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性転のへきれき(由香の場合)夫婦スイッチ:今日から奥さんになりなさい

【内容紹介】夫婦の立場が入れ替わる古典的な夫婦逆転ものTS小説。妻の由香は背が高く格好いい女性で、男性にもてるだけでなく女性のファンも大勢いた。そんな由香が僕にプロポーズしてくれた。でも、結婚生活はそう甘くはなかった。

序章

「結婚は人生の墓場である」

 これは、フランスの詩人ボードレールの有名な言葉ですが、元々、結婚するとそれまでの自由度を奪われ死ぬのと同じだ、という意味ではなかったようです。当時のフランスでは性病が猛威をふるっており、男女が交わることが多くの場合死につながるという世相を反映する言葉だったのだそうです。

 現代の日本では、結婚は人生の転機として重要な意味を持っています。夫と妻の関係は、昭和のように一方的なものではなく、女性のライフスタイルも多種多様になってきました。妻が主要な生計保持者だったり、夫が家事の主な分担者だったりするケースは、まだ少数派と言えます。特に出産によって夫婦の役割が「男は外で、女は内で」に変化しがちであるというのが主要な原因です。

 夫婦の関係や役割が大きく変化しても、出産以外で昔から変わらない点がいくつかあります。

  • 女は毎日お化粧する
  • 女はスカートをはく

「結婚は人生の墓場である」という言葉は僕の場合、かなり当たっています。それまでの僕の人生は、結婚後しばらくして完全に終わり、全く違ったものになってしまいました。でも、僕の妻は「人生の転機」を自らの手で勝ち取り、僕は別な形での幸せを手に入れることができたのです。

第一章 転職はネットで

「お客さん、ごめんなさい。そろそろ閉店なんですよ」

 おかみに言われて、そそくさと勘定を済ませ、可能な限り遅い足取りでアパートに向かって歩いた。今日の金曜日で三日連続だ。夜九時ごろ帰宅して妻の由香と口論してアパートを飛び出し、三晩続けて同じ飲み屋でコップ酒にキンピラごぼうというていたらくだ。アパートに着くと案の定ドアはロックされていた。チャイムを二十回は鳴らしたが由香は一向に起きてくる気配が無い。近所の迷惑を気にせずに騒ぎ立てるほどには酔いは回っていなかったが、もうこれ以上歩くのはしんどい。僕はドアを背もたれにして座り込み、酔いを覚ますことにした。

 由香と僕は学生結婚して半年。世間風に言えばまだ新婚ほやほやだ。生命工学科の同級生で、二ヶ月前に一緒に卒業した。僕は大阪の商社に入社し、精密化学品部の受渡部門での見習い社員の身だ。由香は四年生になったばかりの頃、中堅食品会社の関連のバイオテクノロジー会社に総合職として就職が内定したが、運悪く去年の秋にその食品会社が会社更正法を申請し、就職活動をし直すには遅すぎるのでやむなく専業主婦になった。僕は元々共働きには反対で、仕事から帰ると女房が玄関で三つ指ついて「お食事になさいますか、それともお風呂に?」と聞くような夫婦生活が願望だったので、口には出せないが食品会社の倒産は嬉しい誤算だった。それまでに共働きの是非について度々口論していた僕たちが無事結婚に漕ぎ着けたのは倒産のお陰だったかもしれない。学生だった間は家事を分担していたので問題はなかったが、僕が就職して由香が家事全般を担当することになってから僕たちの関係がおかしくなった。

 僕が配属になった職場は不景気のため人減らしし過ぎた結果人手不足に陥っており、新入社員の僕でさえ毎日多忙だった。午後九時に帰宅できればいい方で、会社を出るのが午後十一時になることもあった。疲れ果てて帰宅する僕を待っているのは「お食事になさいますか」という女房の笑顔ではなく、新婚とは思えないほどふてぶてしい由香の悪態で、この三日間夕食は用意されていなかった。由香の言い分によると何時に帰宅するか分からず、予告無く外で食べてくるかもしれない僕の夕食を用意するのはばかばかしい、ということだった。

 僕の常識では専業主婦が心をこめて料理を作り、何時になっても夫の帰宅をじっと待つのは当然だ。僕も気ままな学生生活から厳しいサラリーマン生活に突入し、毎日早朝に家を出て夜遅くまで会社勤めするのは大変なことなのだ。好きで毎晩九時以降に帰っているわけではない。気ままに一日を過ごせる由香は幸せで、出来ることなら代わって欲しいぐらいだ。この三日間、二人とも毎日同じ事を怒鳴りあって喧嘩分かれになっていた。

 由香がいわゆる可愛げのある女性ではないことは初めから分かっていた。だからこそ好きになったのかもしれない。僕の母に似て男勝りでしゃきしゃきしていて、リードするのはいつも由香の方だった。一昨年母を亡くして、母の面影が由香に重なっていたのだろうか。由香は合気道の二段で女性にしてはしっかりした骨格をしている。身長も自称百六十八センチだが身長測定の際には背を丸めているから、分からないように背伸びして身長測定して百六十三センチの僕より、同条件で比較すれば多分十センチぐらい背が高いかもしれない。そんなことは結婚するまで深く考えないようにしていたが、最近、けんかになった時には由香はわざと僕に接近して立ち、背筋を伸ばして見下ろすように突っかかってくる。僕としては自分が悪いわけではないのに、つい逃げ出すように家を出て飲み屋にしけこむのも、その辺りに原因の一端があるかもしれない。

