性転のへきれき-えりの場合(TS小説の表紙画像)

性転のへきれき(えりの場合)ずっとあなたが好きだった:今日からOLになりなさい

【内容紹介】男性サラリーマンがOLとして働く立場に追いやられるTS小説。エリート証券マンの渋沢には小説家という副業があった。ある日読者から受け取ったメールをきっかけに、渋沢は出世コースを外れて、とんでもない人生を歩み始める。大波乱の末に見つけた本当の幸せとは?

序章

「男も女も同じ人間なのだから、働く機会は公平に与えられるべきであり、昇進についても同様に扱われるべきだ」

 表向きには、私もそう発言していた。

 でも、実際には男と女はあまりにも違う。女は子宮で考えると言われるが、それ以上の差があるかもしれない。便宜的に同じ人間として扱われてはいるが、サルとチンパンジーが違う以上に、男と女は考え方も何もかも根本的に違う。人間と動物が同じではないように、男と女は根本的に異なる生物なのだ。

 生まれつき、生物学的に女は異星人と同じくらい違っている。そのうえ、女は小学校・中学校・高校だけでも合計十二年間、プリーツスカートをはいて学校に通う。その積み重ねが、考え方・行動・人間性、全てに影響を与えて、女は性交を除くと一生男と交わることは無い。

 男と女は決して交わることは無い……そのはずだった。

 しかし、私のその認識は間違っていたことが判明した。エリート証券マンだった私は、運命のちょっとしたいたずらによって、子会社に左遷されただけでなく、女子一般職社員用の制服を着てOLとして働くことを余儀なくされたのだった。

 それは服装だけの変化にとどまらなかった。一旦、男と女が「交差」してしまうと、私の人生はあっという間に音を立てて崩れてしまった。

 そんな私の転落についてお話ししたい。

第一章 売れない小説家

「お銚子一本ください」

「はーい。でも、お酒なんて珍しいですね、渋沢先生」

 ウェイトレスの優が言った。

「そりゃあ、たまには飲みますよ」

 私はいつものように店の左奥の隅にある小さな一人席に陣取って「本日の定食」を食べていた。

 今日、まとまったお金が入ったのだ。

「まとまったお金」などというと、どっさりと厚い札束を思い浮かべるかもしれないが、実は雑誌社から原稿料の十五万円が入っただけだ。それでも今の私にとっては大金だった。

 私の収入といえば、インターネットで販売しているオンライン小説の売上毎月数万円と、アダルト雑誌の連載の原稿料が数万円、それに時々雑誌社から回してもらえる単発の仕事で数万円、順調な月でも全部あわせて十五万円がいいところだ。

 オンライン小説のサーチエンジンへの登録更新をなまけたり、雑誌社からの仕事が途絶えたりすると、アパートの家賃と電気、ガス、水道代を払って二万円ぐらいしか残らないこともある。そんな私にとっては十五万円というのは途方も無い大金で、雑誌社からお払い箱にされたりしない限り、少なくともこれから三ヶ月ぐらいは食費には困らない保証を与えてくれるお金といえる。

 ほんの三年前には十五万円なんて妻や娘たちに洋服を買ってやればその日のうちに消えていく程度のお金だったのに、そんなことは今となっては遠い昔の思い出だ。

「こんなはずじゃ、なかったんだけどな」

 お金のことや、将来の生活のことを考えると、ため息が出てくる。

 でも、あのころの自分に戻りたいかと聞かれた場合、大きな声で「はい」と言えるかというとそうでもない。妻や娘たちに囲まれた暖かい毎日は、なつかしいと思い始めると涙が出てしまうほど甘くて切ない思い出だ。

 あのころの私はずっと自分を殺して生きていた。本当の自分を隠して、気乗りしないままに幸せな夫、父親、まっとうな社会人のフリをしていた。心の中では違和感で窒息しそうで、嫌で嫌でたまらなかったのに……。

 今の私は日々の食費にも困ることがあるほど貧しく、健康保険証も無い。病気になりはしないだろうかといつもビクビクして、そのうち小説が売れなくなって収入が無くなったらどうしたらいいのだろうかと思うと不安で一杯になるが、本当の自分を正直に生きているから充実感に満ちている。

 私の席の横の壁に掛かっている小さな鏡に映った自分の顔や衣服、それは今の自分にとてもふさわしい。自分の顔は嫌いじゃない。誰も私のことを四十歳を越えているとは思っていない。私はいつも自分は二十九歳だと冗談半分に答え、みんなそんなはずはないと思っているはずだが、多分三十代半ばぐらいに見られていると思う。ろくにお化粧もしていないし、バーゲンで買ったスカートとセーターしか着ていないからこの程度の女っぷりだが、ちゃんと美容院に行って、ちゃんとお化粧をして、ぴったりのスーツにでも身を包めば、かなりイケル女だと秘かに自負している。

 この食堂の主人もアルバイトのウェイトレスも、私のことを「渋沢先生」と呼んでくれる。そして、彼らの目に映る私、すなわちハイミスの売れない小説家にふさわしい扱いをしてくれる。これ以上の心の安らぎがあるだろうか。

「でも、この二年余りは転落の連続だったなあ……」

 そう考え始めると、正直なところその通りだ。ありのままの自分を手に入れるにしても、全てを失わずに達成する方法もあったかもしれない。いや、きっともう少しマシな展開があり得たはずだ。

 そう思ってももう遅い……。

 そうだ。私の転落が始まったのは、あの一本のメールが原因だった。あの時にレールからずれ始めた私の人生は、どんどん横道にそれていったのだった。あのころの思い出が頭の中に浮かぶ。丁度お酒も回ってきて、酔いと思い出が重なる波のように私を洗う。私は箸を置いてついうとうとし始めた。

第二章 エリート証券マンだった私

 その頃、私は三十八歳、茅場町にあるN証券に勤務する証券マンだった。営業本部の大口個人客を担当する部門でグループ長を兼任する副部長をしていた。入社以来国際畑を歩み、ニューヨークにある米国法人勤務を経て、三十六歳で本社の営業本部に課長として配属になった。標準より四年も早く課長になり、三十八歳で副部長になった私は衆人の認めるエリートだった。

 史上最年少部長の候補にも上がっていた私には、社内でも表面化する前の貴重な情報が自然と集まるようになり、私はその情報を静かに利用して確実に業績を伸ばした。

 大口個人客の半分は、保守的なバランス感覚を持った資産家で、国内の債券を中心とした投資信託をベースに、業績に不安が無く株価収益率の低い大型株、低リスク型の株式投信と外貨預金を取り混ぜ、二、三年に一度、値上がり確実な新規公開銘柄を最小単位割り当てるだけで満足してくれた。

