちの家に入るのは生まれて初めてだ。僕はドキドキしながら玄関のドアを開けた。

第三章 報告面談

 玄関ホールに立っていたのは五十前後の大柄な男性だった。

「あのう、サオリさんにお目にかかりたいのですが。僕はポケモン代行のバイトをしている桜里と申します」

「どうぞ、上がりなさい」

 サオリさんはこの男性の奥さんだろうか? それともお嬢さん? 僕が通されたのはアンティークな椅子がゆったりと配置された客間のような部屋だった。

「あのう、サオリさんは?」

「私がsaori278488だ。サオリ・フナバシ・パパの語呂合わせだ」

「あっ、そうなんですか。ポケモンGOには女性のトレーナー画像が設定されていたので女性のお客さんを想像していました」

「沙織は娘の名前なんだ」

「なるほど。沙織さんのお父様だからサオリ・パパにされたのですね。お嬢様は大学生かOLをされているんですか?」
 言った後で失言だったと後悔した。こんな金持ちの令嬢ならOLではなく、弁護士・医師などの専門職とか、花嫁修業中かもしれない。

「沙織は事故で亡くなった」

「そんなことをお聞きして、すみませんでした」

「いや、私のような中年男性がこんなIDを使っていれば当然予想される質問だ。気にしないでくれ」

 気まずい雰囲気を打ち破ろうと思って、僕はスマホを見せながら笑顔で言った。

「今日のポケモン代行について報告させてください。レベル十五まで上がりましたよ」

「十五だって! 一体どんな手を使ったんだ? 私はひと月余りかけてやっと五まで到達したというのに」

「朝から日比谷公園を回り続けただけです。僕自身はポケモンGOが始まって約四十日間で二百万ポイントを超えてレベル三十に到達しましたから、一日五万ポイントは楽に稼げます。今日はロケーションが良い分、多めに稼げました」

「すごいとしか言えない。君は超人的だ! 気に入った」

「柿沼さんは毎日どのあたりを歩かれましたか? この周辺にはポケストップが少ないようですが」

「船橋駅まで歩くか、スーパーまで行くか、後はこの家の庭を歩き回るかというところだ」

 そんな歩行距離でレベル五まで来たことの方が不思議だと思ったが、勿論僕は愚かな質問をすることを思いとどまった。

「代行君、夕食はまだだろう? ピザは好きかね? 今から電話で注文するから、食べて行きなさい」
 ピザという言葉を聞いてお腹がグーッと鳴った。

「で、でも……」

「分かっているよ。拘束時間に応じて時間給を払うということは。じゃあ先に渡しておこう。交通費と合わせてこれで足りるだろう」

 柿沼は財布から一万円札を取り出して僕に渡した。

「これは多すぎます」

 僕がおつりを出そうとしたら、
「いいじゃないか、取っておきなさい」
と言われた。

 柿沼は手慣れた様子でスマホでピザを注文した。
「三船町の柿沼ですが、シーフード・デラックスのLを至急お願いします。そう、いつものやつです」

「いつものやつ」ということはお得意様なのだろう。こんな金持ちがしょっちゅうピザの宅配を利用しているとは意外だった。

「シーフードのピザだからロゼでいいかな。チーズに着眼すれば赤の方が適切かもしれないが。もし君がシャンパンに拘るなら丁度今朝冷蔵庫に移したのがあるが」

「今おっしゃったのってお酒の事ですよね? 僕、未成年ですからコーラとか無いでしょうか?」

「泡が出るのが好きなんだな。じゃあ取って来るよ」

 柿沼は僕を残して部屋から出て行ったが、しばらくして緑色のガラスのボトルを手に戻って来た。柿沼はボトルのキャップシールをはずすとナプキンをかぶせ、コルクの上部を親指で押さえながら留め金を器用に緩めた。ナプキンの上からコルクを押さえながらボトルの底を回すと、スーッとコルクが抜けた。