「合気道は守り専門だからあんたがなぐりかかってこない限り私の方から技はかけられないのが残念だわ。文句があるならいつでも手を出しなさい。後ろからでも良いし、バットでなぐりかかってもいいわよ。まあ、あんたが相手なら合気道を使う必要もないけど」
と言うのが喧嘩した時の由香の口癖だった。

 そもそも、家事が基本的に嫌いな女と結婚すること自体が間違いだったのだろうか。由香が女房にするには全く向いていない女であることは始めからわかっていたはずだ。でも共働きにすれば由香は仕事にのめりこみそうなタイプだし、元々好きでない家事を僕に押し付けてくるのは目に見えていたので、共働きだけは避けたかった。幼稚園の年長組の時に父を亡くし、ただ一人血のつながった母を一昨年亡くした僕にとって、結婚とは暖かい家庭を意味していた。共働きの共同生活に我慢するぐらいなら、由香が働きに出て僕が専業主夫になるほうがまだましだ。でも、家に男がいるのでは様にならない。男は外で戦い、女が家で男を迎えるというのが日本人の美学だ。由香と論争になると、僕はいつもそう主張するのだが、その度に由香は僕を小ばかにするように鼻で笑い、僕はますます腹を立てるのが常だった。

 とりとめもない考えが頭の中で堂々めぐりするうちに空が白み初めた。とうとう玄関前でドアを背にして夜を明かしてしまった。腕時計の針が六時をさす頃、ドアが急に押し開けられ、僕は後頭部をガツンとやられた。

「よっ。おはよう」
と由香が元気良く声を発した。

「十二時過ぎに帰って丁度六時間ね。酔ってたからよく寝られたでしょう」

「ばかっ。僕が帰ったのを知ってたのか?」

「勿論。夜中にチャイムをあんなに何度も鳴らしたら近所迷惑よ。今度から気をつけなさい」

 どこまでも腹の立つ女だ。でも喧嘩の後なのに妙にあっけらかんとしていて変だ。

「ぐずぐずしてないで、家に入りなさい」

 由香に促されて僕は家に入り、ソファーに腰をおろした。

「私たちの関係の事で話があるの。実は私、一睡もしてないのよ。ひと晩かけて完璧な解決方法を思いついたんだけど」

 由香の言葉に僕は青ざめた。きっと離婚を言い出すつもりなのだ……。そもそも始めてデートに誘ったのも、結婚を申し込んだのも由香の方なのに、気に入らないとなると一方的に別れ話を持ちだすなんて、身勝手な! 僕は胸がつまって、唇が震えた。同時に目にどっと涙が溢れてきた。

「あっ、こいつ泣いてる!」

 由香は僕の涙に気づいて「アハハハ」と笑った。

「別れ話だと思ったのね。安心しなさい、いい子にしてれば捨てたりしないから」
と由香は勝ち誇ったように言った。

 離婚の話じゃないようだ。でも、涙が勝手に出てきたお陰で、僕にとって非常に不利な状況になってしまった。

「インターネットで色々調べた結果、最高の転職先が見つかったのよ。千葉県の、ある財団がやっているバイオテクノロジーの研究所で、私たちにピタリの求人があったの。週四十時間の完全フレックスタイムで、好きな時に好きなだけ出勤すればいいんだって。給料も今のあなたより三割以上アップよ。ホームページの求人欄をクリックすると、オンライン就職試験コーナーというのがあって、スタートボタンを押すとバイオテクノロジーに関する五者択一の問題が二十問出てきて、出来る限り早く答えを選んで完了ボタンを押すようになっていたのよ。難問が多くて幾つか迷った問題もあったけど、ラッキーで全問正解。自動的にメッセージが表示されて『エクセレント! 当方からの連絡をお待ちください』って書いてあったから二、三日中にあなたの名前で合格通知が来るはずよ」

 相談もなく僕の名前で転職の試験を受けるとは、なんて勝手な奴だ。むかっ腹が立つが、捨てられ損ねた泣きっ面では抗議するにも迫力が出ない。

「今の会社に辞表を出すのは、採用通知が届いてからでいいわ。今週中に退職を申し出て、来月から再就職すればいいわね。言いにくければ私が水曜日にでも退職届を出してきてあげるけど、あんたは家で待ってる?」

「ばかっ。そのくらい自分で言うよ。それに、届けを出してもすぐに辞められるはずがないじゃないか。引継ぎが必要なんだから」

 こう反論したことによって、僕は転職に大筋同意したことになってしまった。

「そうね。今の会社をきれいに辞めることは大事ね。白石一馬の名に傷がつくと、困るのは私だから」
と由香が意味ありげに言った。

「失業率の高い今時、インターネットのホームページでのオンライン就職試験で簡単に採用通知が来ると思いこむなんて由香も甘いな」

 心の中でそう思ったが、そんなことを口に出さないだけの分別を、僕は持ち合わせていた。

 月曜日の午後八時に帰宅すると、部屋には大きな段ボール箱が散乱していて、早々と由香が荷造りを始めていた。

「おかえり。食卓にカップ焼きそばが置いてあるから勝手に食べて。研究所から連絡があって、出来るだけ早く勤務を開始して欲しいと言ってきたの。明日、退職届を出してきなさい」