 難しいのは投機的な傾向を持つ小金持ちの個人で、金融資産の半分以上、時には三分の二以上を株式につぎ込む客だ。この範疇に入る客は自分の感覚で投資判断をする人が大半で、放置しておくとリスクの高い銘柄に有り金全部をつぎ込むような愚行に走りかねず、相場が低迷すると塩漬け株だらけで手も足も出ないという状況になりやすい。下手に新規公開銘柄を割り当てると、次も次もと要求が高まる。そんな場合はわざと上場後公開価格を割り込む可能性の高い銘柄をはめ込んだりして、徐々に頭を冷やさせることもある。

 普通の営業マンには困難な切り盛りだが、情報がふんだんに入る私にとっては何でもなかった。手の内を小出しにして、全ての客にそこそこの満足度を与え続けること、それが私の使命であり、能力である。

 杉森興業の杉森社長は、後者の範疇に入る危なっかしい客だった。杉森氏は医薬品メーカーの臨床開発部門から脱サラし、健康食品の企画販売を専門にする会社を設立して成功した五十がらみの人物だ。中背のいかつい体躯と、えらの張った鬼瓦のような顔には似合わない繊細な感覚の持ち主で、その感性を原動力として、若い女性のハートをつかむ痩身系の健康食品を企画販売し、何本かのヒットを飛ばしていた。

 私は、杉森氏のどこからそのような感性がわき出てくるのか、不思議でならなかった。ある時、女性用下着の訪問販売の会社が新規公開することになり、杉森氏からブックビルディングの価格について相談を受けた。その会社の発売予定商品に話題が及んだ際、杉森氏が女性の下着について細かい知識を持っていること、またそれ以上に下着の肌触りや素材の質感など、おおよそ、そのいかつい顔の持ち主の口から出ているとは思えない言葉や表現が、すらすらと流れ出ることに驚いた。その時一瞬、私は杉森氏が女装愛好家ではないかと疑った。しかし、彼が女性の下着を身につけている光景は私の想像力を越えるほど有り得ないものに思われた。

 そんなことがあって、杉森氏を注意して観察するようになった。杉森氏についての悪い噂があることも分かった。彼は二年前に信用買いの追い証で、首が回らなくなったことがある。丁度そのころ、奥さんを事故で亡くし、五千万円の保険金を手にして急場を凌いだという話だ。奥さんのとの仲がしっくりいっていないという噂があったので、杉森氏は任意同行で取り調べを受けたがアリバイがあったおかげですぐに帰されたとのことだった。奥さんは会社の経営にはタッチしておらず、五千万円もの保険金をかけること自体が不自然だったので当社でも話題に上ったのだ。その後再婚をして、おかしな噂は出なくなった。

 杉森氏が女性を見るときの視線に、何かしら普通ではないものを発見したのもそのころだった。杉森氏の会社の女子社員はほぼ全員が大柄で、顔は美人とは言えない女性の方が多かった。杉森氏には女性を軽んじるようなところは一切無く、女子社員からは進歩的で頼りになる社長として慕われているようだ。私が訪問している際にも、女子社員が杉森氏に好意をもって接する姿は何度か見ていたが、杉森氏の視線や行動に好色の気配は感じられなかった。

 杉森氏の投資行動にも女性特有の習性が見え隠れすることがあった。私は杉森氏が見かけとは正反対に非常に女性的な内面を持った人物なのだと思った。

 相場低迷のお陰で、最近、杉森氏はかなりの損を抱えていた。杉森氏の運用資産には会社名義の資産と個人名義の資産があったが、会社名義の証券類が個人名義の信用取引の担保として差し入れられており、勿論法律的に問題のないように書類は整備されているが、もう一つ相場が崩れれば、元手は吹っ飛び、問題にされかねないという危うさを持った客だった。

 私が杉森氏の内面に興味を持ったのには理由がある。それは、私が杉森氏と似た内面を持っているからだった。いや、私が女性的であるということではない。私はビジネスでは誰にも負けないほどクールで男性的であり、私が女性的などと言う人は少なくとも社内にはいなかった。家庭でも妻と娘二人を持つノーマルな父親だ。私は百六十三センチしか無いが、子供の時から敏捷で足が速かったので陸上も球技も得意だった。

 しかし、本当の内面は違う。私は三つずつ離れた姉と妹に挟まれて育ったが、物心ついた頃から、自分だけがお祭りの時にきれいな着物を着せてもらえず、学校に上がってもスカートをはかせてもらえないことに、限りない憤懣と絶望を抱いていた。姉の留守を見計らってセーラー服を着て鏡の前で自分を慰めたことも二度や三度ではない。小学校高学年になると、少年少女世界文学全集にのめり込んだ。毎日のように本を持って、物干し場の裏の屋根に登った。そこは母が物干し場に来ても屋根の陰になって見えないところで、私一人の隠れ家だった。私はその隠れ家で、小説の世界に没入し、主人公の少女になりきって時を過ごした。

 中学に上がって声変わりし、うっすらと髭が生えてきて、自分の身体が本来あるべき姿からますます遠ざかって行った。それは焦燥の日々だった。高校に入ると焦燥が絶望に変わり、死んだ方がましだと思ったが、惰性で生きるしかなかった。私は自分が普通の男子であるかのように勉強し、運動し、友人とも遊んだ。しかし、心から喜びを感じることはなく、そのまま生きていく以外の術を知らなかったので、そうしただけだった。きっといつかは神様の思し召しで女性になる日が来ると信じ、毎晩お祈りをした。しかし、その祈りは神様には届かなかった。

 現役で某総合大学の経済学部に入り、友人に誘われて合コンにも参加し、形だけのガールフレンドもできた。そう、私は一見普通の男子大学生として生活することができたのだ。毎晩神様にお祈りする以外は普通の男子だった。そして、そのことは私以外誰も知らないことだった。

 加奈子と出会ったのは大学四年の六月だった。ある日、キャッシュカードでお金を引き出すために銀行の現金自動支払機の列に並ぼうとしたとき、丁度同時に並ぼうとした女性とぶつかりそうになった。「あ、すみません」と私は言って、微笑んで列を譲った。それはジーンズにティーシャツで短髪をボーイッシュに決めた格好の良い女性で、私よりずっと背が高かった。すっきりとした顔立ちで、どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せなかった。