 柿沼は棚から柄のついた細長いグラスを二つ取り出して、ボトルから淡い黄金色の液体をグラスに注いだ。

「うわぁ、細かくてきれいな泡が出てますね」

「代行君と出会ったお祝いだ。美味しいんだよ」

 グラスをチーンと合わせてから一口飲んだ。

「これ、アルコールの味がするみたいな……」

「そりゃあ、シャンパンだからね」

「僕、未成年で……」

「大学生なら飲む機会もよくあるだろう。選挙権だって年齢が引き下げられたんだから」

「そりゃそうですけど……。でもこれ、すっごく美味しいですね」

「私はワイン通を自認しているがシャンパンのことは良くわからん。面倒だからいつも一般的なブランドのやつをまとめ買いしている」

 どんなブランドなのだろうとラベルを見た。

「ドム・ペリグノンというブランドなんですね。重厚な感じの名前ですね」

「フランス語読みするとドン・ペリニヨンだよ。日本ではドンペリという愛称で呼ばれている」

「ド、ドンペリですか! テレビでよくやってる、ホストクラブで金持ちマダムが注文するやつでしょう? 十万円以上するお酒じゃないんですか?」

「そりゃあ外で飲めばそれなりの値段だろうが、まとめ買いすれば安いんだよ。送料込みで一万数千円というところかな」

 ピザを食べるのに、コーラの大きい方のボトルを百本買える値段のアルコール入りソーダを飲むという金銭感覚に驚いた。

 ドアホンが鳴ってモニター画面に冴えない学生風の男の顔が大写しになった。ピザの宅配だった。柿沼は塀の入り口のドアの解除ボタンを押してから玄関へと歩いて行った。間もなくピザの箱を手に戻って来た。

 柿沼は棚の引き出しからピザカッターを出してピザを切り分けた。

「美味しい! すっごく美味しいピザですね」

「気に入ってくれたか? これはシーフード・デラックスだが次回は肉系のスパイシーなものにしようかな」

「でも、バイトの僕が何度もご馳走になっては……」

「そうそう、派遣会社には明日以降も毎日自動延長するように連絡をしておくよ。明日からもよろしく頼む」

「ありがとうございます。でも、一日ごとの更新になっていたとは知りませんでした」

「そのために夕方報告に来てもらうシステムになっているんじゃないか。写真と実物とは全然違う事も多いからね」

「写真って僕の写真のことですか?」

「そうだよ。派遣会社から届いた十人のプロフィールから一番気に入ったのを選ぶ。そして翌日現物を確認して継続するか、それとも別の代行君に取り替えてもらうかを返事するのさ。そして一週間以内に直接契約に切り替えるかどうかを返事する」

「直接契約?」

「代行君は派遣会社と委託契約書を取り交わしているだろう。『甲は本契約を第三者に譲渡することができる』という条項が入っている。勿論、甲とは派遣会社、乙が代行君のことだ」

「そう言えばそんなことを書いてあったような気がしますけど。柿沼さんが僕を直接雇う形になるわけですね。そうなると、派遣会社はピンハネできなくなって損しません?」

「勿論、契約譲渡の手数料を何十万か取られるよ」

「何十万? それってポケモンのポイントのことですか?」

「アッハッハ、代行君は面白いことを言うねえ。消費税込みで五、六十万円だったと思うよ」

「そんな大金を払って直接契約してどんなメリットがあるんでしょう?」

「一週間以内に直接契約に切り替えないと派遣が終了する。そうなるとまた契約料を払ってゼロから出直しだ。代行君に再度会える可能性は殆どない」

「最初に契約料を取られるんですか?」

「契約料は二、三十万程度だ。十日ほど前に一人派遣されてきたが、プロフィール写真とは全然違っていてガッカリしたから取り換えてもらったんだ。二、三週間かかると言われていたが思ったより早く新しいプロフィール集が届いた。そして選んだのがキミだ。プロフィールの印象を更に上回る極上クラスだったから驚いたよ」

「はあ、そんなに褒められると恥ずかしいです。レベル三十まで頑張った甲斐がありました。前回の人は一日やって二万ポイント以下しか稼げなかったわけでしょう? 僕なら千葉県の公園でポケモンGOをしても一日四万ポイントは稼げると思いますよ」

「代行君の素直で明るい話を聞いていると、私まで心が洗われる。良い人が派遣されてきて本当に良かった」

「素直で明るい」という形容詞は子供の時から何度も聞いて育ってきたが、これほど手放しで褒められた記憶は無かった。自分を評価してくれる人のために働けるのは幸せだ。明日は今日以上のポイントを稼いで、更に満足してもらおう。そうだ、今夜アパートに帰る前に都内のポケストップ密集地を一、二時間歩こうかな。