 なんてこった! 僕は会社を本当に辞める羽目になるのだろうか。今日は課長から仕事が早いと誉められて気分を良くしていただけに、退職届を出すことを考えると心が痛む。

「できるだけ短期間に引継ぎを終わらせてもらえるように、しっかり交渉してくるのよ。私はとにかく来週中に引越しするから」

「どうして由香だけ先に引越しするんだよ」

「先に行って、色々手続きしたり準備しておくのよ。なにもかもね」

 翌朝、僕は課長に退職を申し出た。さんざん文句を言われた後、部長に呼ばれて更に十分間、いやみたらたらお説教された。その後、部長と課長は僕の後釜の確保の為に社内を奔走し、二週間後に経理部の一年先輩の一般職の女性が僕の後任として来ることになった。それから引継ぎに二週間かかるので、今から丁度一ヶ月後に辞めさせてもらえることになった。

 それからの毎日は大変だった。二週間という最小限の引継ぎ期間ですませるためには、後任の人が来る前に引継ぎ書を書き上げる必要があり、僕は毎晩遅くまで残業しなければならなかった。新しい就職先に出す健康診断書の為に金曜日の午前中に診療センターに行った以外は、週末も出勤した。その間由香はてきぱきと転居の準備を進め、翌週には引越しのトラックが来て、僕はスーツケースひとつでビジネスホテルに放り込まれ、由香はマイカーで千葉へ旅立った。

 しばらくして、由香から郵便で飛行機の切符が届いた。

「最後の商社マンン生活、楽しんでる? 飛行機の切符を同封します。変更不可能の安い切符です。空港からの電車の乗り継ぎの図も同封します。駅についたら電話してください。車で迎えに行きます。厳しい会社勤めもあとわずかね。私も新しい環境と格闘しているから、あなたも最後の勤務を楽しんでね。それから、ビタミン剤は朝夕忘れず飲むのよ。チャオ」

 僕の最終出勤日から四日後の東京行きの最終便の切符だった。由香のやつ、僕の最終出勤日を間違えているらしい。でも最後に遊ぶのに好都合だから、何も言わずにこの便で行く事にしよう。ビタミン剤は婚約した時に、外食ばかりの僕の栄養不足を心配して由香がプレゼントしてくれた錠剤だ。結婚してからは由香が栄養を管理するのでビタミン剤を飲むのは止めた。実際には、由香の作る食事よりは結婚するまでの外食の方が栄養のバランスが取れていたと思うが、勿論そんなことは口が裂けても言えない。今度由香が出発する時に、朝夕ビタミンを飲むように言われたが、僕の健康を気遣ってくれているのだと思うと嬉しかった。

 その夜、僕はホテルの部屋で由香のことを考えながら久しぶりに射精した。「久しぶり」というのは本当だ。僕は元々精力は強い方ではないと思うが、結婚してからひと月ぐらいは週一回のペースでセックスしていた。由香はセックスでもリーダーシップを取らないと気が済まないようで、騎乗位しか受け付けない女だった。僕が動くことを嫌がるので、僕はじっと仰向けになっているだけで楽だったが、由香はクライマックスが近づくと僕の大事なものが折れそうになってもおかまいなしに激しく動いた。僕は射精が来るのが遅いタイプで、由香のクライマックスの少し前に僕が行くパターンが多かった。僕のあそこが敏感な時に由香が乱暴に動くので、僕は由香とのセックスに若干の恐怖感があった。そんな精神的な要因があるのだろうか、結婚後しばらくしてからは、必要なときに直ぐにはイレクトしなくなり、しても間もなくなえてしまうようになった。意外にも由香は全くいやな表情は見せず、
「いいのよ。立っても立たなくても、そんなことはどうでもいいことなんだから」
と、優しく慰めてくれるのが常だった。その夜は由香のそんな優しさを思いながらベッドの上で果てた。

第二章 スイッチ

 羽田行きの飛行機は出発が三十分ほど遅れ、到着後も預けた荷物が出てくるのに随分時間がかかったので、モノレールに乗った時には午後九時半を回っていた。由香の書いた電車の乗り継ぎ案内図を頼りにして三回も乗り換え、目的の駅に到着したのは午後十一時半だった。駅から電話すると五分後に見慣れた車が目の前に来た。運転しているのは見慣れない若い男のようだったが、よく見ると由香だった。肩まであった髪をばっさり切って男性のように刈上げ、極端なショートカットにしている。僕は由香の長い髪が好きだったので、がっかりした。車は間もなく住宅街に入り、二階建ての木造家屋の前に停車した。由香は僕のスーツケースを持って、周囲をはばかるように家に入った。当然、社宅は小さなアパートだろうと思っていたのに、小さいながらも一戸建てだったので驚いた。社宅の家賃は月々僅か五千円で、電気・ガス・水道代も含まれているということだった。ということは、家賃は実質的にゼロ以下であり、素晴らしい待遇だ。僕はこんな転職先を見つけてくれた由香に感謝した。