 翌日の午後、大学の図書館で本を探していると、後ろからポンと肩をたたかれた。振り向くとその女性だった。

「昨日はどうも」

 彼女は中性的に首から先をちょこっと下げた。

「あ、こちらこそ」
と私は微笑んで答えた。

「コーヒー、しない?」

 彼女は私を誘い、私たちは大学を出たところにあるコーヒー店に行った。

 加奈子は同じ大学の法学部の四年生だった。教養の一年生の時に心理学で同じ講義を取ったことがあることがわかった。だからどこかで見たような気がしたわけだ。

「あのころは髪が長かったから。可愛い子だな、と気になっていて、構内で見かけるたびに君を目で追っていたのよ。気づかなかった?」
と、加奈子は臆面もなく言った。

 女性から「可愛い子」などと言われて私は顔を赤くした。正直なところ、私は一年生のころは女性に興味を抱くほどの心の余裕がなかったので、加奈子のことは全く記憶になかった。

 それから私たちは週に二、三回のペースで会うようになった。デートをリードしたのはいつも加奈子の方で、それも私には心地よかった。初めて肉体関係を持ったのも彼女のアパートで、彼女がリードしてそうなった。

 加奈子が妊娠していることがわかったのは四年生の秋の大学祭のころで、卒業する時にはお腹が大きかった。加奈子は内定していた銀行への就職をあきらめ、私と結婚して専業主婦になった。私は証券会社に就職し、まもなく晃子が生まれた。

 私は加奈子を心から愛していた。私がこの世で女性と結婚生活を送っていけるとしたら、加奈子しかいないと思った。加奈子は美しく、すらりと背が高く、そしていつも私をリードしてくれた。それでも、私は毎晩のお祈りを密かに続けた。今の自分は仮の姿であり、いつか神様が私を女性に変えてくれる時が来ると信じていた。加奈子とセックスする時も、私は女性になってセックスしているというファンタジーに心をゆだねた。加奈子は加奈子であって加奈子でなかった。

 加奈子は私の心がそこにないことに気づいたのか、寂しそうな表情をすることがあった。その表情が私を本気にさせた。私は、自分が晴れて女性に成る日には捨て去る運命にあるのかもしれない家族のことを思い、強い焦燥感を覚えた。

 しかし、それは私の証券マンとしての仕事に危害を及ぼすものではなく、私は一見幸せな家庭を持って仕事に打ち込むことができた。ニューヨーク転勤を経て、私の証券マンとしてのキャリアは順風満帆だった。米国勤務中に次女の由希子も生まれ、私は完璧な人生を歩むエリート証券マンとしての風貌を強めていった。

 ある時、私は自分のファンタジーを小説にすれば、焦燥から逃避することができるのではないか、と思いついて、性転換に関する小説を書いてインターネット上に公開した。私の名前は渋沢英利ひでとしだが、英利をもじって「渋沢えり」というペンネームを使い、ヤフーで仮名のメールアカウントも作った。インターネットのホームページに設けた掲示板には読者からの書きこみが寄せられ、質問にはヤフーの仮名のメールアカウントから返事を出した。

 ある日、スギバヤシと名乗る読者からメールが届いた。

「渋沢えり様。次作はいつごろ掲載予定でしょうか? いつも楽しみにしています。私が貴女の女装小説を読みたいのは、私自信が毎晩女装しているからです。でも自宅の中だけでの女装です。そのまま外出したいと思うことがありますが勇気が出ません。どうすれば勇気を持って外出できるか教えてください」

 私の小説の読者は四つのカテゴリーに分類できる。

  • TG(トランスジェンダー)、すなわち程度の軽重はあるが私と同じように性同一性障害という問題を抱える人々。
  • TV(トランスヴェスタイト)、すなわち女装愛好家。
  • ホモセクシュアル、すなわち異性より同性との性行を好む人々。
  • ノーマル、すなわち、性的健常者。

 TGの読者から届くメールは心のこもった感想や真摯な相談が殆どであり私はできるだけ誠実に返事をするように心がけていた。ホモセクシュアルの読者は私の小説では満足を覚えないようで、たまに冷淡なコメントが届くだけだった。手に負えないのは性的健常者で、私の小説をアダルト小説やSMと同列に読んで性的興奮を求める人々である。このカテゴリーから来るメールには興味本位、攻撃的、執拗、挑発等の要素を含むものが多く、下手に返事をすると内容が段々エスカレートしてくることがある。中には私のお尻の写真と称するぼやけたファイルを添付してきて、オナニーの様子を赤裸々に記述するメールが送られてくることさえあった。TVの読者は自分がTGであることを気づいていない人々、または性的健常者が性的興奮を得る一手段として女装をする場合で、私にとっては安全な同胞と危険な人たちの入り混じるカテゴリーである。

 スギバヤシのメールは真摯なのか冷やかしなのか判断しかねる内容だった。忙しい時なら「ご愛読ありがとうございます。次作の掲載は約二ヶ月後になる予定です」という程度の返事ですませるところだが、その時はたまたま手持ちぶさたに感じていたので長めの返事を書いた。

「ご愛読ありがとうございます。次作は二ヶ月後ぐらいになると思いますが、筆が進まず悩んでいます。掲載したらメールでお知らせしますのでお待ち下さい。なお、私の小説は女装小説ではありません。性転換をテーマにした真摯な小説のつもりであり、女性になりたいと考えている人々と希望を共有したいと考えて書いています」

 翌日、スギバヤシから返信があった。

「主人公が女装する小説を女装小説と言って、何が悪いのですか? 性転換をテーマにした真摯な小説を書いて人々に希望を与えるなどと言うのは思い上がりではないでしょうか?」

 私はそのメールを読んで胸に楔を打ち込まれたようなショックを感じた。昨夜出したメールを読み返すと、明らかに相手を見下したような姿勢と攻撃性が感じられた。読者を四種類に分類して、自分と異なる分類の人間をトラブル視するという発想自体に驕りがあった。私はスター気取りで愚かなメールを出して一人の読者を傷つけてしまったのだ。

 私は深く落ち込んだ。一時間ほど悶々とした挙げ句、お詫びのメールを送った。

「申しわけございませんでした。私の出したメールを読み返したところ、おっしゃる通りの思い上がりが感じられました。どうかしていました。深く反省致します。どうぞお許し下さいませ」