 僕の実家だったらもっと安っぽいピザを注文して、父は第三のビール、僕たちはコーラというところだ。具がたっぷりと乗ったシーフードのピザと一万円以上もするシャンパン。同じピザでも全く別次元の美味しさだった。父の世代の男性と会話しても共通の話題が殆どないから楽しくないことが多いが、柿沼と二人で話をしていると何となく気持ちが落ち着く。父や叔父のような説教めいた話や昔の自慢が入った話をしないし、言葉の端々に僕を持ち上げて快く感じさせようとしている配慮がうかがえた。

 すっかりリラックスして、ピザとシャンパンをゆっくりと楽しんだ。食べ終わったら日中の長距離歩行で蓄積された足腰の疲れが心地良く身体に広がって、身体全体がだるかった。お酒の弱い僕にしては少し飲み過ぎたが、身体が重い感じはせず、スーッと立ち上がることが出来た。

「そろそろ失礼しなくちゃ。今夜はぐっすりと寝て明日も頑張ります」

「寝るだけのためにアパートに帰っても、どうせ朝からポケモンGOをしに行くんだろう? 無駄なことはせずに、泊まっていきなさい。お客さん用のベッドルームがあるから」

「でも、やっぱり一度家に帰って下着も着替えたいですし……」

「代行君、私の申し出を断って帰ったら、仕事が明日も更新される保証は無いよ」

「そ、それは困ります」

「ワッハッハ、今のは冗談だ。脅すつもりはないが、今夜は泊まりなさい。着替えは用意してあげるから」

「は、はい……。じゃあお言葉に甘えて」

 初対面のお客さんの家に泊まることには抵抗があった。他に誰も居ない家でお酒を飲まされて二人っきりで向かい合っている。大柄で頑強な身体つきの柿沼に何かされたら華奢な僕はひとたまりもない。でも、もし何かあっても僕はすばしっこいから逃げられる自信はある。それに、一体何をされるというのだ? 柿沼はどう見ても教養のある紳士だ。男性である僕に対して柿沼がヘンなことをすると思うこと自体、テレビの見過ぎじゃないか。

 十二畳はありそうな広いベッドルームに案内された。クラシックな洋間の窓際にはライティングデスクが置かれている。シンプルで品の良いベッド、それに二人掛けのアンティークな座椅子が配置されていた。

「風呂はこの突き当りにある。パジャマは脱衣かごの上に出しておくよ。代行君は疲れているだろうから先に入りなさい。タオルは洗面所の右側の棚に入っているものを自由に使ってくれ」

「どうも、恐縮です」

 早く風呂に入って寝ようと思い、バッグをベッドルームの椅子の上に残して風呂場に行った。浴槽をお湯で満たしている音がする。ティーシャツ、ジーンズのズボン、靴下、パンツの順に脱ぎ畳んで脱衣かごの上に置いた。

 クラシックな家の造りからは想像できないモダンで広々としたユニットバスだった。お湯を止めて、洗い場に座ってシャンプーをしてから身体の隅々まで石鹸で洗った。温めのシャワーで泡を完全に洗い流してから湯船に浸かった。脚を伸ばして首まで浸かれる広い浴槽だった。清潔で、内装はこの家らしい高級感に満ちている。

「代行君の身体に合いそうなパジャマとパンツをここに置いておくよ」

 風呂場のガラス戸越しに柿沼の声が聞こえた。

「いろいろ有難うございまーす」

 僕もこんな家に生まれたら良かったのに。ふとそんなことを思ったが、お嬢さんを亡くしたとのことだったし、奥さんが居る様子も無い。もし旅行か何かで一時的に不在にしているのなら、ピザの宅配の常連客にはならないだろう。きっと奥さんに逃げられたのだろう。いや、奥さんも亡くなったとか……。いくら金持ちでもそんな不幸に見舞われてはどうしようもない。僕は中流でも家族が仲良く元気な家に生まれてラッキーだったのかもしれない。

 湯船の中でくつろいでからハンドタオルを絞って身体を拭き風呂を出た。脱衣かごのパジャマの上にバスタオルが置いてあった。柿沼とは細かいところまで気が付く人なのだなと思った。バスタオルで身体を拭きながら脱衣かごに置かれたパジャマを見た。

 ちょっと待ってよ。

 これは白のちぢみ地に小さな赤いクマさんがプリントされたパジャマのようだ。ボタンが左前になっている。これは女物じゃないか。手に取ると七分袖で、パジャマのズボンも膝の少し下までしかない。さらに、パジャマの下に女物の黒いパンティーを見つけて唖然とした。