 その夜、僕たちは久々のセックスを楽しんだ。といっても、僕のイレクトは数秒間しか続かなかったのでセックスとは言えないかもしれないが、僕たちはおたがいの身体を優しく愛撫しながら深い幸せな眠りに落ちた。

 翌日目がさめると頭が重く、時計の針は正午を指そうとしていた。

「到着早々で大変でしょうけど、今日は午後五時から私が先週から入っているサークルのパーティーがあるの。夫婦で参加申し込みしてあるから協力してね」

 由香がいつになく優しい口調で言ったので僕は快諾した。環境が変わって、由香の気持ちにも余裕が戻ったようだ。

「今日のパーティーは年一度の仮装パーティーなの。あなたの衣装はこれよ」

 由香はハンガーにかけた濃紺のロングドレスと、同じ素材のトップを指差して言った。

「な、なんだって。これ、女物じゃないか! いやだよ、女装するなんて」

 僕は首を激しく横に振って拒絶した。

「全員が女性は男装、男性は女装して出席するというルールなのよ。もしあなたが来てくれなかったら、私は二度とサークルに出席できなくなるわ。私はこのパーティーの為に髪の毛を刈上げたのよ。ね、一生のお願い」

 普段ならここで喧嘩になるはずだが、由香が女らしく「一生のお願い」などと首を傾けて頼むのは初めてのことで、僕はどぎまぎした。仮装パーティーの為に髪まで刈り上げるとは、理由は分からないがよほどの思い入れがあるのだろう。由香とのいい関係を長続きさせたいという気持ちが先に立って、結局、僕は首を縦に振るしかなかった。

 由香が男装するのは容易だった。髪の横と後ろの部分を刈り上げる大胆なショートカットの由香は、それだけで男性と見まちがう。背は高いが腰はあまり広くなく、ボーイッシュな骨格をしている。だから大学でも由香のファンの女の子は多かった。僕がひそかにあこがれていた一年下の亜希子から、
「あんた、由香先輩になれなれしくしすぎじゃない?」
と、敵みたいに言われて大ショックを受けたことがある。由香は稀に見るほどのペチャパイだったので、胸に晒しを巻いてカッターシャツにネクタイを絞めるとどこから見てもハンサムな若者になった。テレビドラマに出てくるホストクラブの売れっ子ホストのような雰囲気だ。

 僕は普段、ロングヘアをジェルで固めて精悍な感じのヘアスタイルにしていたが、まずシャンプーとリンスをして乾かした後、由香がハサミを使ってカットした。

「今ぐらいの長さが好きだから、あまり短くしないでよね」

 僕は器用にハサミを動かす由香に頼んだ。

「私の腕を信用しなさいって」

 十五分ほどして仕上がったが、全体の長さはあまり変わっておらず、どこをどうカットしたのか僕にはよく分からなかった。もう一度シャンプーとリンスをしてタオルで水分を取った後、由香がドライヤーとスプレーを風呂場に持ってきてブローしてくれた。鏡が無いのでどんなヘアスタイルになっているのか心配だったが、髪の毛がふわふわで宙に舞っているような感じだ。由香はもう一度ハサミを使って、細かいところを直した。

「さあ、出来上がりよ」

 僕は洗面所の鏡の前に立って驚いた。そこらへんのOLの頭が僕の身体にくっついているのかと思った。カットしたのに髪はむしろ長くなったような感じがする。顔を動かすと髪もさらさらふわふわ動いて落ち着かない。

 次は顔に取りかかった。僕の体毛はかなり薄いほうだが、シェービングを三日分ぐらいまとめてするつもりで入念に剃った。眉にはペンキのようなクリームを何回も重ね塗りしたが、僕の眉の端の方に太く固い毛が密集していて、完全には隠れないので、由香は剃刀を出して剃ろうとした。

「駄目だよ。剃刀で剃ったりしたら、生えてくるのに何日もかかるじゃないか。新しい職場に出勤するのに女のような眉をして行くわけにはいかないよ」

 僕は眉を手でふさいで叫んだ。

「生え際を少しそろえるだけよ。あんたの眉は端っこが太すぎて田舎ものみたいだから、以前から少し剃りたいと思っていたのよ。絶対に女みたいな眉で会社に行かせたりはしないことは約束してあげる」

「わかったよ。約束だよ」

 由香は起用に剃刀を使った。ちょっと剃りこみを入れすぎのように思ったが、僕からは鏡が見えないので何をされているかよくわからない。その後、もう一度眉の上にマットを塗りなおし、その上にファンデーションを塗り、さらに色々な化粧品を塗りたくった上にペンで眉毛を描いた。