 翌日帰宅してメールを開くとスギバヤシから返事が届いていた。

「許します。その代わりといっては何ですが、相談に乗ってください。顔面を脱毛したいのですが、ネット広告などに出ているレーザー脱毛で、本当に永久脱毛が可能なのでしょうか? レーザー脱毛しても数ヶ月すると元通りに毛が生えてくると読んだことがあります。また、ご経験からして推薦できるクリニックを教えてください」

 心の痛みが大きかっただけに、許すと言われて心底救われた気持ちになり、すぐに返事を書いた。

「お許し頂きまして誠にありがとうございました。レーザー脱毛の件ですが、実績のあるクリニックで実施すれば、本当に永久脱毛が可能です。個人差がありますが、完全に脱毛するには二週間程度の間隔で十回から二十回程度のレーザー照射が必要ですので、約半年を要するとお考えになった方が良いと思います。お勧めしたいクリニックは渋谷のT医院です。ホームページのアドレスを付記致します」

 自分のファンタジーを小説に書くことで現実の呪縛からくる苦しみを和らげていた私だが、顔面の髭は毎日鏡を見るたびに否応なく現実を思い知らされ、諸悪の象徴のようなものだった。インターネットで調べた挙げ句、二年ほど前に仕事の合間を縫ってK美容外科の一年コースを受けて顔面脱毛を済ませ、今では週に一、二回軽く剃刀を当てるだけで十分な状態になっている。渋谷のT医院には両足と太股の脱毛のために通ったことがある。

 メールの送信ボタンを押して十分もしないうちに、スギバヤシから返信があった。

「えりさん、早速ありがとう。もうひとつ教えてください。女性ホルモンを買いたいと思います。誰にも知られずに通信販売で買いたいのですが、どこで買えば良いでしょうか? また、女性ホルモンにも色々あるようですが、えりさんの経験からベストなものを推薦してください」

 私は早速返事を書いた。

「お勧めしたい女性ホルモンはノバルティス社の経皮製剤でエストラダ―ムTSという商品です。インターネットで検索すれば通信販売会社が沢山出てきます。私はオーストラリアの会社から購入しています。そのアドレスを付記致します」

 また、数分後にスギバヤシから返信があった。

「えり、ありがとう。君の経験からもう一つ教えて欲しい。性転換手術を受けるにはどこの病院に行けばいいの?」

 私はまた胸に楔を打ち込まれたような衝撃を覚えた。スギバヤシのメールは一通ごとになれなれしさを加え、私に迫ってくる。性転換手術の病院を経験から教えろなんて、真面目に言っているはずがない。私が性転換手術を受けたことがあるかどうか、試そうとしているに違いない。私は顔面が紅潮してくるのを感じた。コンピュータからログアウトして電源を切ろうかとも思ったが「もしスギバヤシが真面目に質問しているとしたら、私は二度同じ間違いをしてこの人を傷つけるかもしれない」と思い、スギバヤシのメールを何度か読み返した。判断がつかずコンピュータの前で凍りついていた。

 二十分も経っただろうか、スギバヤシから鋭利な刃物のようなメールが届いた。

「えり、どうして返事してくれないんだ! そこにいるのは分かっている。私が君を試そうとしているとでも思っているのか? 君はやっぱりそうやってお高くとまって、哀れな読者を馬鹿にしているんだろう。わかったよ。もういい。俺にも考えがある」

 最後の行に「追伸」として

「三分以内に謝罪のメールがなければ君を敵とみなす」
と書いてあった。

 頭の中が一瞬真っ白になり、心臓に手を突っ込んでかき回されたような気分になった。鼓動が高まり顎がガタガタと震えた。とにかくすぐに謝らなくては。あと一分も残っているだろうか……。震える手で返信した。

「今、おトイレに立って席を外していました。馬鹿にするなんてとんでもございません。すぐにお返事しますからお待ち下さい。どうかお許し下さい」

 殆ど間をおかずに返信が来た。

「心にもないことを言うな。君はぼくを嘲笑しながらメールを書いて楽しんでるんだろう。へどが出るよ。一週間以内に君をめちゃめちゃにしてやる」

 そして「追伸」の一行が添えられていた。

「本気で反省しているなら電話で声を聞かせてくれ。声を聞けば気が変わるかもしれない。三十秒だけ待つ」

 そこには〇九〇で始まる番号が書かれていた。

 私はとっさに受話器を取ってその番号をダイヤルした。しかし、スギバヤシは私の本名や住所を知らない。脅迫されても実害はないのだから電話する必要なんてない。受話器を置こうかと思ったが、私の自宅の電話は発信番号非通知に設定してあるので、電話をしたからといって、危険性が高くなることはない。電話をすることでスギバヤシの気持ちが少しでも静まるなら、そちらの方がいい選択ではないかと判断した。それ以上に受話器を置くことによって、自分にとって最後のライフラインを断ってしまうのではないかという恐怖が私を支配していた。

「スギバヤシです」
と女性の声で応答があった。私は慌てた。

「あのう。ご主人様をお願いしたいのですが。わたくし、渋沢と申します」
と、私はできるだけ高いトーンで話した。

「えり、君だね。よかった、電話をくれて」

 奇妙な女声が受話器に響いた。それはテレビで匿名のインタビューをするときのような電子音のかかった女声だった。女声化の装置を通して男性がしゃべっているのではないかと推測した。

「先ほどメールのお返事が遅れてしまって申しわけございませんでした。これからお返事を書きますので、どうかお待ち下さい」

「いいんだよ、その件は。もう怒ってないから。君はやっぱり、まだ性転換手術をしていないんだね。無理に高い声でしゃべらなくてもいいよ」

「は、はい。していません。ですから、先ほどのメールにどうお返事したらよいのか困っていました」

「レーザー脱毛と女性ホルモンも、嘘なのか」

「いえ、あれは本当です。ちゃんと経験済みですから、責任を持ってお答えできます」

「バストは何カップなの。女性ホルモンはどのくらいの期間続けているの」

「いえ、やったりやめたりで、最大一、二ヶ月でストップしていますから、胸は少し尖っている程度です」

「ということは、やはり昼間は普通に男性として仕事をしているわけだ。胸が少し尖っている程度と言ったが、ワイシャツを着てネクタイしたら分からない程度の膨らみなのかい?」