「柿沼さーん! すみませーん!」
 大きめの声で呼んでみたが応答は無かった。僕はバスタオルを腰に巻いて廊下を電気のついている部屋の方へと歩いて行った。

「柿沼さん、いらっしゃいます?」
 ドアの外から言うと中から返事があった。

「代行君か。遠慮せずに入りなさい。スコッチでも飲みながら話をしよう」

「あのう、パジャマがちょっと違うみたいなんですけど……」

 柿沼が中からドアを開けた。

「どうしたんだ? なんだ、まだパジャマを着ていないのか」

「脱衣かごのパジャマは女物みたいなんですけど」

「まさか私のパジャマとパンツを代行君に着せるわけにはいかないだろう。大きすぎて、歩けないぞ。死んだ娘より代行君の方が少し小柄だが、娘のパジャマと下着なら着られるだろうと思って出しておいたんだ」

「でも女物では……」

「代行君、贅沢を言うんじゃないよ。早く着替えてきなさい!」
 苛立ったようにドアをバタンと閉められた。

 確かに僕は贅沢を言える立場にはない。柿沼以外に誰も見ているわけでもないから仕方ないと観念した。僕は脱衣かごの所に戻って黒いパンティーとクマさんのパジャマを着た。柿沼の言った通りサイズは僕にピタリだった。洗面所の鏡に映った僕の姿はまるで女子高生のように見えた。手櫛で髪を整えて柿沼が居た部屋に戻った。それは大きなソファーのある部屋で、壁には最新型の七十七インチのテレビが掛かっていた。柿沼はソファーの前のガラステーブルに足を置いて水割りを飲んでいた。

「代行君はプロフィール写真を見てイメージした以上に美しい人だな。さあ、ここに座りなさい。今、代行君にも水割りを作ってあげよう」

「未成年ですから、もうお酒はやめときます」
 柿沼は僕の言葉を無視してウィスキーグラスに氷を入れて高級そうなスコッチと水を注いだ。

「代行君のような人が一緒に飲んでくれると心が休まるよ。キャバクラに行くよりマッチ・ベターだ」

 ベタな英語混じりの言葉でキャバ嬢と比べるような言い方をされて僕はドキッとした。柿沼は僕を無理やり家に泊まらせ、女物のパジャマを着せて何かするつもりなのだろうか? 紳士然とした優しそうな人が突然豹変して……。僕は思わず柿沼から遠ざかる方にお尻をずらした。柿沼は僕の動きに気付いたらしく、僕を見てニヤッと笑った。

「何もするつもりはないよ、代行君。それが証拠に私のココは小さいままだ、ハハハハ」
 柿沼は自分の股間を指さして笑った。確かに盛り上がった様子はなかった。

「まさか、そんなことは思っていませんよ」
 僕は顔を真っ赤にしながら柿沼の推測を打ち消した。

 ムードを変えようとして聞きにくい事を質問してみた。
「あのう、お嬢さんはこのパジャマが合うほどまで大きくなってから亡くなったのですか?」

「去年交通事故で死んだんだ。大学四年だった。私はそれから女房と口論するようになって、女房は私に愛想をつかして出て行った」

「そうでしたか……。思い出したくないことを質問してすみませんでした」

「無性に娘のような若い女性と話したくなってキャバクラ通いをして遊んだりもしたが心にポッカリと開いた穴が埋まるはずはなかった。最近知り合いを介してポケモン代行の派遣のシステムを紹介されて登録してみたんだ」

「お気の毒に……。僕でよろしければ柿沼さんのポケモンをお手伝いしてレベルを二十代半ばまでは持ってこられます。他にできることがあればおっしゃってください。念のためですけど、僕はノーマルですからその点だけは誤解なさらないでください」

「代行君は時々面白い事を言うね。益々気に入ったよ」

 柿沼は右横に座っている僕をしばらく見ていたが、突然僕の肩に手を回した。右肩を柿沼の大きな手で掴まれた僕はその場ですくみあがった。柿沼は僕をどうするつもりなのだろう。渾身の力を振り絞って逃げ出そうかと思ったが、もし今逃げたらこのバイトは終わりだ。僕は躊躇しながらじっとしていた。

「少しだけこうさせておいてくれ。お願いだ」

 僕は肩をすくめながら耐えた。年配の男性に特有のもったりとした臭いに怯えた。もうすこしだけ我慢しよう。柿沼は肩を抱くだけで満足するかもしれない……。横目で見上げると、柿沼は目を閉じていた。