 目の周囲も何種類ものペンやマスカラを何度も使って塗りたくられた。ペンをまぶたの裏側まで入れて線を描こうとするので僕は文句を言った。

「そんな際どいところまで化粧をするなんて、女ってきれい好きなのかと思ったら不潔なことをするんだな」

「きれいになるためには何だってするのよ。あんたもすぐに慣れるわ」

「慣れる必要なんか無いさ。あーあ、こんなの早く終わらせて顔を洗いたいな」

 僕がぶつぶつ言っている間も由香は手を動かしつづけ、最後に口紅を走らせて完成した。

「さあ、鏡をみてごらん」

 僕は鏡の前に行ってあっと驚いた。すごく可愛い、ちょっとケバイ感じの美人の顔がそこにあった。

「これ、本当に僕なの?」

「そう。キミの本当の姿なのよ。うれしい?」

 鏡を見ているうちに、タオルを巻いた僕の下半身の真中が前に突き出してピンピンしてきた。こんなに固くなるのは本当に久しぶりだ。

「こいつ、自分を見て欲情してるわ」
と由香が指をさして面白がった。

「パーティーの会場でスカートがこのタオルみたいになったらまずいわ。ガス抜きが必要ね」

 由香はコンドームを探し出して、僕にかぶせた。

「ほら、鏡を見ながらシコシコしなさい」

 由香は無理やり僕の右手をコンドームの上に握らせた。僕は仕方なく手を動かした。由香は部屋の隅に置いてあった紙袋の中から、大きなゴム製のオッパイを二個取り出した。皮膚の色に近いゴムのような樹脂で出来ているようだが、水を入れた風船のようにフニャフニャしている。

「これはシリコンの複合材で出来ていて、限りなくホンモノに近い感触なのよ」

 オッパイの凹面側に接着剤のような透明の液を塗って僕の胸にくっつけた。

「ちょっと両手で押さえていなさい」

 僕は両手でオッパイを持ち上げるような感じで押さえた。由香は紙袋から黒いブラジャーを取り出して僕の背中でとめた。紐が肩に食い込むようだ。きゅうくつなので肩を左右に振ると、ブラジャーの中の巨乳がゴムまりのように揺れる。

「このブラジャーについていたタグにDって書いてあったよ。ちょっと大きすぎない?」

「あんたの顔と体つきからすると、大きめの方がバランスがとれるのよ」

 次に由香は紙袋からコルセットを取り出した。

「さあ、息を大きく吸い込んで、それから吐いて」

 僕はコンドームを握っていた右手を一旦離した。言われるままに息を吐き終わったところで由香がコルセットをぎゅっと締め付けたので、息を吸うのも苦労するほどになった。その上に黒いスリップをかぶせられると、鏡の中の僕は見ていてドキドキするほど色っぽい女になった。コンドームの中は痛いほど固くなって、ずきずきしている。

「ほらほら、休んでないで手を動かしなさい」

 由香は両手で僕の右手を包むように握って上下に動かし、僕は間もなく、鏡の中の女が声を出してもだえるのを見ながら果ててしまった。

「犯したいほど艶めかしいわ」
そう言いながら由香はコンドームを上手に外して、新しいコンドームを被せた。

「一回では不安だから、二回抜きしておくわ。いいのよ、あんたは何もしなくても。私の言うことを聞いて女になってくれたお礼に、気持ちよくしてあげるから。あんたはそうやって身もだえしてなさい」

 一発目が終わって間もない、まだ敏感な僕のそれを右手で強く握って由香は乱暴にこね回し始めた。

「痛い。もっと優しくして。折れちゃうよ」

 垂直に動かすだけでなく、左右や上下の方向に限界をすぎるまで押さえつけようとするので、本当に折れるのではないかと心配で、僕はそのたびに半分本能的に体を動かして衝撃を和らげようとした。

「大丈夫よ、ちゃんと加減してるから。でも、くねくねと身もだえするあんたを見るのは快感ね。本当に色っぽいんだから。ほら、見てごらん」

 由香は僕に手鏡を渡した。鏡の中に映っているのは、安物のアダルトビデオによく出てくるような若い女で、アダルトビデオのセックスシーンそのもののような顔をしてもだえている。黒のすけすけのスリップの下には少し大きすぎる乳房を包んだ黒いブラジャーが揺れていて、右肩のスリップのひもが外れかけている。鏡の横にはハンサムな青年のなりをした由香が女を見下ろしている。

 僕は一瞬どれが自分なのか分からなくなって、鏡の中の顔を見ながら、わざと口を大きく開いてみた。すると鏡の中の赤いリップがちゃんと大きく開いた。安心すると同時に妙な気持ちになった。

 由香は右手をますます虐待的に動かしながら、左手を僕のおへそから脇腹に沿って動かし、更に手を上に滑らせて軽くバストを揉みあげるような動作をした。スリップのさらさらした感触が体の表面を走り、それが背筋にしびれ感を誘起して、右の太ももから耳にかけて鳥肌が立つのがわかった。シリコンのオッパイは接着剤で肌に密着していて、由香の手がバストを揉むと自分の胸が揉まれているような感触がした。鳥肌の立った僕の体を由香の手が何度か往復するうちに射精の波が押し寄せ、僕は泣くような声を出しながら行ってしまった。由香は僕が行ってからもしばらく右手のピストン運動を続けていたが、柔らかくなってしまうと僕にまたがるように膝をついて、両手で僕の腰から胸をなでてくれた。僕の体が反応すると、由香は同じ場所を執拗に攻めたので、僕の快感は数分間おさまらなかった。

「ありがとう」

 コンドームを処理する由香を見上げながら、僕は何と言っていいか適当な言葉が見つからず、ありがとうとだけ言ってしまった。

「私とセックスしようとしても立たないのに、女装をさせるとガチガチに立つのね」

「た、たまたまだよ」
と、僕が苦しまぎれに答えると、

「つまんないしゃれを言って! 可愛いんだから」
と由香は言って僕の睾丸を指で軽く弾いた。

 僕がトイレから出ると由香は僕に前にリボンのついたパンティーを手渡し、その上からきついガードルを二枚重ねにはかせた。さらにパンストをはくと、少し膨らんでいるかな、という程度で、厚めのナプキンをしていると言えば誰でも納得してくれそうな感じになった。