「よく見ると分かるかも知れませんが、できるだけ上着を脱がないようにしていますので」

「そうかい、ということは、例えば証券会社とか、お堅い会社でかつ外回りが多い会社かな?」

 私は業種を言い当てられて言葉がとぎれた。ひょっとしてこの女声の主は何もかもお見通しなのだろうか。

「はっはっは。図星かな?」

「ち、違います。証券会社じゃありません」

「まあいいよ。そのうちもっとお近づきになったら分かる事じゃないか。今日はこのぐらいで勘弁してやろう。これからワインでも飲んで、えりのことを考えながらマスタベーションしよう」

 私は言葉が出なかった。

「おやすみ、えり」

「おやすみなさい」

「また連絡する」
といってスギバヤシは電話を切り、女声の男性と、男声の渋沢えりとの奇妙な会話が終わった。

 それ以降、スギバヤシからのメールは途絶えた。いつまたメールが来て、電話するよう要求されるかと気が気でなかったが、一週間が過ぎ、さらにもう一週間過ぎて、何の連絡もなかった。私はやっと平穏な気持ちを取り戻すことが出来た。

第三章 転落の日

 仕事の方は益々順調だった。私のグループは前年同期比の部門別増収率で全国一位となり、社長賞の受賞が決まった。グループ長である私に現金五十万円が支給され、私は会社のビルの地下にある喫茶店を借り切ってお祝いパーティを開催し、部下十人に五万円ずつの商品券を配った。それは美談として流れ、史上最年少での部長昇進も現実味を帯びた噂となってきた。

 そんなある日、杉森興業の杉森社長が空売りしたA建設の株が急騰し、杉森氏に追い証が発生した。杉森氏のからの預かり資産の内容を調べたところ、ほとんどゼロに近くなっており、杉森興業の会社勘定の預かり資産を担保とした借り入れにより追い証の決済はできるが、一触即発の状況にあることがわかった。杉森興業の会社勘定の持ち株も下降トレンドの中腹といった感じの銘柄が多く、悪いことに、信用買いによるナンピンを重ねていた。このままでは遠からず不愉快な結末が訪れるのは確実と思われた。

 私は久々に杉森社長に電話で面談を申し入れ、訪問することにした。会社への訪問ではなく、自宅に行くことになった。

 杉森社長の自宅は中野の高級マンションの三階にあり、私の自宅からは徒歩十五分ほどの距離だと分かった。私は午後七時に杉森社長のマンションのチャイムを鳴らした。

「N証券の渋沢です。夜分失礼致します」

 ドアが開いて杉森社長が顔を出した。

「ああ、どうぞお入り下さい。わざわざ恐縮です」

 リビングルームに通され、私はソファーに腰を下ろして杉森社長と向かい合った。

「A建設の急騰は本当に災難でしたね。誰にも想像もつかなかったことで、交通事故というより、隕石が自宅の屋根に落ちてきたようなものだと思います。でも社長の場合は会社勘定の資産を十分お持ちですので、今回の追い証は融資で何とかさせていただきました」

「全く、呆れるほど運が無いですよ」

 杉森社長は頭をかきながら悪びれずに言った。

「その会社勘定の持ち株のことなんですが、拝見しますと、下降局面の株が殆どで、信用買いの建て玉も損が重んでいますし、一度整理した上で巻き返された方が得策ではないかと存じます」

 私は言葉を選びながらもストレートに持ち玉の整理を迫った。

「もう後がないのは重々承知しています。しかし、今持ち株を全部整理すると、いくらも残らないから、それは勘弁して欲しいところです。それよりも、余力を全部使って、個人の勘定の方で大勝負したいんですが、何とかしていただけませんか?」

「それはお勧めできません。万一思惑が外れたらそれこそ大変なことになりますよ」

「思惑が外れない株で勝負したいんですよ。そろそろお宅の推奨銘柄が変わる頃じゃないですか。それを底値で信用の限度ぎりぎりまで注文を出しておいてください」

「そんなことは到底無理です。大体私のような営業部門の人間に、新しい推奨銘柄が事前に分かるわけがありません。仮に分かったところで、どこが底値か分からないし、万一特定のお客様に情報を流したりしたら一発でクビになります」

 杉森はにやりと笑って言った。

「それを敢えてお願いしたいんだよ、えりちゃん」

 全身が凍り付いたが、出来る限りの平静を装った。

「何をおっしゃっているのか、よくわかりませんが」

「えり、あれだけ電話でプライベートな関係になってから半月しか経たないのに、それは無いんじゃないの?」

 何ということだ。スギバヤシは杉森社長だったのだ。

「私の名前はエイリではなくシブサワヒデトシと読みます」

「何をとぼけたことを言ってるんだ。あの電話はレコーディングしてあるんだ。聞きたければ聞かせてやるが。俺もあれにはびっくりしたよ。遊びのつもりでインターネットの小説家をからかったら、本当に電話がかかってきた。どこかで聞いた声だとは思ったが、渋沢ということでピンと来た。今日念のために家に呼んで確認したわけだ」

「違います。私じゃありません」

 私はそう叫ぶ以外にどうすべきか思いつかなかった。

「じゃあお宅の本部長にでも来てもらって、聞き比べパーティを開こうかな。奥さんも招待しなくっちゃね」

 もう観念するしかない。

「待ってください。できるだけのことはしてみますから勘弁してください」

「初めからそう言えば脅しめいたことを言う必要はなかったんだよ。さあ、話は決まったから、仕事のことは忘れて一杯飲もうか」

 杉森は食器棚からグラスを二つ取り出し、氷を入れて、ガラス棚にあったメーカーズマークの十二年ものを注いだ。

「乾杯だ!」

 私は引きつった笑顔でグラスを上げ、バーボンに口を付けた。

「あの時の電話の声は不自然な女性のような高い声でしたけど、杉森社長だったんですか」

「そうさ」

「でも、なぜそんなことを」

「声転換器を通信販売で見つけて、女のふりで色々電話をして楽しもうと思って買ったんだ。でも、広告はでたらめで、一発で偽物と分かるような不自然な声しか出なかった。だから、インターネットで獲物を探してからかうという遊びを始めたわけさ。肉声で電話してばれたらやばいしね。実際に引っかかって電話がかかってきたのはえりが三人目だったが、あそこまで本気でおびえていたのはお前だけだよ。電話の向こうで心臓がドキドキする音が聞こえてくるようだった」