 僕の肩に置かれた柿沼の手に心なしか力が増した。次の瞬間、柿沼はその大きな手で僕をぐっと自分の方に引き寄せた。僕の上半身は斜めになって僕の肩は柿沼の脇に強く押し付けられた。僕は本能的に窮地を逃れるために前方にすり抜けようと身体を動かそうとしたが、柿沼の力は圧倒的で、僕の身体は一センチとして動かなかった。

 その時柿沼がささやくように言った。
「動かないでくれ、沙織」

 自分の耳を疑った。柿沼を横目で見ると閉じた目から涙がにじみ出ていた。この人は死んだ娘の肩を抱いて座っている幻想を味わうために僕の身体を利用しているのだ。狂っている。どうしてもそんなことをしたければ秋葉原に立っているその筋の女の子にお金を払って連れて来るとか、デリヘルでも呼べば済むことだ。わざわざポケモン代行の男性を家に引き留めて娘のパジャマを着させるなどという、ややこしいことをするのはおかしい。何かが狂っている。

 でも、涙を見て気の毒だとも思った。最愛の一人娘を事故で失った悲しみの深さは僕の想像を超えるものなのだろう。ポケモン代行の大事な客だから、もしこれ以上何もしないのだったら我慢してやってもいいかもしれない……。

 長い長い時間が過ぎた。実際には数分だったと思うが、僕は何時間も柿沼の腕に抱かれていたような気がした。

 柿沼は僕の肩に回していた腕をゆっくりと解き、僕たちは元通りの姿勢に戻って、数センチ離れてソファーに並んで座った。柿沼は何もしゃべらなかった。気まずい時間が過ぎた。

 僕はソファーから立ち上がった。
「じゃあ僕、お先に寝させていただきます。おやすみなさい」
 お辞儀をして退出しようとしたら、柿沼も立ち上がって「待ちなさい」と言った。僕は本能的にその命令に従った。柿沼は向き合って立つように僕の身体を回し、僕の両肩に手を置いた。

 柿沼は僕を見下ろして優しく微笑んだ。
「ありがとう。キミは天使のように美しい」

 僕の顎がガクガクと震えた。柿沼は僕にキスをしようとしている。どうしよう……。僕は目を閉じ乍ら唇を噛んだ。

 しかし、次の瞬間、柿沼は僕の両肩から手を離して「おやすみ」と言うとソファーへと歩いて行った。

 僕は「失礼いたします」と言って部屋を出た。心臓が音を立てていた。助かった。僕はよろめきそうになりながら部屋に戻り、中からドアをロックした。

 電気を消してベッドに横たわったが頭が冴えて眠れなかった。ドアはロックしたが、きっと柿沼は鍵を使って開けることができるだろう。風呂を出たら裸で部屋に入って来て僕を襲うのではないだろうか。いや、もしそのつもりがあるなら、先ほど何度かチャンスがあったはずだ。柿沼は娘を妄想するためのツールとして僕を使っただけなのだ。娘代わりということなら襲ったりはしないはずだから僕は安全だ。それに柿沼に男色家の気配は無さそうだった。僕は二重の意味で安全だろう。そう思うと安心して眠くなった。

 ***

 唇に生暖かい息を感じる。ゴワゴワとした手が頬に触れた。眠い目をうっすらと開けると怪物のような男性の顔が迫っていた。

「ウワァッ!」
 僕はベッドの上で咄嗟に体を回転させてダンゴムシのように体を丸めた。柿沼が僕を犯そうとして部屋に侵入したのだ。

「おはよう。声をかけても返事が無いから心配になって鍵でドアを開けたんだ。そろそろ起きなさい」

 確かに、朝になっていた。

「す、すみません。寝過ごしちゃって」

「朝ご飯を一緒に食べよう。キッチンで待ってるよ」

 柿沼はあっさりと部屋から出て行った。自分は何てことをしているんだ。バイトの身なのに寝過ごして朝ごはんも用意してもらうとは。柿沼が僕を犯そうとしているなどと本気で恐れていた自分が恥ずかしい。

 洗面所で顔を洗ってからダイニング・キッチンに行くと、コーヒーで満たされたガラスポットがテーブルの真ん中に置かれていた。ハムエッグとトーストの朝食だ。柿沼はポットを手に取ってマグカップにコーヒーを入れてくれた。

「すみません。お客さまにこんなことまでしていただいて」

「娘もなかなか起きてこなくて、よく私が起こしに行ったものだ。目を覚まして私の顔を見ると身体をあっちに向けて丸くなって『キャー、エッチ』と言われたものだよ。さっき代行君が娘にそっくりな反応をするのを見て娘の事を思い出した。もっとも、代行君は『キャー、エッチ』とは言わなかったがな、アッハッハ」