 由香の用意したドレスは僕の新しい体に不思議なほど完璧にフィットした。腰が狭すぎる点もカバーするようなデザインだったが、それ以上に顔とバストがフェミニンな輝きを発していて、鏡の中の女は完璧に女性的だった。

「女装させたら似合うだろうとは思っていたけれど、予想以上ね。惚れなおしたわ」
と由香は心底うれしそうに言った。

 そろそろ時間なので化粧に仕上げのタッチを加えた後、僕たちは家を出た。僕はヒールが高そうに見えて実は五センチ以下の赤いサンダルを、由香は中に七センチ以上のヒールが隠されたブーツを履いた。

 スカートをはいて車に乗るのは初めての経験だった。特に足首の上まであるロングドレスなので足さばきに苦労したが、結局お尻から先に滑り込ませて、スカートを膝の下でたくし上げながら足を持ち上げて助手席に座った。

 車が会場のビルの駐車場に到着すると、由香が手続きをする間車の中で待っているようにと僕に言った。五分ほどして由香が車に戻ってきた。

 由香は僕の両肩に手を置いて目を見つめた。

「自信を持つのよ。これなら誰にもばれないわ。サプライズ賞は確実ね。パーティーの最後にあなたを紹介して皆を驚かせるから、自分からは絶対にばらさないようにしてね。できるだけ高い声でしゃべるのよ、わかった?」

 僕は微笑んで頷いた。

「あ、それから、ちょっと予定外のことがあってね、全員仮装する手はずだったのが手違いがあって、仮装していないカップルが半分混じっているの。でも、何があってもニコニコしてるのよ。自分からは絶対ばらさないように、私が紹介するまで完璧に女で通すのよ。わかったわね」

「ええ、わかったわ、あなた」
と僕はおどけて言った。

「そうそうその調子。今の瞬間から俺が白石一馬、キミは俺の美人妻の由香だ」

 美人妻と言われて悪い気はしなかった。駐車場からビルの入り口まで歩いていくときは胸がドキドキして、顔が上気するのが自分にもわかった。心拍数は二百を超えていたかもしれない。人前に女装した姿をさらすなんて本来考えられないことだった。

 厚底のブーツのお陰で見上げるように背の高くなった由香に体をくっつけて隠れるように歩いた。

「さあ、入るぞ」
と、会場の入り口のドアの前で由香が言った。

「がんばるわ、あたし」
と僕も言って、二人は会場に入った。

 会場は立食形式で賑わっており、百人を越える着飾った男女がグラスを片手に談笑していたり、寿司のスタンドの横で舌鼓を打ったりしていた。仮装パーティーという言葉で想像していたよりは、おとなしい服装が大勢を占めており、男装はスーツかジャケットが殆どで、女装の方はツーピースからカクテルドレスまで千差万別だった。

「ねえ、ねえ。本当にここにいる人たちの半分が仮装しているの? 男装している女の人は殆どいないみたいよ。全員本物の男性に見えるわ」

 僕は由香をつかまえて、背伸びして耳元でささやいた。

「もっとよく見てたらわかるよ。そもそも俺が男装している女性に見えるか?」

 そう言われると確かに、由香は正真正銘のハンサムな男性に見えた。でも、年配の男性は全員、何度見ても体型も皮膚も骨格も男性に間違いないと思われた。女装した人々を観察すると、男性が女装しているようだと一目でわかる人もいたが、大部分の人々は見分けがつかず、非常にうまく女装しているなと感心しながら観察を続けた。

 由香は比較的年配の数人の男性(あるいは男装している女性かも知れないが)に近づき、男性さながらの声で、

「これが妻の由香です。昨夜到着しました」
と言って私を紹介した。

「妻の由香です。主人がお世話になっています」
と僕もすかさず演技をした。

「おきれいな奥さんだ。白石君、君もなかなかやり手だな」

 そう言われると僕も悪い気はしなかったが、由香と話しながら視線をちらちらと僕の胸に走らせるのが嫌らしい。明日僕が出勤して男性だとわかったら仰天するだろうなと思うとわくわくする。

 数歩離れてから由香が僕の耳にささやいた。
「うまい、その調子だ。相手は完全にキミを女と信じてたよ」

「でも、ちょっと変よ。あの人、あなたのことを白石君と呼んでいたわ。あなたは初対面じゃないんでしょう?」

「今日はツモリの会なんだ。役に成りきっているんだよ、きっと」

 その時、二十代後半のがっしりした体格の男性(あるいは男装している女性かもしれないが、どう見ても男性)が近づいてきた。

「白石君、美人の奥さんが来て、ますます仕事に精が出るな」

 由香はすかさず切り返した。

「先輩こそ早く彼女を作って下さいよ」

 僕も馬鹿のひとつ覚えのようにフォローした。

「主人がお世話になっています」

 その人物が寿司バーの方へと去った後、僕は由香に小声で聞いた。

「あの人、本物の男よね」

「あれは女ではあり得ないね」

「あの人もあなたのことを白石君って呼んでたわ。変よね」

「いいじゃないか。みんなが白石君と美人の奥さん、と呼んでくれるんだから」

 由香の返事は答えになってなかったが、「美人の奥さん」という言葉は何度聞いても快く響いて、小さな疑問など、どこかに吹き飛ばしてくれた。

 僕たちは長話をしてボロが出るのを避けるため、短い挨拶をする以外は人ごみから離れてカクテルを片手においしそうなチーズや惣菜を選んで楽しんでいた。由香は帰りも運転しないといけないので、もっぱらジュースを飲んでいた。