「ひどいです。あんなの、犯罪です。許せません」

「そう言ってるお前は、女そのものだな。そうだ、もっと気分を盛り上げよう」

 杉森は隣の部屋に入って、間もなく、女物の下着と黒いパーティドレスを持ってきた。

「いやです、そんなの。絶対にいやです」

「本当は女の服を着たいんだろう。だからそんなに髪を長くしているんだろう」

「髪はファッションです。それに、そんなに長くありません」

「小説の中ではあんなに大胆なのに今更何を言ってるんだよ。すぐに着替えないと大変なことになるぞ」

 杉森は「大変な」という言葉を長く重く言って、私の肩に両手を置いた。その瞬間、体力では全く勝ち目がないことを悟った。

 私は観念してそのドレスに着替えた。そのドレスは私にはツーサイズ以上大きく、杉森自身に合わせてあつらえられたものではないかという疑いが頭をかすめた。

「これは、あなたの服ですか? もしかしてあの電話の時も、これを着ていたんですか?」

 口に出すと危険を呼ぶかもしれない質問を、つい発してしまった。私はそれ程混乱していた。

 杉森は不敵な笑みを浮かべて言った。

「知りたいか? 知りたいということは、もっと親しくなりたいということだな?」

 突き刺すような視線で意味ありげに言われて、私はソファーに座ったまま思わず後ずさった。

「すっぴんでもなかなかのものだ。でも、少しお化粧した方がもっとムードが出ると思うよ」

 私は隣の部屋の化粧台の前に座らされた。鏡の前には必要な化粧品が並んでいた。抵抗しても無駄なことは分かっていたので、私は何とか化粧をして、最後にルージュを引いて仕上げた。

 ソファーに戻ると、バスローブに着替えた杉森が待っていた。杉森はおもむろにバスローブの前をはだけ、屹立した逸物をさらけ出した。

「バーボンを飲みながら、氷を口にふくんだままやってくれ。ひんやりするのが好きなんだ」

「許してください。私、そんなことは駄目なんです」

「心の中は女なんだろ? 今は見かけも女なんだから、女らしくやってくれよ、えり」

 どう奮い立とうとしても、杉森の醜い逸物に口を付ける勇気は出てこなかった。

 杉森は私の髪の毛を乱暴に掴んで引き寄せた、顔を平手で殴った。

「手間をとらせるな。さあ、やれよ」

 杉森は両手で私の両耳を掴んで逸物を無理矢理私の口に含ませ、マスタベーションするように私の顔をピストン運動させた。

「歯を立てるんじゃない! 舌をもっと使って、喉の奥まで飲み込むんだ」

 杉森は乱暴に命令を続け、私の動きが衰えると、髪の毛を掴んでピストン運動させた。私は何度も吐きそうになりながら奉仕を続けた。二十分ほどして突然杉森は大きなうめき声を出し、首が折れそうになるほど強い力で私の頭を動かしながら大量のおぞましい精液を私の喉に放出した。

「飲め、飲み込むんだ」

 杉森は放心したように言った。

「いい子だな、えり、お前は可愛いよ」

 杉森は私の頭を股間に押しつけたまま余韻を楽しんでいるようだった。

「そのままくわえてろ、動くな」

 杉森はそのままの体勢で手を伸ばしてグラスを取り、満足そうな息をつきながらバーボンを飲んだ。手の届く範囲に転がっていたテレビのリモコンを取り、アダルトビデオを見始めた。ビデオは途中からで、私が到着する前に見ていた物らしい。私の目に入るのは毛だらけのおぞましい股間だけで、テレビからセックスをする女のリズミカルなうめき声が耳に入った。

 十分も過ぎただろうか、杉森の逸物が再び石のように硬くなり、大きさを取り戻した。杉森は私の顔を逸物から外し、仰向けに寝かせた。私は肩が凝って首筋がぱんぱんに張っていた。杉森は私のドレスをまくり上げ、パンティを乱暴に引き下ろした。

「さあ、今度は本当に女にしてやるよ」

「待ってください。どうしようというんですか」

 私は必死に拒もうとしたが、顔を二度平手で殴られて力を失った。

「黙ってろ。お前の小説の主人公の倍以上いい思いをさせてやるから。両手を組んで首の下に持っていけ」

 何度も平手打ちをくわされ、私は仰向けのまま言われる通り首の下で両手の指をからませ、無防備な姿になった。杉森は私の両足首を掴んで押し広げ、弓のようになった私の足の中心に逸物を挿入した。私は初めての経験にうめき声を上げた。痛い以上に身体中に無力感をかき立てるような、強烈で矛盾に満ちた感触だった。

「そうか、えり、そんなに嬉しいか。もっともっと気持ちよくさせてやる。さあ、ビデオの女と同じ声を出すんだ。息づかいを合わせて、同じ高さの声で、ビデオの女が、もっとして、と言えば、お前も同じ声で、もっとしてと言え。さあ、やれ」

 杉森はピストン運動を始めた。杉森の逸物が私の奥深くに侵入するたびに、はからずも私の口からうめき声が出てしまう。杉森はビデオの中で行われているセックスに同期するように、リズムを整えて体を動かした。私はビデオの女を真似た声を機械的に発した。

「違うだろう、もっと高い声だ! 心を込めてビデオの女になったつもりで声を出せ。もっと気持ちよさそうに頭のてっぺんから叫ぶんだ!」

 気を抜こうとすると容赦なく平手打ちを喰らわされて、私は言う通りにさせられた。テレビから聞こえる声に合わせて、いいわあ、とか、もっとしてえ、とか、いくう、とか言わなければならなかった。

「そうだ、口を開けて、物欲しそうに舌を出すんだ。いい女だ、えり。何もかもビデオの女と一緒だ。そうか、もっとして欲しいのか。ようし、もっと叫べ」

 十五分もすると私の吐く息のリズムはビデオの女と完全に同期し、もっとしてえ、と言う声がテレビから聞こえてくるのか、自分の口から出ているのか、自分でもわからなくなった。頭に血がのぼせたのか、血が引いたのか、酸欠状態になっているのか、いずれともつかないが、ひと息ごとに後頭部から両耳にかけてしびれが走った。頭の中に静電気を帯びた無数の金粉が散らされたような不思議な感覚で、今自分がどこで何をしているのか全く分からなかった。そのうちに身体の芯の方で静電気が花火のように炸裂し、体が宙に浮き、感覚と意識が遠のいていった。