 何故だか恥ずかしくて顔が紅潮した。

「さあ、早く食べてポケモンGOをしに行こう」

「えっ? しに行こうって、柿沼さんもいらっしゃるんですか?」

「そうだよ。代行君を見ていたら是非一緒に行きたくなったんだ。ダメかな?」

「ダメだなんてとんでもない。喜んでご案内します。特別にポケモンGOのやり方を伝授してあげます。ポケモンGOって、一見ポケモンが出て来たらボールをスワイプするだけのゲームに見えるかもしれませんけど、投げ方にも色々コツがあるんです。カーブを投げてポケモンを捕まえるとボーナスが出ることをご存知でした? カーブの投げ方も教えますよ」

「ポケモンGOの話をする時には目がキラキラしているね。よろしく頼むよ」

 朝食を食べ終えると、僕は食器を片付けようとしていた柿沼を制して、僕が全部片づけをした。

「じゃあ、着替えて出発の準備をしてきます」
 僕は洗面所でパジャマを脱ぎ、昨日着て来た服を着ようと探したが見つからなかった。そうだ、確か風呂に入る前に脱衣かごに入れたんだった。僕はパンツ一枚で柿沼を探しに行った。

「すみませーん、柿沼さーん、僕の服はどこだかご存じないでしょうか?」

「ここにあるよ」
 居間から声がしたのでドアを開けた。

「昨日は私服でプレイしたようだが、今日からはポケモンGOルックを着てやってもらう」

「ポケモンGOルック?」

「ポケモンGOで登録したアバターと同じ格好でプレイしてもらう。服、シャツ、パンツ、靴、バッグ、帽子とか。ここに全部置いてあるから身に付けなさい」

「アバターの恰好で人前に出るのはちょっと恥ずかしいですけど、まあいいですよ。バイト代をもらってやるからには僕もプロですからね」

 黒のタイツの上に赤っぽいえんじ色のショートパンツをはいて、白っぽいシャツを着た。柿沼のポケモンGOにログインした時に表示されるアバターそっくりの格好だ。基本的に女性用の色だと思うが男性が着ても特に不自然ではない。

「しっくりこないな。アバターとは全然違う」
 柿沼が顔をしかめて僕を見ていた。

「はあ、そうでしょうか」

「胸がペチャンコなのと髪が短いからダメなんだ。ちょっと待っていなさい」
 柿沼は部屋を出て行ったがすぐに戻って来た。

「これを身に着けるんだ」

「待ってください。ブラジャーとウィッグで女装するなんて嫌ですよ。コスプレはサービスには入っていませんから」

「契約書に書いてあるだろう、業務委託中は服装その他甲の指示に従うと」

「そんなことを書いてましたか? でも女装とは書いてないじゃないですか」

「いいか、ポケモンGOとはゲームだろう。雇い主が衣装を指定するのは当然だ。契約に違反するつもりなのか?」

 ドスのきいた口調で詰め寄られて、僕は反論する勇気を失った。ウィッグをしていたら知人に見られても僕とは気付かれないだろう。僕はシャツを脱いで柿沼から渡されたブラジャーをした。柿沼はシリコンで出来た偽オッパイを僕のブラジャーの中に突っ込んだ。ベトベトしたゴムが胸に貼り付いた感じがして気分が悪かった。その上にシャツを着るとポケモンGOのアバターと同じように胸が盛り上がっていた。肩よりは短い栗毛のウィッグを被り、その上に帽子を被った。バッグを背負って鏡の前に立つと、僕の姿はsaori278488のアバターそっくりだった。

「まあまあ期待通りだな。腰のくびれが足りないしお尻が小さすぎるが、今日の所は目をつむることにしよう。さあいくぞ、沙織」

「沙織って……」

「代行君と呼ぶのも変だろう。saori278488を代行してもらっている間は沙織と呼ぶのが自然だ」

「はあ……」

 僕は柿沼のポケモンGOアカウントの運用代行をしているのであって柿沼の死んだお嬢さんの代役をしているわけではない。しかし柿沼が僕をお嬢さんの代役と思いたがっていることは昨夜から分かっている。多少のことは我慢しよう。

 柿沼が用意したポケモンGOルックのスニーカーを履いて柿沼と一緒に家を出た。


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