 二時間もするとみんなアルコールが回ってきてパーティーはますます盛会になった。元々お酒は好きだが弱い僕も、かなり回ってきたのでそれ以上飲まないようにした。顔が真っ赤になって、美人が台無しになっていないかと心配で壁にかかった鏡を見たが化粧のおかげで顔色には殆ど変化が無かった。

「おい、由香」
と由香が僕を引き寄せて言った。

「あなたに由香って言われると変な気がするわ」

「チーズをガツガツ食うから、口紅が落ちてきてるぞ。もうすぐサプライズの紹介があるからトイレでリップを直しておいで」

「まさか、女子トイレの方に行けって言うの?」

「時間が無いから、早くどっちでも好きなほうに行ってこいよ」

 丁度尿意が高まっていたので僕は勇気を出して女子トイレに走りこんだ。ところが、トイレの入り口には何人もの先客が並んでおり、僕は列の最後尾について待たなければならなかった。三分もするとトイレの入り口を通ることが出来たが、何と、トイレの中にはさらに十数名の列が続いていた。左右に五部屋ずつ、合計十の小部屋が並ぶ大規模なトイレだ。列は遅々として進まず、まだかまだかと思うと尿意がますます強くなるし、由香が待っていることを思って焦燥感が高まった。このままリップだけ直して由香の所に戻ろうかとも思ったが、本当に漏らしてしまって大勢の人に知れ渡ったら、この町にはいられなくなると思った。そのうちにお腹が痛くなって便意まで高まってきた。絶望感が最高潮に達したとき、左右の小部屋がほぼ一斉に開いて、列が七人も一気に進み、僕はトイレに入ることができた。

 ロングドレスとスリップの裾を口にくわえてから、パンスト、二重のガードル、パンティーを順次下ろすのは大変な作業だった。パンティーを下ろすか下ろさないかのうちに大と小が一気に炸裂して、便器の水がお尻にはねかえるのがわかった。ガードルを下ろすのに苦労していたとき隣の小部屋から小便の音が聞こえたが、男性の小便の音とは明らかに違っており、水道の蛇口からバケツに水を入れるような連続した鈍い音だった。真下に向けて、しかも途切れることなく一気に出してしまわないと、女でないことが音でばれるかもしれない。僕はペニスの先を指で真下に向けて、さっき聞いたのと同じ音が出るように工夫した。

 先程列に並んでいたときは考える余裕が無かったが、トイレに並んでいた人は全員どう見ても本物の女性だった。いくら仮装パーティーでも男性が女子トイレに入るのは問題かもしれない。後でサプライズの紹介をして僕が男であることがバレた時、僕を女子トイレで見かけたことを覚えている人はいないだろうかと心配になった。

 出すものを出して心身ともに爽快になったので、尻をトイレットペーパーで念入りに拭き、再び苦労してパンティーと二枚のガードルとパンストをはいてスリップとドレスを下ろした。小部屋を出て石鹸で手を洗ってからバッグから口紅を取り出し、リップを直した。後から後から、小部屋を出てくる女性たちが同じように手を洗って化粧を直すので僕は時々場所を譲りながら鏡に向かわなければならなかった。

 鏡の前のスペースが混んできた時、僕の右斜め後ろで三十代半ばの意地悪そうな顔の女性が立っているのが鏡の中に見えた。折り悪く目が合った時その女性が言った。

「混んでるんだから、きれいなお顔に見とれるのもほどほどにしていただけない?」

 その声は周囲の女性たちの興味を引きつけるのに十分なほど刺々しかったので、皆の目が一斉に鏡の中の僕に集まった。その視線に僕の体は凍り付いてしまって、右手が震えて口紅を落としてしまった。

「ご、ごめんなさい」

 僕は小さな声で謝った後、数秒間体が動かなかったが、慌ててしゃがんで床にころがった口紅を拾おうとした。その時、顔に見覚えのある上品な五十がらみの女性が口紅を拾い上げてくれた。

「白石さんの奥さんね。ご主人が探してらしたわよ」

 さきほど由香が挨拶した男性の横に立っていた女性だった。

「ありがとうございます」
と僕は心からお礼を言って足早にトイレから立ち去った。

 どうしよう。女子トイレにいた女性で十人以上が僕の顔と服装を見ているし、あの親切な奥さんからは白石さんと名指しで呼ばれた。後でサプライズで紹介されたら、僕は「女性トイレで口紅を塗っていた男」として町じゅうの話題になるに違いない。

 由香が僕を見つけて走ってきた。

「何してるんだ。前の人のスピーチが終わって、五分も前から司会者に呼ばれているのに」

「女子トイレが混んでて。それより、トイレの中で皆に顔を覚えられてしまったの。どうしよう。男性トイレに行くべきだった。今、皆の前で男性だと名乗り出たら警察に突き出されるかもしれない。逃げよう!」