 身体中に火照りが残った状態で目が覚めた時、私の体の上に杉森の裸体が覆い被さっていた。

「やっと意識が戻ったのか。えり、お前は最高だったよ」
といって杉森は私に口づけをした。

 精神的な嫌悪感とは裏腹に、唇から心地よいしびれが発信され、火照った体に残る余韻に火を灯した。

「さあ、シャワーを浴びよう」

 杉森は私を抱き起こし、皺になったドレスと下着を脱がせた。杉森の手が触るたびに私の体に電気が走った。

 バスルームでシャワーを浴びながらお互いの体を洗った。杉森は自分の萎えた逸物を私の舌できれいにするように命令した。自分にとって理解しがたいことに、私は最早何の嫌悪も感じず、飼い猫のように無心にぺろぺろと舐め、その舌の動きの一条一条が火照った身体の余韻を呼び起こした。杉森が少し尖った私の乳首の上に円を描くように石けんがついた手を這わせると、みぞおちの辺りがぴくぴくと引きつった。杉森はそれが私を感じさせることを発見して繰り返し攻めた。私は何度かその場に崩れ落ちそうになったが、杉森の首に手を回して辛うじて踏みとどまった。

「中学に上がったばかりの女の子のような胸だ。そのうちもっと大きくしてやるからな」

 杉森は意地悪さと、傲慢な主人が飼い犬に対して示すような愛情を取り混ぜた微笑を浮かべて言った。

 女性ホルモンの貼付剤のエストラダームTSを使い始めて四年近くになる。一、二ヶ月使うとバストが膨らみ始めるので中断するが、また何ヶ月か過ぎると、肌のきめが目に見えて粗くなり、いたたまれなくなって再開するという繰り返しだった。今は約四ヶ月前に中断して、そろそろ再開しなければと焦りを感じ始めていた矢先だ。でも胸の膨らみは、これ以上進むと服を着ていても一目で気づかれかねない限界まで来ているので、安易に再開するわけにはいかなかった。女性ホルモンを何度も使ったり止めたりしたせいで、脂肪が蓄積してしまったのだろうか……。やりはじめた当初は、一、二ヶ月で乳首が硬くなっても、中断してしばらくすると元の柔らかさに戻っていたが、最近は硬いままで、心なしか大きく色濃くなったような気がする。幸い、毎日見ている加奈子は変化に気づいていないが、これ以上胸が大きくなると、いくら私に関心のない加奈子でも気づくに違いない。

「そういやあ、お前のあれはずっと小さいままだったな。普通はでかくなって邪魔になるんだが」
と杉林は私を見下す口調で言った。

 投与量にもよるが女性ホルモンを半年以上続けると生殖能力が無くなる恐れがあると言われている。二人の娘を持つ私としては精液中に精子がいようがいまいがどうでもいいが、生殖能力を担う組織は退行し始めると不可逆的な萎縮に至ると読んだことがある。私の睾丸はこのところ随分小さくなった気がするので、気をつけねばならない。エストラダームTSは大柄な欧米人用としても最高用量の製剤であり、私の体重では過剰投与になるのかもしれない。

 バスルームを出て体を拭き、元通りの服に着替えてネクタイを絞めた。午後十時を過ぎていた。

「じゃあ、さっきの件、よろしくな。おやすみ、えり」

「おやすみなさい」

 外は小雨が降っていた。私はまだ乾いていない髪に雨がたっぷりと含まれるように、わざとゆっくりと歩いて自宅に帰った。加奈子は何事もなかったかのように私を迎えた。

 こうして、私の衝撃的な転落の初日が終わった。

第四章 背任のつけ

 翌朝出社すると、二日後の金曜日の夕方に発表する予定の推奨銘柄の入れ替えに関する情報を探った。この情報は取締役にも手の届かない内部情報であり、調査部門のさる筋からギブアンドテークで極秘裡に手に入れたものだ。

 私はまず杉森興業の預かり資産を担保として杉森氏個人の信用取引限度を最大限に設定した。新規組み入れ推奨銘柄のうち最も値動きが軽そうなのはNコーポレーションだった。この銘柄に的を絞って動きを入念にワッチし、たまたま昼前に別の顧客から電話があった大きめの成り行き売り注文を、前引け寸前に流して、売り気配のまま前場を終わらせた。後場が始まるとすぐに杉森名義で千株ずつ指し値を下げながら買いを入れ、結局前日終値に比べ二十五円安で杉森の買い余力一杯の信用買いを完了した。そこで推奨銘柄の入れ替えを臭わせる情報を携帯端末から偽名のWEBメールを使って、別名広告塔と言われる隣の部の前田に送った。その数分後にNコーポレーションに買いが入り始め、その日は前日比三十円高で引けた。翌日の金曜日は朝から買いを集めて前場はストップ高買い気配で引けた。私はここが潮時と判断し、後場寄り付きで杉森の信用買い分を成行売りで決済した。

 会社の幹部はNコーポレーションの値動きの異常に気づき、スキャンダル防止措置としてNコーポレーションを新規推奨銘柄から外す決定が急遽なされた。

 一方、私は杉森の他の銘柄の持ち株や信用買い残のうち下降トレンドにあるものを全部売り切り、金曜日の夕方には杉森の口座は極めて健全なものになった。

 私は社外で携帯電話から杉森に報告を入れた。

「私の計算では四千八百万円分ご支援したことになります。もう無茶はしないでください。これでお互い何もかも無かったことにさせて頂きます」

 杉森は拍子抜けするほどあっさりと、一言、
「ありがとう、えりちゃん」
と言って電話を切った。

 しかし、それで終わりではなかった。翌週、スギバヤシからメールが入った。

「明日の夜七時にマンションに来てくれ」

 どういうつもりなのだろうか……。もう関係は持ちたくない。私はすぐに返信した。

「何もかも無かったことにしていただいたはずです。それに明日は夕方から会議があります。いずれにしても今後お目にかかることはありません」

 しばらくして電話がかかった。加奈子が取った。

「あなた、杉森さんという方から電話よ」

 私は慌てて電話に出た。

「えり、メールがいやなら、毎晩電話で愛を語ってもいいんだぜ。それとも会社のロビーで会う方がいいかな?」

 テレビに出てくるやくざの脅迫電話のような声だった。

 私は近くにいた加奈子に異常を感づかれないように返事した。

「承知致しました。それでは明日お伺い致しますのでよろしくお願い致します」

「新規の大口客なんだ。明日は遅くなるかもしれない」

 加奈子は「あ、そう」と言っただけで何も不自然には思っていないようだった。

 翌日、午後七時丁度に杉森のマンションに行った。

 驚いたことに、杉森は先日私に着せた黒の膝丈のパーティドレスに身を包み、あくどいほどの厚化粧をして、バーボンを飲みながら私を待っていた。その姿はあまりにもグロテスクで、私は思わず後ずさった。