 僕は由香の腕を引っ張って出口に向かおうとした。

 その時、司会者がマイクでアナウンスした。

「それでは次は新人紹介コーナーです。白石さん、どうぞ」

 司会者が僕たちのほうを差したので、皆が一斉に僕たちの方を向いた。スポットライトを当てられたようなもので、もう逃げられない。

「どうしよう、どうしよう……」

 僕は泣きそうだった。

「大丈夫。絶対にばれないから、黙ってついておいで」

「白石さん、どうぞ壇上へ」

 司会者の声が響いたので、僕は死刑台へと向かう囚人のように、由香について壇上に上った。由香はマイクを持って話し始めた。

「本日は素晴らしいパーティーで女房ともども楽しませて頂いております。今月入所させていただいた白石一馬でございます」

 あれっ、由香は何を言おうとしてるんだろう? 自分のことを白石一馬などと言って、最後の最後で「実は逆で」と種明かしするつもりなんだろうか?

「所長は大学の大先輩にあたりますが、私は卒業と同時に商社に入社し、それが自分の天職ではないと悟るのに数ヶ月かかりました。入所させていただいて二十日しか経ちませんが、毎日が充実しており、まさに私のやりたかった仕事であると実感して非常にハッピーです」

 入所して二十日間って、何のことだろう? これは卓球のクラブのパーティのはずなのに。由香はわけのわからないことをしゃべっている。

「実は今回転職に踏み切れたのは、今ここに立っている女房の由香のお陰です。私が転職したいと言い出したとき、女房は文句ひとつ言わず賛成してくれました。私が言うのも何ですが、女房は暖かい家庭と夫を大事にするというのが口癖の古いタイプの女で、来客はいつでも大歓迎ですので是非お気軽に遊びにおこし下さい。若輩者ですがよろしくお願いいたします」

 由香が深く礼をしたので僕も一緒に礼をした。割れるような拍手に包まれて由香が階段を下り、僕も後に続いた。

 最後のサプライズを言い出す前に挨拶が終わってしまったので、僕は拍子抜けしてしまった。壇上では所長さんの閉会の挨拶らしきものが始まっており全員黙って聞いていた。この後で、最後にサプライズの発表があるのだろうか? 女子トイレで口紅を拾ってくれたのは、今挨拶している所長さんの奥さんだ。後でサプライズの発表をして僕の正体が明かされたら、もう絶体絶命だ。このまま白石の妻と思われたまま帰ることができればどんなにいいだろう……。

 どきどきしているうちに所長の挨拶が終わった。

「それでは話もつきませんが今日はそろそろお開きにさせていただきたいと存じます。皆さま気を付けてお帰りください」

 司会者が締めくくりのアナウンスをして、みんな帰り始めた。

「ねえ、サプライズはいつやるの? 女子トイレで見られたばかりだから今日じゃないほうがありがたいんだけど……」

 僕が由香に心配そうに聞くと、由香は僕の肩に右手を置いて微笑みながら言った。

「今のがサプライズさ。もう終わったんだよ」

 僕は混乱した。由香の勝ち誇ったような目を見ているうちに、僕の頭の中で謎が少しずつ解けていった。

「そうか、これは卓球の会のパーティーなんかじゃなかったんだ」
と、僕は独り言のように言った。これは研究所の従業員と家族のパーティーで、仮装パーティーではなく、普通のパーティーだったのだ。半分が仮装しているなんて真っ赤なうそで、仮装していたのは由香と僕だけだったのだ!

「もしかして、これはワナだったりする?」

「本当に今まで気づかなかったのか?」

 由香があきれたように言った時、全てのなぞが解けた。由香は二十日も前に白石一馬のふりをして研究所に勤務し始め、今日僕を自分の女房として職場の全員に紹介したのだ。みんな由香のことを白石君と呼んでいた。僕の顔は白石の女房の由香として大勢に認知されてしまった。今更、実は男でパーティーには女装して出席したなどと言い出せるはずが無い。

 これで、女子トイレで見られたことは何の問題もなくなった。その点だけは正直なところほっとするが、パーティーが終わってからも嘘をつき続けなければならない。明日からどうすれば良いんだろう? 由香がここに勤めている限り、僕は女房のふりをし続けなければならないのだろうか……。

 数秒後、頭の中で全てがつながった。そうだったのか! 由香が「夫婦の関係の完全な解決方法を思いついた」と言っていたのは、こういう謀略だったのか。あの時すでに由香は今回の作戦の計画を立てていたのだ。

 わざわざ昨夜遅く到着するように飛行機の切符を送ってきたのもこのパーティーに女性として出席するまで人目に触れさせない為だったのだ。でも、これはあまりにも壮大な謀略だ。今日のところはこれで済むにしても明日から毎日、どうするつもりなのだろうか? 僕に毎日厚化粧して巨大なシリコンの乳房をつけたまま生活しろとでもいうのだろうか。まさか……。

 僕はどうしたらいいのか見当がつかないまま、由香にくっついて立って、帰る人々に一緒に挨拶した。会場に人がまばらになった頃、由香と僕は駐車場に向かった。車の中では無言だった。


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