「さあ、あなたも着替えなさい」

 手渡されたのは、なんと、女子高の制服だった。覚悟を決めて着替えたが、プリーツスカートはウェストが十センチ以上余って上衣もぶかぶかだった。

「えりは今日は女子高生だからお化粧はしなくていいのよ。私の横に来てお座り」

 杉森は女のように言ったが、声は低いままだった。

 私を横に座らせて、杉森はテレビのリモコンのスイッチを入れた。それは二人の若い女性がアパートの部屋で身体をまさぐり合う映像で、大柄な方の女は黒いワンピースを、小柄な方は制服を着た女子高生だった。やがて大柄な方の女が女子高生のパンティを脱がせ、制服を着たままベッドでレズビアンプレーを開始した。その単調なビデオは二十分ほどで終わったが、杉森はビデオの中の大柄な方の女の動きに合わせるように、横に座っている私の身体に右手を這わせた。

 退屈なビデオが終わると、杉森は今度はカセットテープの再生ボタンを押した。すると、セックスに夢中になっている女のなまめかしい声が流れ始めた。女は、もっとしてえ、と叫んでいる。

「いいでしょう、このテープ。この間レコーディングしたのを編集して九十分のテープにしたのよ。毎晩、このテープを聴きながらマスターベーションしてから寝ているの」

 なんということだろう。よく聞くとそれは私の声に違いなかった。私は身震いがした。

 杉森はテープの音量を上げると、私を立たせてパンティーを引き下ろし、自分もパンティーを脱いだ。黒いドレスの前部が竿で支えたように突出した。

「私、きれいでしょう?」
と、杉森は何度も言いながら、私を仰向けに寝かせ、両手を首の下で組ませた。私は前回と同じようにエビのような格好で足を拡げさせられ、黒いドレスの裾に隠れた杉森の醜い逸物が私の奥深く入ってきた。

 杉森はテープの女の声にリズムを合わせてピストン運動を続けながら、

「私、きれいでしょう?」
と繰り返した。

「きれいよ、きれいよ」

 私は無意味に機械的に繰り返した。

 杉森の息が高まり、突然人間が変わったように乱暴になった。杉森は私に二、三度平手打ちを喰らわせた。

「おい、声が小さいぞ。テープの女に合わせるんだ。もっと叫べ、もっと」

 私はテープの女と同じ息と同じ声でリズムを合わせた。私が、もっとしてえ、と喘ぐと、テープの女が私を挑発するように、いくう、いくう、と叫んだ。テープの女と私は双子の姉妹が一人の男性を奪い合っているかのように、頭を左右に振り乱しながら、理性のない雌猿のように喘ぎまくり、いつしか、空っぽの頭は虚空に向かって自爆した。

 意識を取り戻すとこの前と同じように杉森の裸体が私を覆っていた。この前と同じようにバスルームに行き、理性から来る嫌悪を中和しかねないほどの快感の火照りに図らずも身を任せる結果となった。私は自分の身体に強い不信感を抱き、自己嫌悪を覚えた。

 シャワールームを出ると杉森は男物のガウンに着替え、私はヘアドライヤーを十分に使って髪を乾かし、元着てきた服に着替えてネクタイを絞めた。

「ちょっと待ってくれ。頼みたいことがあるんだ」

 杉森は帰ろうとする私を呼び止めてソファーに座らせた。

「以前レーザー脱毛のことを聞いたことがあるよな。あれ、一緒に行ってくれ。俺みたいなのが突然美容クリニックに飛び込むとどう思われるか心配だし、それ以前の問題としてひとりで美容クリニックの玄関をくぐる勇気がない。予約とか必要なんだろうか?」

 頼みがあると言われて、また無理な要求をされるのかと身を構えていたが、造作も無いことなのでほっとした。杉森が本気で脱毛を考えていたと知って滑稽だと思った。

「レーザー脱毛はどこでも予約制だと思います。行ってみれば何でもないですよ。じゃあ、私が予約を入れましょう。いつが良いですか?」

「できるだけ早いほうがいい。明日じゃ駄目か?」

「明日の朝一番に電話してみて、ご連絡します」

 それで私は解放され、帰宅を許された。

 翌朝、K美容クリニックに電話したところたまたま午後一時に空きがあり、私は杉森の名前で予約を入れた。正午に杉森興業の事務所で杉森と落ちあい、地下鉄で銀座まで行った。エレベーターを降りてK美容クリニックのドアを通ると、杉森はそのファンシーな内装と雰囲気に圧倒されてうつむき気味だった。ロビーには三十代半ばと思われる女性が二人待っていたが、入ってきた私たちをうさんくささと好奇の混じった目で見た。

 受付で手続きを済ませ、呼ばれるのを待った。私がロビーに置いてあるファッション雑誌をめくっている間、杉森はうつむき加減でそわそわしていた。

「杉森様」

 白衣を着たスタイルの良い女性が杉森の名前を呼んだ。

「はい」

 私が答えて立ち上がると杉森もやや遅れて席を立ち、女性の方に歩いていった。

「杉森様はどちらですか?」

「そちらです。私は付き添いのものです」

 白衣の女性はちょっと微笑んで、私たちを診察室へと先導した。ほどなく医者と思われる女性が診察室に入ってきて、レーザー脱毛に関する基本的な説明をした。杉森が書類にサインした後、女医は出ていった。

「これからレーザー照射をするお部屋に入っていただきますが、付き添いの方はロビーでお待ちください」

「付き添ってもらうことはできないんですか?」

「レーザー光が目に入ると失明しますので、付き添いの方の入室は厳禁という規則です」

「じゃあ、杉森社長、待っていても仕方ないので私はこれで失礼します」

「待ってくれ。不安だからロビーでいてくれ」

 杉森に乞うように言われて、これも仕事のうちだと割りきり、ロビーで待つことにした。

 小一時間ロビーで待っていると杉森がレーザー照射を終えて帰ってきた。

「いやあ、痛いのなんの。あんなに痛いとは思ってもいなかった」

 杉森はうれしそうに言った。

「だんだん慣れるから心配いりませんよ。バシっと焼き切るたびにきれいになるんですから、そのうちに痛みが快感になってきますよ」

 受け付けから名前が呼ばれ、杉森は二週間後の予約を入れてクリニックを出た。

「次回からはお一人で行ってくださいね」

 杉森は渋々了承した。


続きを読みたい方はこちらをクリック!